2話「狂い出す歯車」
両親の仲はあまり良くなかった。
些細なことでもすぐに夫婦喧嘩へと発展していき、毎日のように怒鳴り声を聞いていた。
それがしばらく続いたある日、家から父の姿が消えた。
母の態度と外された薬指の輪を見て、両親は離婚したのだと察した。
それから今の場所へと越してきて、母と僕と未帆、3人の生活が始まった。
父が居なくなってから、生活はそれなりに上手くいっているようだった。
だが、一つ気がかりなことがあった。
それは母が時たま見せる未帆への態度だ。彼女が挨拶をしても返さなかったり、必要以上に批難したり、頬を叩いたりしたこともあった。
どうしてそんな態度をとるのか。今ではその理由が何となく分かる。
未帆は父によく懐いていたから、それが憎らしかったのだと思う。
朝食の際、母と未帆は言葉を交わすどころか目も合わさない。
「今日は遅いから先に食べててね」
そう言いながら優しげな顔を僕に向ける母。決して未帆の方は見ない。隣にいる彼女が俯く気配がした。
未帆の性格はここ数年で大幅に変わった。
幼い頃、後ろを行くのは僕の方だったが、今の彼女は誰かに手を引かれなければきっと歩けない。
彼女の自信や積極性を母が消し去ってしまったのだ。
「あれ、もう行くの?」
玄関で靴を履いていると、洗面所から母が出てきてそう言った。
僕が頷くと「いってらっしゃい」と母は軽く手を振った。
未帆は縮こまって僕と母のやり取りが終わるのを待っていた。
不意に、母の瞳が冷たくなったかと思えば、いつもより数倍低いトーンで未帆の名前を呼んだ。母が彼女の名前を呼ぶのはおよそ5日ぶりのことだった。
「あんた、ちゃんと勉強してんの?」
「してる……」
未帆が震える声で答えると、母は鼻を鳴らしリビングへ消えていった。
「また怒られちゃったな……」
誰にいうわけでもなく呟く未帆は酷く陰鬱な顔をしていた。
ここ数年、彼女が友人と騒いでいる姿を一度も見たことがない。気を許せる人間は何人かいるようだけれど、本当に信頼できる存在はいないようだった。
家では実の母親から除け者にされ、なんでも相談出来る友人もいない。
彼女は一人だ。孤独だ。
だから僕が味方になる。彼女を傷つけるもの全て、僕の敵だ。
学校に着いてからも未帆は表情を曇らせたままだった。
自分の教室に入ろうとする彼女の腕を引き、廊下の突き当たりにある空き教室の中へと連れ込んだ。
「昨日はごめん。体辛くない?」
そう言って労わるように彼女の頭を優しく撫でた。
「へ、平気だよ……」
はにかみながら答える彼女を軽く引き寄せ、両腕で包み込んだ。
「もうあんな強引なことしない。だから今日は先に帰らないこと。分かった?」
僕の言葉に彼女は深く頷いた。
「じゃあ、また放課後迎えに行くから」
そう言って彼女の背中をぽんと押して、先に自分の教室へと向かわせた。
小さくなっていく彼女の後ろ姿を見つめながら、今朝のことを思い出していた。
母は僕に対してはとても穏和な人だ。
僕が未帆への態度のことを言えば、少しは見直してくれるだろう。
だけど、それをする気はない。だって必要のないことだから。
「未帆には僕しかいない」と彼女自身に分からせるために母の態度は都合がいいのだ。
「笑える……」
己のことながら笑ってしまう。彼女の敵は、本当は誰なのだろうか。
昼休み、パンを買うために新と食堂へ来ていた。いつものことだがかなり混雑していた。
「香坂せんぱーい!」
一人の女子生徒が人混みを掻き分け耳をつんざくような声を発しながら駆け寄ってきた。隣に立つ新は「またか」とでも言いたげな表情で僕を見ている。
その女は僕の目の前で立ち止まると、小さな紙を差し出してきた。
「これ友達から香坂先輩にです! ちゃんと読んでくださいね!」
そう言って去って行く女子生徒。僕は彼女に押し付けられた手紙を渋々開いた。
そこには、「放課後、渡り廊下に来てください」と女子特有の丸く小さな字で書いてあった。
「モテモテですねー」
新が薄い笑みを浮かべながら言った。
僕はため息を吐いてから渡された紙をポケットにしまい込んだ。
「一希って彼女いるんだっけ?」
彼の問いかけに、少し考えてから「いないよ」と答えた。仮に「いる」と言ったところで彼ならそれが嘘だと気づくだろう。
「作らないの? かなりモテるじゃん」
「まあ、そのうちね」
そう言って目の前に並んでいるパンを適当に取った。
「そっかー」
彼はあまり興味のなさそうな返事をし、同じようにパンを取っていた。
「新こそ、好きな奴とかいないわけ?」
彼と出会ってから大分経つがそういう類いのことにはずっと触れてこなかった。別に聞きづらかったとかそういうわけではなくて、ただタイミングの問題だった。
彼は少し間を開けてから静かに口を開いた。
「あー……、うん。いるかも」
その瞬間、え、という声が無意識に漏れた。正直、返ってくる言葉がそうだとは思わなかった。
「いたんだ……」
「そりゃあいますよ」
僕の呟きに彼は笑っていたけれど、その笑顔はどこか悲しそうだった。
放課後になり未帆のクラスへと来たのだけれど、僕は一人、そこの入り口で立ち尽くしていた。
今日もまた未帆の姿がなかったのだ。避けられているのだろうか。
だが、昨日とは理由が違った。
「香坂さんなら、佐伯君に呼ばれてどっか行ったよ」
未帆と同じクラスの生徒がそう教えてくれた。佐伯という名前の生徒は僕が知っている限り一人しかいない。
「ありがとう」
僕は軽く頭を下げてから走り出した。
未帆に好意を持っている奴は少なからずいる。彼女が告白されている現場に出くわしたこともある。
しかし、彼女は昔から人見知りが激しいため、他人からの告白を受け入れることはなかった。それを分かっているから僕は安心していた。
だけど、一人いたんだ。彼女が受け入れる可能性のある人物が。
佐伯、新。僕達の幼なじみで最も近い存在。
昼休みに彼と交わした言葉が頭の中で響く。嫌な予感がした。
「未帆、俺と付き合って」
階段の方から聞こえてきたそれに僕は足を止めていた。
聞き慣れた声だった。姿は見えなくても、それが新の声だと確信した。
その日から、僕達の歯車が狂い始めた。