彼の話 1
小学3年の時、同じクラスに偉く顔の整った奴が転校してきた。それが一希だった。
最初に声を掛けたのは俺の方で、その時のことはよく覚えている。
「香坂って双子なんだろ? すっげーな!」
俺が放ったその言葉に、一希は物凄く変な顔をした。何だこいつと言わんばかりの、それはまあ冷たい視線を向けられた。きっと、第一印象はよくなかったと思う。
そのせいで何度話し掛けても無視されるのかと思ったが、そうではなかった。
一希の冷たい態度は誰に対しても平等で、見えない柵で自分を囲んでいるようだった。決して侵入者を許さず、不用意に近づけば怪我をするのはこちらだった。
自ら傷を負いにいく物好きはいなかった。ただ一人俺を除いては。
棘だらけの一希に自分から進んで近づいていく俺にクラスメイトは言った。なぜそこまでするの、と。正直、自分でもよく分からなかった。でも多分、幼心に一希をほうっておけなかったのだろう。休み時間、窓の外を寂しげに見つめる一人ぼっちの彼を知らんぷりできなかったのだろう。
土砂降りの雨の日だった。その日、一希は朝から何度も咳をしており具合が悪そうだった。
確か、体育の授業へと向かう途中だったと思う。真っ青な顔をした一希が力尽きたように倒れてしまった。
偶然、そこに通りかかった俺は彼を背負って保健室へ行った。背中に感じる彼の体温は異常に熱かった。
「凄い熱ね、呼吸も荒いし……今日はもう帰りなさい」
保健室の先生は一希に触れるやいなやそう言った。
そして先生は「親御さんに連絡してくるわ」と保健室から出ていってしまい、俺と一希は2人きりの状態になった。
お互い沈黙したままで、雨の音だけがそこに響いていた。
それから少しすると先生が戻ってきて、「あなたは戻りなさい」と俺は授業に参加するよう促された。
先生に背中を押されながら仕方なく保健室を出た時だった。
「ありがと、新……」
不意に一希がそう言った。
へっ、と間抜けな声を出して振り返った瞬間、扉が静かに閉まった。
突然で一瞬の出来事に俺は思わず固まっていたが、チャイムの音で我に返り走って授業へと向かった。
初めて名前を呼んでくれたことが本当に嬉しくて、「よっしゃ!」と一人でガッツポーズをした。
放課後、一希の双子の姉がいる3組へと足を運んだ。
当時、彼女は──香坂未帆はちょっとした有名人だった。芸能人みたいな可愛い女の子が転校してきたと学年中の男子が騒いでいた。
目の前に現れた彼女は噂通り可憐で弱々しくて他の誰よりも女の子だった。
一希の連絡帳を手渡すと、彼女は不安げに表情を曇らせた。
でもそれは一瞬のことで、すぐに優しい笑顔を見せて「わざわざありがとう」と深く頭を下げた。
未帆は一希と違って人当たりがよく、誰にでも丁寧に接していた。そのため、うっかり恋に落ちてしまう輩も少なくなかった。
もう少しタイミングが違っていたら、俺もきっと彼女を好きになっていたんじゃないかと思う。
2日くらい経って、元気になった一希が登校してきた。
おはよう、と俺が声を掛けると同じように、おはよう、と返ってきた。
ちゃんと挨拶を交わしたのはこの時が初めで、俺は嬉しさのあまりくさい台詞を零していた。
「なんか、友達っぽいな……」
それを聞いた一希が小さく笑った。
その日を境に、俺と一希の関係は良い方向へと進んでいった。
休み時間、よく一緒に居るようになった。まだどこか一人で居ようとする彼をクラスメイトの元に連れていき、皆でドッチボールや鬼ごっこをやったりした。彼は時折笑顔を見せ、皆と居ることが嫌なわけではないみたいだった。
少しずつだったけれど、一希はクラスの空気に溶け込んでいった。俺はそのことが堪らなく嬉しかった。
「僕の姉の未帆だよ」
一希を通じて俺は未帆と仲が良くなった。
彼女は俺の描いていた人物像と大分違った。深窓の令嬢みたいな容姿をしているけれど、実際の彼女は活動的で、同年代の女子が大好きな恋ばなよりも外で体を動かすことの方が好きみたいだった。人は見掛けによらないとはこういうことなのかなと思った。
そして、彼らは俺が思う姉弟と少しだけ違っていた。
手を繋いだり、互いにぎゅっと抱きついてみたり、ふざけて頬にキスしてみたり、随分と距離感の近い姉弟だなと思った。仲良しという言葉だけじゃ到底片付けられなかった。
でも、俺は何も言わなかった。2人の仲が良いならそれでいいと思ったから。
段々と3人で過ごす時間が増えていって、4年生になる頃にはいつも一緒に居た。
春の運動会ではリレーの選手になった未帆を声が枯れるほど応援した。夏休みに一希と未帆を誘って河童を探しにいった。冬には3人で大きな雪だるまを作った。
時が経てば経つほど、2人は俺にとってかけがえのない存在になっていった。
このまま大人になるまでずっと3人で居たかったけれど、それは叶わないと知っていた。
なぜなら、俺は卒業したらこの町を出ると決めていたから。
俺には夢があった。幼い頃からずっと「プロのサッカー選手」になることを夢見てきた。
だから、中学からはサッカーの強豪校で本格的にプロを目指そうと心に決めていた。俺が尊敬するサッカー選手が通っていた全寮制の学校で頑張るんだって。
卒業まで後一年となった3月のとある日に、俺は一希に夢のことを打ち明けた。そして、次の春にはこの町にいないのだということも。
すべて話し終え、俺は両膝の上で拳を握りながら一希の反応を待った。
しばらく沈黙が続いた後、微かな音を立てて机に雫が落ちた。それが一希の涙だと分かった瞬間、俺は大きく目を見開いた。
まさか泣くなんて思わなかったから、どうしていいのか分からず頭の中は酷く混乱していた。そして口にしたのはとんでもない言葉だった。
「じょ、冗談だよ! そう、嘘! 今のは嘘です! 俺、将来は公務員が安泰かなって思ってるし! 大体俺がサッカー選手なんてなれると思うか? 万年副キャプテンの俺が?」
何を言っても彼は涙をぽたぽたと落とし続けた。
俺のために泣いてくれるんだ。そう思うと何だか胸が苦しくて、ぎゅっと抱き締めたくなった。
「泣くなよ……一希……俺、ずっとこの町に居るから」
伸ばしかけた腕をそっと後ろ手に隠した。
その日の夜、両親にサッカーの強豪校に行くのをやめると伝えた。2人共すごく驚いていたけれど、お前が決めたことなら、と最終的に納得してくれた。
「でも、どうしたって急に……あんなに行きたがってたじゃないか」
そんな父の言葉に俺は俯きがちに答えた。
「……約束したんだ」
一希を泣かせるくらいなら、夢なんて叶わなくていいと思った。
翌年の春、一希達と同じ中学校へ通い始めた俺は自分の中にあったおかしな感情に気づいてしまうのだ。