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慕い人  作者: 彼方
7/13

“もう終わりにしよう”/ 『on→off』

 その夜の出来事は、あまりにも突然すぎてまだ心の中で消化しきれていないのかもしれない、と思った。何故なら、美代子との別れで気分が滅入っている時に、野崎の騒がしい会話に付き合わされたので、気分が混濁としていた。

 モーツァルトを聴いていた時に、突然犬の合唱が始まったような、そんな現実感のない出来事だった。私はあの後、家に帰ってから疲れ切ってビールを一口飲んで眠ってしまった。どんな夢だったかは覚えていないけれど、とても騒がしい声が右から左から聞こえてきたのを覚えている。悪夢とまではいかないけれど、気分が休まる夢でもなかった。

 次の日も休みだった。私は朝から何も音楽もかけず、何も食べず、椅子の上に座ってぽかんとしていた。どんな空想を巡らせても、昨日の出来事へと思考が引き寄せられていく。いつの間にか私の心からは美代子の影は消えていた。

 お昼になってようやく減塩のクラッカーを食べて、インスタントコーヒーを飲み、頭が徐々に元に戻ってきた。CDコンポにガンズ・アンド・ローゼスの『アペタイト・フォー・ディストラクション』を入れて、『ウェルカム・トゥー・ザ・ジャングル』をかけた。そのぐらいの野性味溢れる音楽を聴けるほどには元気が戻ってきた。

 私はこうして家に閉じこもっていても仕方がないと思って外に行って、行きつけの喫茶店でインスタントではないコーヒーを飲んだ。カミュの『異邦人』を読んで、ゲーテの『ファウスト』を読んだ。自分の置かれている立場とはまた違った世界の物語を読んでいると、いくらか思考が迷路から抜け出せそうな気がした。

 私にはきっと、“殻”から抜け出すことが必要なのだ、と思った。

 凝り固まってもう駄目だと思った時に、脱皮が始まる。野崎が馬鹿野郎と背中を叩いてくれたからこそ、そこから亀裂が生まれ、外へと抜け出す隙間が現れた。やはり、私は野崎に感謝するべきなのだろう。

 私は野崎との会話を思い出して口元を緩めながら、明日からのことを考えた。もう過去のことは捨てて、ただ新しいことを心の中心に持っていきたいと思った。私は過去を悔むほどのプライドを持っている訳ではないし、もっと柔軟でいていいのだろう。

 私には重荷を背負うことよりも、もっと馬鹿な顔つきで色んな世界を覗いていく気楽さの方が大切なのかもしれない。歌謡番組でやっていた昭和の歌を何とはなしに聞きながら、日本酒を飲み、私はそんなことを考えていた。

 その日は酒を二三杯で終え、早々に切り上げてベッドの中に入った。薄暗い天井を見上げながら、私はよし、と小さくつぶやいた。明日からまた歩き出そう。どこに行くかはわからないけれど、気負わずにグダグダと生きていこう。そんな情けない決意と共に、私は目を閉じた。

 その日見た夢は、やはり騒がしい夢だった。けれど、その騒がしさは自分を差し置いての五月蠅さではなく、誰かと一緒に宴会をやっているような楽しさがあった。

 そんな風にして、私は穏やかな夜を過ごしていった。

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