3話「嘘つき」
自室のベッドで横になって携帯を触っていると、玄関が開く音がした。
小さな音で控えめに家の中へと入ってきたのは、未帆に間違いないだろう。母に「うるさい」と怒鳴られて以来声の大きさや足音、すべての動作の音を抑えるようになったのだ。
段々と近づいてくる微かな足音は僕の部屋の前で止まった。
携帯を枕元に置いてから扉を開けると、鞄を持ったまま俯く未帆の姿があった。
「……入れば」
部屋へ入るように促すと、彼女はおずおずと足を踏み入れた。
「遅かったね」
そう言ってベッドの上に腰を下ろして同じようにそうする彼女を見た。下を向いているため、髪の毛で顔が隠れている。
僕は前のめりになって顔を覗き込んだ。僕と目が合うと素早く逸らしたが、再びこちらを見た。
「どこにいたの?」
そんなの分かりきっている。それでもあえて知らないふりをした。
彼女は伏し目がちに「職員室」と答えた。僕はため息を吐いて膝の上で頬杖をついた。
「嘘つき」
本当は新に呼ばれてたくせに。そう言うと彼女の体が大きく飛び跳ねた。
「付き合うの?」
「付き合わないよ! 新は友達だもん……」
僕の言葉に彼女は首を左右に激しく振りながら否定した。その仕草を見て心底ほっとする自分がいた。
だが、今後2人がそうならないという保証はどこにもない。新が本気で来た時、果たして僕の隣に彼女は変わらずいるのだろうか。
「ごめんなさい。明日はちゃんと教室で待ってるから……」
そう言って彼女は立ち上がった。
今日は本当に何もする気はなかった。昨日の今日で彼女の体が心配だし、無理をさせたくなかった。ここに招き入れたのもそういうことをするわけじゃない。話をしたらこのまま彼女を自室に返すつもりだった。
彼女が嘘をつかなければ。
僕は手を伸ばして彼女の手首を引っ張った。
「えっ、何ーー⁉︎」
彼女はバランスを失って背中から倒れこみ、僕の足の間に勢いよく沈み込んだ。
彼女に逃げられないよう片腕でお腹の辺りを固定し、もう片方の手で胸元のリボンを解き下へ落とした。
「う、嘘つき! もう強引なことしないって……っ!」
信じられないというような口調で彼女は言った。
「嘘つきは未帆の方だよ。告白のことどうしてごまかしたの? 黙ってればバレないとでも思った?」
「それは……」
言葉に詰まる彼女の首筋に手を伸ばし、そこに貼ってあった絆創膏を剥がした。僕が2日前につけた痕は今もなお残っている。
「薄くなってるね」
2日前のあの時に比べ、内出血をしている範囲が狭まっていた。
ふと、あることを思いつき、彼女のワイシャツをずらしてその内出血のところへ顔を寄せていった。
「だ、だめ!」
僕がやろうとしている行為が分かったのか甲高い声が聞こえてきた。
でも、彼女が喚こうが関係ない。僕は消えかけた痕の上へ強引に唇を押し付けた。
耳元ですすり泣く声が聞こえる。そんな鼓膜の刺激さえも、今の僕には独占欲を満たすための材料と化してしまう。
唇を離すと以前とは比べ物にならないほど赤黒い痣のようなものが出来ていた。
これならきっとしばらく消えることはないだろう。
「ねえ……もう離してよ……」
「まだ、だめ」
懇願する彼女の顎を掴んでこちらを向かせ、そのまま唇を奪った。
甘噛みするように段々とキスを深くしていく。
そうしていると彼女の体から徐々に力が抜けていった。
「お母さん帰って来ちゃう……」
唇を解放すると、彼女はぽつりと呟いた。
「今日遅くなるって言ってたじゃん。聞いてなかったの?」
「聞いてたよ……でも、きっと今日は早く帰ってくるよ」
まさか、僕はせせら笑った。
どうせなんの根拠もない逃げるための口実だと思った。
でも、次の瞬間だった。
がちゃりと玄関の鍵が開く音が聞こえた。
「嘘だ……」
無意識に口から溢れた言葉だった。
未帆の言う通り、母が帰ってきたのだ。
今朝確かに、今日は遅くなる、と聞いた。何故こんなにも帰宅が早いのだろう。
母は一階を行ったり来たりした後、階段を上ってきた。母の部屋は一階にあるため、僕達に用が無い限りこっちには来ない。
うろたえる未帆にその場で座るよう促し、勉強机の上にあった数学の教科書を手に取った。2人で勉強をしていたと思わせるために。
母はノックもせずに勢いよく扉を開けた。
氷みたいな酷く冷たい瞳が未帆を見下ろしている。そして彼女から僕へと視線が移された。
「……何だ、帰ってたの? 真っ暗だったから居ないのかと思っちゃった」
母は無理矢理貼り付けたような笑顔で続けた。
「やっぱり今日早く帰れてね。夕ご飯出来たら呼ぶからね」
それを言い終えると母は部屋から出て行った。
とりあえずやり過ごすことが出来たので、僕はほっと安堵のため息を吐いていた。
あと数秒遅れていたらどうなっていたことか。
「どうしよう……」
未帆はまだ不安が拭えないのか、自分の胸元を押さえながらそう言った。
「大丈夫だよ。ばれてない」
「違う……違うの。私、リボン……リボンしてなかった」
震える声で彼女は言う。
床に落ちているリボンに僕達の視線が集まった。
「大丈夫。何も心配いらない」
リボンを拾い上げ、彼女へと返した。
この時の僕にはさしてそれが重要なこととは思えなかったけれど、彼女はしばらく青い顔をしていた。
次の日、学校へ行くと普段と変わらない新の姿があった。僕に気づくと明るい笑顔で「おはよ」と言った。
「……何か言いたいことない?」
何の脈絡もなく彼に問いかけた。
「言いたいこと? 別にない……いや、ある! 古典のノート見せて〜」
はっとして猫撫で声で仕様も無いことを要求してきた彼に、「次から金取るよ」と毒を吐きつつノートを押し付けた。
「さんきゅ! 今度なんか奢るわ」
それから彼は他愛もない話をし出した。昨日のテレビに出ていた女優がどうとか、来週発売のゲームの新作がどうとかそんな話ばかりで、未帆へ告白したことについて一切触れようとしない。
腹が立った。こいつはきっと知らないんだ。僕がこんなに焦っていることを。
「それでさ、めっちゃうけたんだけどーー」
「ごめん。一人にして」
笑顔で話す彼を遮って僕は冷たく言い放った。
「え……あ、ああ、分かった」
彼は突然のことにまごつきながらも僕から離れていった。
あの告白を聞いてから何かおかしい。自分が制御できない。感情のリミッターが外れたみたいだ。
でも、もう後には戻れない。