6羽目
職員室で担任から半ば強引に早退の許可を得た後、足早に自宅へと向かった。
家に入った瞬間、閉め切られたリビングの扉の向こうから激しい咳が聞こえてきた。
僕は一度大きく呼吸をしてゆっくりとその扉を開けた。
リビングにぽつんと置いてあるソファーに未帆は座っていた。僕の存在に気づくと彼女は目を見開いた。僕が今ここにいることにとても驚いている様子だった。
熱のせいか顔が赤い未帆。どう見ても体調がよくなったようには思えない。メールの内容はやはり心配を掛けまいとしたものだったらしい。
「何で起きてるの」
未帆に近づきながら言った。
「喉渇いたから……でも階段上るのが辛くて……」
そう未帆は言いながら眉の端を下げて困ったような顔を見せた。それを聞いて僕は持っていた鞄を床の上へ無造作に置いた。
しょうがないな、と呟いてからソファーに座る彼女の腰と背中に両腕を回し正面から抱き上げた。
「えっ、か、一希!」
「いいから。辛いんだろ」
慌てふためく未帆を落とさないように、両腕の力を強めてから歩き出した。彼女は抵抗することに疲れてしまったのか、僕の肩に寄り掛かって唸るような情けない声を漏らした。
「……重くない?」
ぐったりとした問いかけに、「全然」と返事をすると未帆はそれ以上何も言わなかった。
頭まで布団をすっぽりとかぶり微動だにしない未帆に、いくつかの言葉を投げ掛けた。何か食べたのか、薬は飲んだのか、体調が少しはよくなったのか、彼女はそれらの質問全て首を縦に振ることはなかった。
ごめんね、と小さく発した未帆の頭を布団の上から撫でた。何故、未帆が謝るのだろうか。自分の体調を完璧に管理できる人間なんていないのだから、風邪を引いてしまうのは仕方のないことなのに。もし夜に出歩いていたことで体調を崩してしまったのだとしたら、本来謝るべきなのは僕の方だ。僕が彼女にそうさせたようなものなのだから。
「何が食べたい? 作るよ」
そう問いかけると未帆は布団から片腕を出した。彼女の手は何かを探すようにしばらく宙を掻き、僕の手にぶつかると動き回るのを止めた。そして、彼女の手のひらが僕の指先をぎゅっと握った。
「何も……ここにいて一希」
「お粥でいい?」
「ここにいて」僕が何を言ってもそう繰り返す未帆に溜め息を吐いた。頭まで覆っていた布団を捲ると、拗ねたように頬を膨らます彼女の姿が目に入った。
「分かったよ……」
僕は諦めて未帆のベッドの隣に腰を下ろした。
「何か食べて薬飲まないと、いつまでも治らないよ」
「分かってるよー」
未帆はそう答えると僕の指先を一旦離し、今度は手のひらを強く握った。
「一希の手、あったかい……」
「心が冷たいからだよ」
僕の返答に首を左右に動かす未帆。
「そんなことないよ。一希は優しいもん」
彼女の言葉に僕は眉を寄せた。
もし、僕が今までずっと未帆の味方でいたことを優しいと言っているのなら、それは違う。それは、ただのエゴだ。彼女から自分の足元へと視線を移動させ俯いた。
ほんの少しの沈黙が訪れた後、未帆は何かを決意したようにゆっくり呼吸をしてから、強く握っていた僕の手をすうっと離した。
「告白のこと騙すつもりは本当になかったの」
未帆の口から発せられたそんな言葉。顔を上げると彼女の大きな瞳が真っ直ぐこちらを見ていて、その言葉に嘘偽りはないと訴えてくる。
「私の一番は昔からずっと一希だよ」
嘘じゃないよ、とはにかむ未帆に僕はこくりと頷いた。
「でも……新も大切な存在なの」
今まで新はどんな時も力を貸してくれた。挫けそうな時、支えてくれた。彼を大切に思っていたのは未帆も同じだろう。
「なのに……、私は2人に酷いことした。ごめんなさい」
いつの間にか水分が溜まっている未帆の瞳。今にも水玉が零れ落ちてしまいそうだ。
「もう絶対こんな間違ったことはしないって誓う。怒ってるなら許してもらうまで何だってする。だから、あの……」
未帆の震える声が、か細くなって消えていく。彼女は強く唇を噛み締めてからもう一度何かを伝えようとした。しかし、彼女の喉の奥から出されたものは言葉とはいえない音だった。
彼女が話せる状態になるまで、僕はじっと待っていた。
「……嫌いに、ならないで……お願い」
やっと聞けた言葉は嗚咽交じりで切れ切れなものだった。彼女のまなじりから溢れ出た雫が、白い肌に細い線を残しながら落ちていく。そうやって引っ切り無しに彼女の頬を流れる涙を、僕は無意識のうちに親指で拭っていた。
「……もういいよ」
僕の言葉に未帆は目を見開いて怯えるような顔をした。まだ大分熱を持っている彼女の額に唇を落とし、汗で濡れた前髪に触れた。
僕がたった今零した「もういいよ」は、拒絶や諦めではない。分かってるからという意味合いを込めて言ったものだ。
未帆はようやくそれを感じ取ってくれたのか、強張っていた表情がだんだんと和らいでいった。そして彼女は瞼を閉じ、落ち着いた声のトーンで話し始めた。
「ずっと考えてた。何が一番いいんだろうって」
うん、と相槌を打ちながら、未帆の乱れた前髪を指先で直していった。
「でも、いくら考えても分からなくて……だって新は……」
あれ、と異変に気づいたのはそれからすぐのことだった。規則的に聞こえてくる呼吸音。未帆は話の途中で気持ち良さそうに寝息をたてていた。
何を言おうとしたのか続きが少し気になったが、すやすやと眠る彼女をわざわざ起こそうとは思わなかった。
枕元にみかんゼリーと風邪薬、コップ一杯の水を置いて部屋から出た。
翌日、教室へ入るとすでに来ていた新が「あ!」と声を上げ駆け寄ってきた。
「昨日は何で早退したんですかー? 香坂君は」
僕の肩へ腕を回しながら新は態とらしく他人行儀な言い方をしてきた。未帆の体調が心配だったから早退した、なんて答えたらどうせまたシスコンと言われるのがオチだ。
何も答えずにいる僕を見て、新は肩に回していた腕を首の方へずらした。その瞬間に僕の口から声が漏れる。
「未帆が心配だったのは分かるけど、“意欲が湧かないので帰ります”ってどんな早退理由だよ」
そう呆れたように笑いながら言う新。体調が悪い様には見えないと言われてしまい、咄嗟に思いついたものがこれしかなかった。我ながら酷い。もう少し真面な理由は浮かばなかったのだろうか。
「よく早退できたな……まあ、おかげで俺が担任に嫌味言われたんだけど」
「ごめん」僕が軽く頭を下げながら謝ると、新は下手な咳払いをして腕を解いた。
「それで、未帆の方は大丈夫なわけ?」
何があったか知らないけど、と新は言いながら大きく伸びをした。
「うん、迷惑かけて悪い」
それを聞いた彼は何回か頷いて「そっか」と息を吐きながら言った。
ふと、僕は思い出した。新に勉強を教えるという約束のことを。そして、昨日それをすっぽかしたことも。
始業を告げる鐘が鳴り、自分の席へ戻ろうとする新を呼び止めた。
「勉強教えるの土曜日でもいい? この前約束したやつ」
新は目を細くして柔らかい笑顔で「おう」と返事をした。
釣られて上がる口角。彼のせいで乱れた襟元を直しつつ席に着いた。