彼女の話
中学最後の夏休みだった。
一希が夜の10時を回っても家に帰ってこなかった。昼過ぎに「コンビニに行く」と出て行ったきりで、何の音沙汰もなかった。
私は携帯を握り締めて、窓越しに外を見ていた。そうしてる間、事故や事件に巻き込まれてしまったんじゃないかと、不安で仕方なかった。
その後、私とお母さんは何年ぶりかに協力して、一希が行きそうな場所を個々に当たった。お母さんは車で、私は走って彼を探した。以前、陸上部に所属していたため足には自信があった。
しばらく走り回った後、町中のレストランで一希を見つけた。
物憂げに頬杖をついていた彼に声を掛けると心底驚いたような顔をされた。
「馬鹿!」思わず彼の頬を叩いていた。「すっごく心配したんだよ」
2人で自宅へと向かう中、何故こんな遅くまで外に居たのか聞いた。
返ってきたのは一言だけだった。
「未帆の側に居たくなかった」
それを聞いた瞬間、あまりのショックで泣いてしまいそうだったけれど、彼が次に放った言葉によってその涙は引っ込んだ。
「好きなんだ……未帆が」
それが、「家族として」じゃないことくらいすぐに分かった。好きという言葉がこんなにも重く感じたは初めてだった。
これ以上気持ちを抑えるのは無理だと彼は泣いた。
私は困惑して何も言えなかった。今まで彼をそういう目で見たことは一度もなかったし、それに私には好きな人がいた。
でも、拒絶してしまったら彼は確実に離れていくだろう。今度こそ居なくなってしまうかもしれない。
私は考えた末、彼を抱き締めた。
香坂一希は私の唯一の拠り所なのだ。それを失うくらいなら、自分の気持ちを殺す方が余っ程いいと思った。
その日、私達は姉弟よりもちょっとだけ親密な関係になった。
高校に入学してからも、彼を失いたくないという一心でどんなことも受け入れた。
お母さんの帰りが遅い日は肌を重ねた。そうすることに最初こそ抵抗があったけれど、回数を重ねていくうちに、彼の愛情を一番感じられる心地よいものになっていた。
姉弟とも恋人とも違う、そんな曖昧な関係が続いていたある日のことだった。午後の授業が終わると、幼なじみの新に呼び出された。
人気のない放課後の階段で、私と彼は向かい合うようにして立った。
「じゃあ前置きとかしないでいきます……未帆、俺と付き合って」
頭が真っ白になった。まさかこんな奇跡が起こるなんて思いもしなかった。
私はずっと彼のことが好きだったのだ。
思わず「はい」と言い掛けた時、頭の中に一希の姿がちらついた。
駄目だ。ちゃんと断らないと。私には一希がいる。彼を裏切るようなことはできない。そう自分に言い聞かせた。
「……少し、考えてもいいかな」
思いとは裏腹に口から出たのはそんな言葉だった。
話が一段落したところで、私と新は一緒に学校を出た。
家路を辿る私達の間には微妙な距離が開いていた。
私は無意識に何度も髪の毛や顔に触れた。どうしても落ち着かなかったのだ。彼とこうして2人きりで帰るなんて初めてだったから。先ほどのこともあり、緊張はピークに達していた。
「未帆はさ、もう進路決まった?」
気まずい沈黙を破るように、新が弾んだ声で言った。そのおかげで緊張が少しだけ解れたような気がした。
「まだはっきりとは……新は?」
「俺もそんな感じかも」
そう人懐っこい笑顔で言う新に、胸がきゅっと締め付けられた。改めて好きだなと思った。
「……一希はどうすんのかな」
彼は少しばかり声を低めて呟いた。
私も一希の進路については何も知らなかった。
「あいつ全然そういうこと話さないしさ、知らないうちにどっか行っちゃうんじゃないかって時々……」
新はこちらを見て声もなく笑った。どうしてそんなにやるせなさそうな顔で笑うのだろうと不思議に思った。
「未帆はそんな心配いらないな。家族だから」
その後、新はこれからバイトがあると言ってせわしなく去っていった。
私はアスファルトに伸びた自分の影を見つめた。
新の言いたいことは分かった。でも、どうしてか、胸に何かがつかえていた。
帰宅すると、一希は告白のことをすでに知っていた。黙っていようと思ったのに、それは叶わなかった。新と付き合うのかという問いかけに私は直様首を振った。“新は友達”、そう嘘を吐いた。
それからも新とは一緒に帰ったりした。私はその度に返事を先延ばしにしていた。早く決断しなければいけないと感じていたが、このままでいたいと思う気持ちが邪魔をしていた。一希と新のどちらかを選んだ瞬間、一方を失うことになるのは分かっていたから。
その日、私と新は公園のベンチに座って話し込んでいた。
「後ちょっとで卒業だな」
感慨深い面持ちで新が言った。
「私達まだ2年生だよ?」
笑い混じりに言う私を余所に、彼は至って真剣だった。
「“もう”だよ」
そう言って彼は足下に落ちていた枯葉を見つめていた。
「一希と未帆はずっと一緒に居られるだろ? でも、俺はさ……どうしたって友達で、他人だから」
私はその瞬間、胸につかえていたものの正体に気づいた。
────何でもっと早く気がつかなかったのだろうか。
彼はいつも一希を気にしていた。彼との会話にはいつも一希の存在があった。彼は私に「好きだ」とは言わなかった。
私じゃなかったのだ。新が本当に好きなのは私じゃなかった。
次の日、一希は一緒に帰る約束をすっぽかす程怒っていた。
私が告白を保留にしていたことが原因だった。
告白の返事を先延ばしにしていたことも、新と一緒に帰っていたことも、一希は知らなかった。全部内緒だった。
彼は怒っていた。そして、寂しそうだった。
私はとんでもないことをしてしまったんだなあと思った。
関係を壊したくなくて、私は嘘を吐いた。でも自分の気持ちを消し去れなくて、結果、ばらばらになった。
全部、私の中途半端のせいだ。計り知れない喪失感に押しつぶされそうだった。
私は一希を避けるようになった。学校も一緒に行かなくなった。顔を合わせたくないとかそういうことではなく、どう接したらいいのか分からなかった。
この感じ、母の時と同じだ。そう思った。
学校が終わると、私は必ず公園に寄った。ごちゃごちゃになった自分の気持ちを整理するために。
この日もそうだった。誰もいない公園のベンチに座って、シロツメクサが生えた地面を見つめていた。
手の甲に小さな雫が落ちてきた。雨だ。空を見上げると雨粒が頬を濡らした。何だか泣いてるみたいだと思った。
「……答え、出さなきゃ」
全てを失う前に、何かを選ばなければいけない。
明くる日の休み時間に、新を呼び出した。
静寂に包まれた廊下で、私は深く頭を下げた。
「ごめんなさい。新とは付き合えない」
何が一番いいのかではなく、一番選んではいけないものを考えた結果だった。新と私が付き合ったところで誰も幸せにはならない。皆、傷つくだけだ。
新はただ「わかった」と頷いた。
私は早くそこから立ち去りたくて仕方なかった。
じゃあ、と短い挨拶と共に去ろうとした瞬間、あることが脳裏にうかんだ。
私は動くのを止めて、新に背を向けたまま口を開いた。
「一希ね、地元の大学に行くって。お母さんと話してた」
それだけ言って廊下を駆けていった。
これでよかった。これが正解だった。
そのはずなのに、己の両目から涙が零れ落ちた。袖で拭ってみたが、再び流れてきた。
「泣くな……ばか」
私は自分を叱りつけ、何度も涙を拭った。
閉じた瞼の裏側で、まだ変化を知らなかった頃の私達3人が笑っていた。
了