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5羽目「どんなものでも切り捨てる」

「一希、ちょっと来てー」

 1階から聞こえてきた母の声に返事をし、階段を下りていった。

 どうやら夕食の準備を手伝ってほしかったらしい。僕はそれを二つ返事で引き受けた。

「ごめんね、手伝ってもらっちゃって」

 母はガスこんろの火を調節しながら申し訳なさそうに言った。

「いや」と僕は軽い返事をして、テーブルの上に箸や食器などを並べた。

 ふと、時計に目を向けると8時近くを示していた。溜め息にも似た深呼吸をしてから、他にやることはあるのか聞いた。

「もう大丈夫、ありがとね」

 母はそれから僕と同じように時計を見た。8を指そうとしている針に不愉快そうな顔で深い溜め息を吐いた。

「ねえ、あの子最近帰りが遅いと思わない?」

 母はそう言って、未帆がいつも食事をする際に座っている椅子を横目で睨んだ。

 告白のことを問い詰めた次の日から未帆の帰りが遅くなった。僕よりも早く学校から出ているはずなのに、彼女が帰宅するのは8時を過ぎてからだ。朝だって、僕が起きる頃にはもう身支度を終えている。

 それは全て僕が原因だって分かっている。彼女の言葉を最後まで聞くべきだったかと後悔もしている。でも────。

「一希……」

 母の声にはっとなり、慌てて「何?」と答えた。

 だが、その瞬間僕はぞっとした。母の目が生気を失った(ろう)人形のそれみたいだったからだ。僕は目を逸らせなかった。全身が金縛りにあったように動けず、ぐっと息をのんだ。

「先に食べちゃおうね」

 そう言った母の表情は穏やかさを取り戻していた。本当に同じ人物なのかと疑いたくなるほど、今の母に先ほどの雰囲気は感じられなかった。

「ん、うん……」僕は喉の奥から声を絞り出すように答えた。



 定期試験2週間前となり、教室内は少しの緊張感に包まれていた。

 前の席に横向きで座る新は、教科書をぱらぱらとめくりながら唸っていた。

「今回も点取れなかったら、まじで進級が危うくなるんだよなあ……」

 そう遠くの方を見つめながら言う新。彼は昔から運動は何でもそつなくこなすが、勉強面の方はからきし駄目だった。

「なあー、一希」新はすがるように続けた。「勉強教えて……」

「いいよ。今日は委員会あるし、明日の放課後とかでいいなら」

 僕が間を置かずに返事をすると、新は口を開けたまま静止していた。そして、「いいの?」と恐る恐る問いかけてきた。

「この間の借りもあるし、それくらい別に」

 僕の言葉に新の顔がこぼれそうなほどの笑みに変わった。「やったー!」と大袈裟に喜ぶ彼を見ていたら、そこまで喜ばなくてもいいのに、と恥ずかしくなった。

「あれ、未帆だ」

 新はロッカー側の後ろの扉に向かって唐突に言った。僕は反射的に扉の方に視線を向けた。そこには彼の言った通り未帆の姿があった。

「新……」

 彼女はそのままの位置から新を呼んだ。新はまさか自分が呼ばれると思っていなかったのか、大きく目を開いた。

「え、俺? どした」

 新はそう言いながら未帆のもとへ向かった。2人は少しの間何かを話した後、教室を離れていった。

 未帆はちらりとも僕のことを見なかった。


「ふられてきましたー」

 数分後、教室へと戻ってきた新の第一声がそれだ。

 正直、「何故?」と思った。未帆が何を考えているのか分からなかった。どうして今になって新をふったのだろう。

「そうは言っても自信あったんだけど」

 無理だったかー、と新は苦笑いをしながら自分の前髪をくしゃっとした。



 翌朝、目が覚めると未帆の部屋から話し声が聞こえてきた。自室を出て目に入ったのは、腰に手を当て呆れたような顔をする母の姿。

「何、あんた休むの」

 母の低く威圧的な声が響いた。僕は母の後ろを通り過ぎ、階段を下りていった。ごほごほと咳を繰り返す未帆が「ごめんなさい」と言ったのが分かった。

 朝食の際、母から、未帆は風邪を引いたと聞かされた。

「遊んでばかりいるから(ばち)があたったのよ」

 母は腹立たしそうに言った。母の口から未帆へと吐き出されるのはいつだって咎めの言葉ばかりだ。

 時々、母がとても恐ろしくなる。僕に見せる顔も未帆に見せる顔も、本当は全て仮物なんじゃないかと思う。仮面の下には、もっと恐ろしい得体の知れない何かが潜んでいる気がするのだ。


 授業中、黒板に書かれた文字を大体ノートに写したところで、窓の外へと視線を向けた。

 真っ青な天上の海をいくつかの雲がゆうゆうと流れていく。グラウンドではジャージ姿の生徒達が気怠げに走っている。

 ごめんなさい、という未帆の苦しそうな声が僕の耳からずっと離れない。彼女の笑った顔を最後に見たのはいつだったか。

「香坂、聞こえてるかー」

 突然耳に入ってきたその声に、僕は慌てて黒板の方に視線を戻した。教壇に立っている教師が、大丈夫か、とでも言いたげな顔でこちらを見ている。どうやら何度も呼ばれていたらしい。

「あ……すいません」


「何かあった?」

 休み時間、溜め息を吐きながらうなだれていると新は心配そうに問いかけてきた。

 僕は少しの間沈黙した後、「何もない」と言って背筋を伸ばした。新はその答えに納得していないようだったが、僕は素知らぬ顔で頬杖をついた。

「分かった、未帆だろ」

 新が突然そんなことを言い出すものだから、思わず肩がぴくりと動く。察しのいい彼はすぐに少しの動揺を見抜いた。

「当たり? もー、シスコンだなー」

 新はそう言いながら憎たらしい笑みを見せる。図星を指されて僕は何も言い返せなかった。

 新が姉弟(ぼくたち)の関係に気づくのも時間の問題かもしれない。

「佐伯ー、ちょっといい?」

 クラスメイトに呼ばれ、新は返事をしつつ僕の席から離れていった。彼が側から居なくなったことを確認し、制服のポケットから携帯を取り出した。

 メール作成画面を開き、宛て先を未帆に設定した。本文を打ち込んだり消したりを何度か繰り返した末、「体調はどう?」と短い言葉を送った。

 それから数分が経った頃未帆からの返信がきた。

『元気になったよ』

 僕はその言葉に対して素直に喜べなかった。

 未帆は昔からそうだった。周りに心配を掛けないように、たとえ辛くても大丈夫だと言うのだ。今だってきっとそうだ。

 画面に表示された「元気になったよ」の文字をしばらく眺めていた。


 次の授業が行われる教室へ皆が続々と移動していく中、僕は席を立たずに携帯をぎゅっと握りしめていた。

 近づいてくる新に向けて発した言葉は自分でも意外なもので、それは自然と口から零れてしまったのだ。

「早退する」

 僕の発言に新は目を丸くした。

「ごめん、勉強の件は今度でお願い」

 そう言って席を立ち、鞄を手に持った。新はその行動に思考が追いついていなかったのか、数秒遅れてから僕を引き止めた。

「は、何で!? 一希!」

 それが耳へと届いた時、僕はすでに廊下へ出ていた。


 結局、この(ざま)なんだ。

 頭の片隅にはいつも必ず未帆の姿があって、それはこの先も変わらない。

 たとえばの話、未帆とそれ以外全てのものを天秤に掛けたとしても、僕が選ぶのはきっと前者だ。それに迷いや恐れはない。

 僕はきっと彼女のためならどんなものでも切り捨てる。たとえそれが悲しい結末を生み出すのだとしても。

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