7羽目「信じたかった」
ファーストフード店の袋を片手に「佐伯」と書かれた表札の前に立っていた。
あれから日も巡り土曜日。新に勉強を教えると約束した日。何処でやるか相談した結果、彼の自宅でということになったのだ。
呼び鈴を押そうとしたその時、玄関の真上にある窓が勢いよく開けられた。
「一希、やっと来たな」
見上げると少年のような笑顔の新が窓から顔を出していた。僕が片手を上げて挨拶をすると、彼は「ちょい待ってて」と言い残し窓から引っ込んだ。
新の家には何度か訪れたことがある。小学生の頃は未帆と一緒によく遊びに来ていたが、中学校に上がると部活などの関係上その頻度は減っていった。多分、家に上がるのは中学最後の夏休み以来だ。
玄関から物音がしたため視線を向けると、ラフな格好をした新が外に出てきた。
「入って来ていいよ」
手招きをする彼に「お邪魔します」と言いつつ玄関の中へと足を踏み入れた。どうやら彼の両親は出掛けているらしく、その代わりに佐伯家の飼い猫「ノゾム」が奥からやってきた。久し振りに見たノゾムは全体的に少し丸くなったように思える。
ノゾムの前にしゃがみ込んで頭を撫でている新に、ファーストフードが入った袋を差し出した。
「これ、いろいろ迷惑かけたから」
「まじ? サンキュー!」
袋を受け取り嬉しそうな顔で新は言った。
その後、新の部屋へとやってきた。長いこと来ていなかった彼の部屋。しかし、最後に来た時とほとんど変わっていなかった。中学最後の夏休みに僕と未帆と新の3人、この部屋で受験勉強をしたことを思い出した。何だかタイムスリップしたみたいだ。
「そんな物珍しそうにして。何回も来てるじゃん」
新は笑い交じりにそう言いながら首の後ろを掻いた。
何も答えずただ笑みを浮かべる僕に、「何だよ」と照れ臭そうにする彼がいた。
しばらくの間中学時代の思い出に浸ったり、先ほど渡したファーストフードを食べながら駄弁っていた。
本格的に勉強を始めたのはそれから1時間程経った頃だった。
机の上に沢山の教科書や参考書を並べた。「まずは基本的なことから教えて」という新のリクエストにより、大雑把ではあるが一つ一つ教えていった。
「ここはこの公式を応用した方がはやいし、慣れれば楽だと思う」
説明をしながら新の方を見た。少し前から反応が薄くなったなと思っていたが案の定聞いていないらしい。
ただ一点を見つめる彼の顔の前で手をひらひらと揺らした。
「新ー? 聞いてんの?」
僕の声にはっとした新は、いかにも聞いていた風を装いでたらめな式をノートに書き出した。
「こうだろ! 確かに分かりやすいな」
「全然違うんだけど。……勉強する気ある?」
「勿論! 当たり前じゃないすかー!」
僕のご機嫌を取ろうと肩揉みをしてくる新に深い溜め息を吐いた。本当に覚える気があるのか疑いたくなる。
それからすぐのことだった。静かな部屋に携帯の着信を告げるバイブレーションが鳴り響いた。
僕と新は顔を見合わせた。彼が自分ではないというように首を振ったため、僕は自分の携帯を探した。
教科書の山に埋もれていた携帯を手に取った。画面には未帆と表示されている。
「もしもし」
『あ……一希、今どこにいるの?』
電話に出て、未帆の第一声がそれだった。
新の家にいる、そう答えると彼女は少しだけ沈黙した。
『……そ、そっか』
未帆から電話を掛けてくるなんて珍しいことだった。何かあったのだろうか。もしかしてまた母に、なんて不安も過った。
「何かあったの?」
『何もないよ。邪魔してごめんね』
何かあっても平気なふりをするのはいつものことだ。しかし、未帆の声のトーンは明るく、何か深刻な用事があったわけではないと感じた。どうやら余計な心配はいらなかったみたいだ。
電話を切って平然と勉強を再開する僕を新はじっと見ていた。
「帰らなくていいの? 電話、未帆だろ?」
大丈夫だよ、と軽い返事をしていると、僕の中に少しだけ気になることが浮上した。
新が未帆にふられてからまだ日は浅い。もう彼女のことは何とも思っていないのだろうか。
「未帆のことはもういいの?」
傷を抉るようなことになるのは分かっている。でも、彼の現在の気持ちが知りたかった。
新から返ってきたのはなんとも煮え切らない言葉だった。
「んー……わかんね」
わかんねって何だよ。僕のそんな心の声を察したのか、新はこちらを見て情けない笑みを溢した。
「……未帆は周りをよく見てるよな」
彼は小さな声で言った。
「そう? 鈍感だと思うけど」
僕がそう言うと今度は寂しそうにか細く笑う新。そして彼は独り言のように続けた。
「それは一希のほうでしょ」
時間はあっという間に過ぎ、帰る頃には外はすっかり暗くなっていた。
「今日はありがとな」
そう言って新は笑顔で手を振っていた。家まで送ると言われたがさすがに断った。僕はお前の彼女じゃないんだから、と言いたくなった。
家に帰るとリビングの電気が付いており、テレビの音が漏れていた。
玄関が閉まる音に反応した母が、「おかえり」と言ったのが分かった。
母に返事をしてから、未帆の部屋へと向かった。
ノックをして未帆の部屋へと入った。
彼女は机に向かって熱心に勉強をしていた。少しタイミングが悪かったかなと思った。
「あ、おかえり」
未帆は柔らかい笑顔で言った。
ペンを置いて僕の方に体を向けた彼女に昼間の電話のことを尋ねた。
彼女は「へっ!?」と若干裏返った声を上げ、恥ずかしそうに髪の毛をいじった。
「あ、いや……本当に大した用事じゃないの。今日は一希とずっと一緒にいたいなって……たまにはそういう日もいいかなとか」
聞いているこちらの方が照れてしまう。火照った顔を見られるのは何だか悔しくて俯いた。
「そんなのこれからいくらでも出来るじゃん……」
「うん。まあ、そうだね」
そう言って僕の目の前にくるとそのままぎゅっと抱きついてきた。
「……母さん下にいるけど」
いつもなら絶対に触れてこないくせに。何か心境の変化でもあったのだろうか。
そんなことを考えながら彼女の体に両腕を回した。
その瞬間、甘い匂いが鼻をくすぐる。
僕の腕の中に収まる小さな体は、力を入れれば壊れてしまいそうで。
幼い頃は確かに僕の姉だった。泣き虫だった僕の目には強く逞しいヒーローのように映っていた。
未帆とそれ以外の女の子は全く別の生き物に見えていたのだ。
でも、本当は普通の女の子と何も変わらない、弱く、守られるべき存在だった。
きっと、それに気づいた時から僕は特別な感情を持ち始めたんだ。
未帆に回した腕の力をほんの少しだけ強くした。
叶うものならずっとこうしていていたかったけれど、1階から母に呼ばれたため僕達は慌てて離れた。
リビングに入ると母がにこりと笑った。
ごめんね、今日お弁当なの。そう申し訳なさそうに言う母に僕は軽く頷いた。
それから母の目線は僕の斜め後ろに向けられた。凍てついた瞳で未帆を見ている。
未帆は体を縮こませて僕の背後へと隠れるように下がった。
「なんだあんたいたの?」
母の声が重たく響く。
数分前までの幸福で温かい時間を一瞬で消し去ってしまうような冷たい空気が僕達を覆う。
振り返ると未帆は泣きそうな顔をしていた。涙の溜まったその瞳はどこか悔しそうでもあった。
「音も立てずにいるなんて、薄気味悪い子」
母の言葉に己の心臓が抉られるような痛みを感じた。
未帆は口を開いて何かを言いかけたが、母の威圧的な態度に唇を結びリビングから去って行った。
階段を駆け上がる未帆の足音に母は顔をしかめた。
「……うるさいわねえ」
そう言ってから、母はスーパー袋に入っていた2人分の弁当をテーブルの上に並べた。
僕は拳を握りしめた。もうさすがに黙っていられない。母はどれだけ未帆を虚仮にすれば気が済むのだろう。
未帆には僕しかいない、それを未帆自身に分からせるために母の態度は都合がいい。今まで確かにそう思ってきた。
最低だ。未帆が悲しんでいるのを沢山見てきたはずなのに、僕はいつも自分のことしか考えていない。
どうしようもなく腹が立った。母に、僕自身に。
気づいたら僕は食卓に手のひらを強く打ち付けていた。
「ど、どうしたの? 早く食べようね」
うろたえる母。僕は少しの間意識的に呼吸を繰り返した後、声を発した。
「……母さん最近おかしいよ」
母は目を見開いた。
「いや、ずっと前から。何で未帆に対してそんなにきつく当たるんだよ!? 未帆が父さんによく懐いてたから? だから目の敵にしてんのかよ」
次から次へと言葉が唇から溢れて止まらなかった。今まで胸の中に無理矢理溜め込んでいたものが一気に外へと押し出されるようだった。
「それに、音も立てずに薄気味悪いって何? それは誰のせいだと思ってるんだよ!」
言い終えた僕は息が上がっていた。母に対する恐れと怒りから、酸素を上手く肺に取り入れられなかった。
「一希……あなたまで私を責めるの?」
それに僕は何も答えず母を睨んだ。すると母はたちまち顔を歪めた。
「あなたまで私が悪いって言うの!?」
母はまるで泣き叫ぶように言葉を吐き捨てると、食卓の上にあった弁当を両手で勢いよく払った。弁当は床の上に叩き落とされ、中身があちこちに飛び散る。
両手で顔を覆って嗚咽する母に少しだけ胸が痛んだ。
父のことまで持ち出して母ばかりを責めるのは間違っているのかもしれない。
僕はリビングから出て静かに扉を閉めた。母の様子が気になったけれど、今は真面に話せる状態ではない。
大丈夫。母も大人だ。僕が初めて刃向かったんだ。きっと変わってくれるはず。
そう、信じたかった。