彼の話 4
「俺さ、未帆に告った」
告白のことを打ち明けた次の日から、一希と未帆がばらばらに登校するようになった。小、中、そして高校に入ってからも彼らはずっと一緒に登校していたのに、ぱたりとそうすることを止めた。
「一希と何かあったの?」
学校が終わった後、未帆と2人きりになる機会があったため俺は問いかけてみた。
「……ちょっと怒らせちゃった」
返ってきたのは何とも煮え切らない言葉だった。
「……じゃあ、今からどっか遊びに行くか」
俺がそう言うと、未帆は少しばかり表情を明るくして、でもやっぱり何処か寂しそうに「うん」と言った。
彼女に告白したあの日から、何度か2人で帰ったり、夕方の公園でたわいない話をしたりした。小学生の頃の関係に戻ったみたいで、俺はその時間が楽しかった。
解けた糸を結び直すように、離れていた距離が修復されたと思っていた。
「ごめんなさい。新とは付き合えない」
だから、そう言われた時は驚いた。彼女からの好意はひしひしと伝わっていたから、まさか断られるなんて思いもしなかった。
でもしつこくするつもりはなかったし、俺は一言「わかった」と頷いた。
「一希ね、地元の大学に行くって。お母さんと話してた」
彼女は去り際にそんな言葉を残した。
一希が遠くに行くことはないのだという安心感よりも先に俺は焦りを感じた。
どうして、今このタイミングで、一希のことを持ち出したんだろうって。
翌日、珍しく未帆が休みだった。
その日一希は朝から心ここに在らずといった状態で、彼女のことが気がかりで仕方ないみたいだった。
授業の合間の休み時間、彼が突然「早退する」と言い出した。
あまりに唐突すぎて、思考が追いつくまで時間が掛かった。
俺の引き止めの声は虚しく、彼の背中はどんどん遠退いていった。
放課後に勉強を教えてもらう約束をしていたのだが、彼女と俺じゃ比較にならなかったらしい。
きっと俺には一希を引き止めることはできない。
土曜日。一希が俺の家に来る日。いつもは昼近くまで寝ているくせに早起きしたりなんかして、部屋を徹底的に掃除した。
彼が家に来るのは中3の夏休み以来で、遠足前日の小学生みたいに胸が高鳴って仕方なかった。馬鹿みたいに時計を何度も見て、一人そわそわしていたのを覚えている。
お昼過ぎに彼がやって来て、しばらくは勉強そっちのけで喋っていた。いざ勉強に取り掛かってみるも、目の前に広がる数字の羅列に欠伸が止まらなかった。
「勉強する気ある?」と一希は呆れていた。
俺は、勿論!、と答えた。
本当は嘘だ。勉強なんてどうでも良かった。そこまで馬鹿でも無いはずだし、ちょっと頑張れば平均点くらい取れる。
俺はただ一希と一緒に居たかった。それだけだった。
くだらないことで笑ったり、こうやってたまに遊んだり、極々普通の友達として隣に居ることを許してくれるなら、俺はそれ以上何も望まない。望まないようにしていたんだ。
でも、時々……本当に時々だけれど、「こっち向け」と思うことがあった。俺のことをちゃんと見て知ってほしい、そんな気持ちも心の何処かに存在していた。
勉強を続けていると、一希の携帯に着信が入った。
相手は未帆だと分かった瞬間、俺は大きく脈打つのを感じた。
ふられた時のことを思い出したからだ。
『一希、地元の大学に行くって』
どうしてあの時、彼女はそう言ったのかずっと引っかかっていた。
考えて考えて辿り着いたのは、彼女は俺の本心に気づいているのかもしれないというものだった。
昔から悪い勘だけはよく当たったけれど、これだけは本当の本当に当たって欲しくなかった。
週明けの朝、ほんの気まぐれでいつもより20分早く家を出た。
通い慣れた道をのんびり歩いていると、一希と未帆らしき後ろ姿を見つけた。
久しぶりに3人で登校したくて声を掛けたのに、未帆が俺を避けるように一人ですたすたと先に行ってしまった。
その瞬間、俺は思った。もう元には戻れないんだ、って。
昼休みになると、俺は同じクラスの友人に食堂へ誘われた。一希にも声を掛けようとしたのだが、彼は未帆に呼ばれて何処かへ消えて行った。
その様を、俺と友人は遠目に見ていた。
「……変」
食堂に向かう途中、隣を歩く友人がぼそりと呟いた。
何が、と問いかけると彼は訝しげに続けた。
「あの双子。……ただ仲が良いだけとは思えないな」
その時思い出したのは、まるで恋人同士のように手を繋ぐ2人の姿だった。
俺は何も言えなかった。
否定することができなかったのは、そう感じてしまう部分があったからだ。
昼食を摂り終え、俺は携帯を片手に美術室などがある第二校舎へと来ていた。何となく一人になりたかったのだ。
音楽室、書道室、美術室、どの教室も鍵が掛かっており入ることができなかった。
諦めて自分の教室に戻ろうとした時、家庭科室の扉が開いていることに気がついた。
不思議に思って中を覗くと誰かが居た。
その瞬間、俺は隠れていた。
家庭科室の隅っこで、椅子に座り向き合う2人の生徒。そこに居たのは一希と未帆だった。
どうして隠れたんだと己の行動に疑問を持ちながらもう一度覗き込んだ。
「何で……」
そう無意識に唇から零れていた。
2人がキスをしていたから。
「なあ、お前さ……妹にキス出来る?」
体育の授業中、たまたま隣にいた男子に問いかけた。
すると彼は苦虫を噛み潰したような顔で一言「ありえない」と言った。
きっとそれは普通の反応だった。
一希達は俺が考えるよりもずっと互いに思い合っていたのだろう。
『本日は日中綺麗な青空が広がるでしょう』
そう朝7時の天気予報で言っていたはずなのに、午後3時を過ぎた頃には辺り一面に水たまりが出来るくらいの雨が降っていた。
この時程予報が外れたことはない。
傘なんて持っているはずがなく、俺はずぶ濡れで帰宅した。
午後5時を回っても雨は変わらず降っていた。
一人で暮らしている祖母の様子を見に行くため、俺は傘を片手に自転車のペダルを踏み締めた。
悪天候の中、無理をして行く必要はあまりなかったけれど、とりあえず何かをしていたかったんだと思う。
一人でぼうっとしていると気分が沈んで仕方なかったから。
自転車で40分。その日、俺はいつもと違うルートで向かっていた。そうしたことに明確な理由は無かった。多分、"虫の知らせ"ってやつだったんだ。
自転車を漕いでいると次第に雨は弱まっていき、代わりに闇が濃くなった。
古びた木製のバス停に近づいた時、思わずブレーキをかけていた。
雨音だけが響く暗闇の中、誰かがそこに座っていた。
よく見ると隣にもう一人居て、こんなところで何をしているんだろうと不審に思った。
でも、目の前に居たのは俺がよく知っている奴らだった。
「あ、やっぱり一希だ」
そう言うと彼は心底驚いたような顔でこちらを見つめていた。
俺はというと必死に平静を装った。本当は立っているのもやっとなくらい動揺していたくせに。
2人は何をしているのか聞いてみたが、何も答えてくれなかった。
ばつが悪そうな一希に、びしょ濡れの未帆。とにかく様子がおかしくて、このまま彼らをほおっておくことはできなかった。
一希と未帆を祖母の家へ連れて行き、一晩泊めることにした。
濡れた制服を乾かしている間、あの場所に居た理由を聞いた。
トラブルがあって家出してきた、と一希は言った。
その言葉の裏に何かを隠したことくらいすぐに分かった。でも、俺は何も聞かないことにした。だって、無理矢理問い詰めたって本当のところはきっと話してくれない。
その後、俺は2人にちゃんと家へ帰るよう促した。
一希は「うん」と頷いていたけれど、俺にはそれが嘘に思えて仕方がなかった。
翌朝、5時ちょっと過ぎ。小さな物音で目を覚ました。
酷い胸騒ぎがして、第一に向かったのは一希達2人を泊めた部屋だった。
扉を開けた瞬間、俺ははっと息を呑んだ。
そこには誰も居なくて、綺麗に畳まれた布団の上に「泊めてくれてありがとう」とメモが残されていた。
頭であれこれ考えるよりも先に、俺は走り出した。
薄暗い、町外れの一本道で人影を見つけるのは容易だった。遠くに並ぶ2つの背中を息を切らして追い掛けた。
大勢の「他人」の中で、俺は、俺だけは特別、と勝手に思い込んでいた。
……そんなこと、なかったのに。
2人は逃げるようなことはせず、足を止めて振り返った。
「どこ行くつもりだよ」
「……家に帰るんだよ」
「嘘つけ! 本当は帰る気なんかなかったんだろ」
俺がきっぱり否定すると一希はそれ以上ごまかすことはなく、少しの間を置いてから「ほっといてほしい」と言った。
その言葉に、胸が張り裂けそうだった。
もう、壁なんか作るな。何かあったなら言ってくれ。必ず助けるから。何処にも行くな、頼むから。
俺はずっとお前のことが────。
たくさんの言葉が頭の中にどっと流れ込んできて、まず何を口にしたらいいのか収拾がつかなかった。
そんな中、空気を変えたのは未帆の一言だった。
「ねえ……他の人じゃだめかな……」
今にも泣きだしそうに言う彼女に、どくん、と心臓が大きく動いた。
「こんなこと言うの最低だって分かってるけど、でも……私にはもう一希しかいないから……」
それは決定的な言葉だった。
彼女は全部気づいていると、その瞬間確信した。告白した理由も、俺の本当の気持ちも、全部。
何か言わなきゃ、とそう思ったけれど声が出なかった。
俺は許されないことをした。多分、一番やってはいけないこと。
未帆だって大切な存在だったはずなのにすっかり見失っていた。
「ごめんな、未帆」
それ以外の言葉が出てこなかった。
俺は最低だ。こんな奴に誰かを思う資格なんてない。