彼の話 5
「本当に大切なものは失ってからそのことに気づく」というけれど、始めから大切さに気づいているものを失った時、人はその喪失感に耐えきれるのだろうか。
あの一件の後、俺はいつも通り学校に行った。
「あれ、香坂は?」
出欠をとっていた担任が言った。一斉に一希の席へ視線が注がれる。
「何か聞いてる奴いるかー?」
その質問に誰も答えなかった。
静寂に包まれた教室で、担任の視線を感じたが俺は口を開かず頬杖をついていた。
何となしに窓の外へ目を向けると、綺麗な青空がそこにあった。
昨夜は大雨だったというのに、今は雲一つない快晴が広がっている。
悲しいくらい青だけが広がっていた。
「────佐伯!」
その声にゆっくり瞼を開くと、数学の先生が教科書を片手にこちらを見下ろしていた。
数学の授業中、いつの間にかぐっすりと眠っていたらしい。
俺は慌てて姿勢を正し、素早くノートを開いた。
「お前は本当、毎度毎度……そんなに俺の授業はつまらないか」
「そ、そんなわけないじゃないすか! 違うんすよ……俺、集中しすぎるとどうも寝ちゃうんですよお」
語尾を伸ばしてすがるようにそう言うと、先生は呆れたと言わんばかりに深い溜め息を吐いた。
それに加え、あちこちからくすくすと笑い声も聞こえてきた。
「ったく……もうすぐ3年なんだからしゃきっとしろ、しゃきっと」
ほら、と肩を軽く叩かれ、俺は消えそうな声で「はーい……」と返事をした。
黒板にチョークが擦れる音が教室内に響き渡ると、皆まじめにノートを取り始めた。
2年の後半だけあって、ほとんどの奴らが将来に向けて準備をしている。
多分、俺だけだ。こんな無気力なのは。
"もうすぐ3年"、その言葉が細かい棘のようにちくちくと胸に刺さっている。
俺はこれからどう進んで行けばいいのだろうか。
「夢」なんてとうの昔に終わらせたし、俺の行動のもとはいつも「一希」だったから。
次の授業が行われる教室へ移動している最中、俺だけが担任に呼び止められた。
用件は聞かなくても分かった。いつか来るだろうと思っていたから。
「相方はどうしたんだよ。何か聞いてないのか?」
まるでおちょくるようなその言い方に何だか腹が立ち、俺はそっぽを向いて答えた。
「……何も聞いてませんが」
そんな心中を察したのか、担任は咳払いをして後頭部をがしがし掻いた。そして大きく息を吐き出すと表情を変えた。
「香坂と連絡が取れないんだよ。……母親とも取れない」
先ほどとは打って変わり真剣な眼差しを向けられ、無意識のうちに力んでいた。
「佐伯ならもしかしてって思ったんだけど……そっか、分かった。呼び止めて悪いな」
その言葉に、すいません、と軽く頭を下げて再び歩き出した。
俺は嘘を吐いたわけじゃない。本当に何も知らないんだ。俺が知っているのは、一希達がここから居なくなったということだけなのだから。その理由も行き先も何も知らない。
彼奴らのこと、それなりに分かっているつもりだったけれど、本当は全然分かっていなかった。むしろ知っていることの方が少なかったんじゃないかと思う。
「あ、飛行機雲!」
「ほんとだー、めっちゃ綺麗」
そんな会話をしながら横を通り過ぎていく2人の女子生徒。
つられて窓の外を見ると、真っ直ぐに伸びた飛行機雲が青空を切り裂いていた。
それはまるで世界を分断するかのようで。
「新、食堂行こー」
各々が昼ご飯の用意をし出す頃近寄ってきた友人に俺は苦笑いをした。
「あー……、悪い」
そう言ってコンビニの袋を手に持って見せると、「まじか」と少しばかり落胆した様子で教室を出て行った。
俺は一人、袋の中から焼きそばパンを取り出して一口食べた。しばらく黙々と食べていたが、不意にあることを思い出した。
ポケットの中から取り出したのは携帯だった。
『香坂と連絡が取れないんだよ』
担任はそう言っていたけれど、もしかしたら何か連絡があるんじゃないかって淡い期待を抱いて確認してみた。
新着メール1件。画面に映しだされたそれに、俺は一瞬希望を持ったがすぐに突き落とされた。
ただの広告メールだった。
少しの間、画面とにらめっこをしていたが何だかそれもアホらしくなって止めた。
携帯を机に置いて、片手に持ったままだったパンを見つめた。
俺は焼きそばパンが大好きだった。これ以上に美味しいものはこの世に存在しないと思っていた。
「まっず……」
食べかけのそれにかじりついてはそう呟いた。
やけに長く感じた一日はようやく終わりを迎えようとしていた。
辺りに広がる淡い赤が徐々に教室を飲み込んでいく中、付き合いの長い友人、幸人と泰弘とくだらない話をしていた。
「新、元気なくね? なんかあった?」
唐突に泰弘が顔を覗き込んできた。俺が言葉に詰まっていると、幸人が彼を引っ叩いた。
「ばーか、察しろ。一希が居ないからだよ」
この上なくフォローになってないそれに「そうじゃねーけど……」と下を向いて小さく答えた。
そんな空元気すら出せなくなっていた俺に活を入れるかのように、幸人は背中を勢い良く叩いてきた。
「いってえ! 何すんだ……」
あまりの強さに前のめりになりながら、じんじんと痛む背中を自分で摩った。
「もー、そんな通夜みたいになるなって! こいつなんか昨日ふられたんだぞ」
そう言って幸人は隣の泰弘を親指で指した。
さっきまで俺と幸人の絡みを見てへらへらと笑っていた泰弘がその瞬間青ざめた。
「おまっ……ぺらぺら喋んなよ!」
「相手、恋人居たんだろ? ほんと救いようがないよなー」
「うるせーな。ふられるの承知でいったの」
羨ましいと思った。俺にはそんな強さも覚悟も1ミリだってなかった。それどころか、一番ずるい道を選択したんだ。
"くそ野郎"
心の中でこのどうしようもない自分に吐き捨てた。
いつもの帰り道を一人だらだらと歩く。
まだ5時を過ぎたばかりだというのに、頭上には藍色の空が広がり、行き交う車のほとんどがライトを付けている。
今日は部活もないし、バイトも入れていない。こんなに早く帰るのはいつぶりだろうか。
信号待ちをしている時、向かいの歩道で何やらもめる人達を見つけた。30代くらいの女の人が泣き叫ぶ幼い子供を必死になだめている。
「パパもいっしょだっていったもん! やくそくしたもん!」
「るなちゃん分かって……パパはお仕事なの。私達のために頑張ってるのよ」
「やだ! パパに会いたいよ……っ」
少女はそれから声を上げて泣き出した。
その光景を見ていると、一希達のことを思い出してしまう。
今ならあの子の気持ちが痛いほど分かる。大切な人に会えなくなるのは本当に辛い。
けれど俺はもう、あの子のように辺り構わずわめき散らす子供じゃない。後になって嘆いたって無意味だと分かってる。
それに、これから先ずっと一緒に居られると思っていたわけじゃない。いつかは離れる日が来ると重々分かっていた。
でも、そうだとしても────。
「こんな終わりは嫌だな……」
自分の唇から漏れたその言葉に、何故だか分からないけれど笑ってしまった。でも、口角はすぐに下がっていった。かわりに瞳の奥が焼けそうなほど熱くなって、息が詰まるような感覚に陥った。
俺は震える唇を噛み締めて、空を仰いだ。遠い空で控え目に輝く星が滲んで揺れている。
涙が止まらなかった。
了