vm19 開幕秒読み記念 ロシアワールドカップについて
六月なのでプールの授業も始まっている。今日は比較的良い天気だったので、うっすらとした晴れ間の中で渡海雄と悠宇は紺色の魚になった。
「ふう、楽しかったわ。さて、今日からロシアワールドカップ開幕となるわけだけど」
「いよいよ来てしまうんだね。四年に一度訪れるサッカー界最大の祭典。しかもロシアだからね。国土広くて移動大変そう」
「でもシベリアとかは会場になってないみたいで、まだいいんじゃない? それでも十分にハードだけど。そう言えば二〇二六年大会はアメリカ、カナダ、メキシコの共催に決定したみたいね」
「もうロシアより広いんじゃない?」
「しかも出場枠が広がって、これからはもう共催以外物理的に無理になってくる気配。まあ未来の話はともかく、ロシアよ。サッカーにおいてロシアと日本の関係は、まったく接点がなかったわけじゃないけどライバルというほど近くもない、微妙な距離感よね」
「確かに、日本でプレーしたロシア人とかパッと思いつかないし」
「いないわけじゃないんだけどね。ガンバにいたツベイバや今はなき横浜フリューゲルスにいたレディアコフ。いささか古いけど。一番新しいのは二〇〇三年浦和に在籍したニキフォロフかな。ただ彼の故郷はウクライナで、ウクライナ代表としてのキャップも刻まれている」
「なんか複雑そうだね」
「国自体が色々あったしね。指導者で言うと、二〇〇一年にサンフレッチェがヴァレリー・ニポムニシを監督に据えて攻撃サッカーを展開したわ。後半戦三位は当時のチーム状況からすると破格の成績だったけど諸事情あってわずか一年で退団。その後任にもロシア人のガジ・ガジエフが就任したけどこれが大失敗、結局この年に降格してしまったの」
「あらまあ」
「そんなロシア人監督時代だけど、ガジエフはアフリカ人や東欧の人を連れてきただけだけどヴァレリーはシーズン途中、スカチェンコとオレグという二人の外国人を加えたわ。前者はウクライナ国籍、後者はロシア国籍を持ってるけどウズベキスタンの市民権も持っているのでウズベキスタン代表としてプレーしたという、これまた面倒な経歴の持ち主」
「ニキフォロフもそうだけど、そんな国籍とかコロコロ変えられるものなの?」
「一九九一年、ソ連崩壊によって連邦を構成していた数々の国が独立したけど、それまではソ連の人間とひとまとめにされた人々が国籍を選ぶ際に様々な選択肢が提示されたの。ニキフォロフはワールドカップに出るためロシア国籍を選んで、実際に出場を果たした。オレグらはその反対だった。最後はその人個人の価値観よ。旧ソ連生まれでロシア以外の国籍を選んだ選手は他にもガンバにいたベラルーシのアレイニコフとか、サンフレッチェに加入したジョージアのムジリらがいるわ。磐田に現役で在籍してるウズベキスタンのムサエフもか」
「でも結構各国から来日してるもんだね」
「逆に日本人選手がロシアリーグに在籍というケースで最も有名なのはもちろん例のあの人、本田圭佑よ。名古屋からオランダのVVVで実績を残した本田は、ロシア屈指の強豪であるCSKAモスクワに移籍。中心選手として優勝も経験し、南アフリカワールドカップではロシアリーグ所属選手として活躍して世界にその名を轟かせたわ」
「それからイタリアに行って今はメキシコから、どこへ向かうんだろうね」
「その他、元代表だと松井大輔や巻誠一郎らもロシアでプレー経験あり。立ち位置が独特なのは現在マリノス所属のイッペイ・シノヅカよ。日本で生まれ育ったけど途中からロシアに移って、そこでプロ入りしてユースや二軍で活動していたものがマリノスに逆輸入された経歴の持ち主」
「名前自体はロシア要素全然ないのにね」
「父親が日本人、母親がロシア人らしいわ。これからはそういう国際的な選手が代表にも増えてくるんじゃないかしら。シノヅカ本人が代表まで行くかは別にしてね」
「対戦相手としてのロシアが最もクローズアップされたのは間違いなく二〇〇二年よ。自国開催のワールドカップで日本のグループリーグに入ったのはベルギーとチュニジア、そしてロシアだったから。当時はベルギーの評価が案外低くて、一番の強敵と目されていたのがロシアだったわ。だから戦前はロシア首位日本は二位で突破みたいな論調も強かった」
「でも結果的には勝ったんだよね」
「そう。稲本がゴールを決めて日本は史上初となる、ワールドカップ本戦での勝利を挙げた。そんな輝かしい実績もある一方で屈辱の歴史を刻んだ事もあるわ。ちょうど今から四十年前、アルゼンチンワールドカップの年に日本は当時ソ連と呼ばれていたこの国の三部リーグに所属するアマチュアチームを呼び寄せたの」
「直接関係ないけどアルゼンチンワールドカップのマスコットは歴代マスコットの中で一番可愛くて格好良いよね」
「いや、知らないけど」
「ワールドカップのマスコットはね、その始まりはオリンピックよりも早くて一九六六年イングランド大会が起源なんだ。初代マスコットはワールドカップウィリーという、イングランドサッカー協会のエンブレムにも描かれているライオンをモチーフにしたマスコット。でもライオンでイメージする勇ましさは皆無で、やたらと緩い顔つきが可愛らしい。一歩間違えたら単なる手抜きだけど絶妙なバランスで成立している」
「しかもこの大会で開催地のイングランドは優勝したからまさに幸運を招いたのね」
「グッズ販売なんかも上手く行ったみたいだしね。そして七十年メキシコ大会はフアニート。メキシコらしくソンブレロを被った、福々しい丸顔の少年。なんでへそ出してるんだろうという疑問はあれど、これも緩い顔つきで癒し系。次の七十四年西ドイツ大会はチップとタップという汚い顔したガキども」
「言い方! でも確かに汚い顔してるわ」
「モデルは当時のドイツを代表する有力選手ゼーラーとベッケンバウアー。ゼーラーはミューラー説もあるけど、顔を見る限りゼーラーのほうが似てる。しかし顔はこれだし相変わらずへそ出してるし、ちょっとついていけないセンス。そして七十八年アルゼンチン大会はこんなの」
「おっ、これはへそ出してないし今までと違って整った顔つき」
「髪型も今までのキャラと違って花形みたいだし、でも海外の評判とか見るとフアニートと似てるなんて言われてる。確かに民族的な帽子被った少年ってモチーフは共通してるけどさあ。そしてこのキャラクターの名前だけどね、現在ではガウチートとして知られている」
「現在ではってどういうこと?」
「それがね、当時の雑誌を調べたところ、こいつの名前はムンディアリートとされているんだよ」
「全然別物じゃない」
「うん。まずワールドカップはスペイン語でコパ・ムンディアルと言って、これに指小辞とか縮小辞と呼ばれるものを付けたのがムンディアリート。大雑把に言うとワールドカップくんとか、そのぐらいのざっくりした名前だよ。だからその後一九八〇年にはムンディアリートという大会が開かれた。これはワールドカップ歴代チャンピオンが集まって『真の世界一』を決めよう、という体の親善大会。それと女子サッカーの国際大会の名前にもムンディアリートって名前が使われた形跡あり」
「でもどっちにしてもアルゼンチン大会のマスコットよりは後の話なのね」
「かなり一般的な名前だから被るのは必然。だからもっとアルゼンチン特有の名前であるべきだと見られたか、南米のカウボーイでアルゼンチンの国民性を象徴するガウチョに指小辞を付けたガウチートという名前が広まっている」
「複雑な経歴になってるわね」
「一応補足しておくとガウチートって名前自体はウルトラマンジャックみたいな純然たる後付けじゃなくて、当時から存在していたらしい。というのも、サッカーマガジン増刊の『アルゼンチン'78総合ガイド』にこのキャラクターを特集したページがあって、そこにはまずこいつの名前はムンディアリートですよと説明しつつも『パンピータ、またはガウチートとも呼ばれる』という記述があるんだ」
「パンピータって何?」
「それは置いといて、このガウチートが描かれた商品の写真も多数掲載されてるんだけど、これを見ていくとちょっと不思議な現象に気付くんだ。つまりね、そこに描かれてるイラストに二つの系統があるんだよ」
「二つの系統?」
「そう。まずひとつは、仮にオフィシャル系と勝手に呼称してるんだけど、当時の新聞や広告でもこっちのイラストが使われていた。それと例えば今『歴代ワールドカップマスコット一覧』みたいな特集をした際に使われるのもこっち」
「当時の新聞でも使われたんだ」
「日本の主要三紙を見比べたけど、一番活用されてたのが読売だった。『熱狂ワールドカップ』という現地に派遣された記者によるコラムのカットに、強気な目つきでキックをするガウチートのイラストが使われていた。次に毎日。大会終了後の記事、スペースを埋めるように立ち姿ガウチートのイラストが使われていた。朝日は見たところまったく出番なし」
「それぞれのスタンスが分かるわね」
「もうひとつは、これも仮に作家系と呼んでるけど、まずこのガウチートというキャラクターをデザインしたのは、アルゼンチンの漫画家でありアニメ作家でもあるマヌエル・ガルシア・フェレという人物であるらしい。このフェレさんが作った他のキャラクターと同じタッチで描かれているのが作家系。全体的なバランスや帽子のつばの処理など変更点はいくつかあるけど、最大の違いはベルト。オフィシャル系はベルトなんて締めてないけど作家系は真ん中のバックルにAと書かれたベルトを締めているんだ」
「ああ、本当だ。それと色合いも結構違ってる」
「マガジン増刊では『ぼうしとマフラーはアルゼンチンのナショナル・カラー、水色と黄色になっている』と書かれてて、オフィシャル系は確かに全部その色合いなんだけど、作家系は帽子が茶色かったりマフラー、というかネッカチーフが赤だったりと平気で色違いが出てくる。でも全体的には明らかに作家系のほうがクオリティ高い。読売が採用したキックガウチートはオフィシャル系でもいい出来だけどね。……ガウチートについて語りすぎた。話戻すよ」
「そもそも脱線中なんだけど」
「はい、次の八十二年スペイン大会では、どうやらマスコットの最終候補は三つあったみたい」
「今回の東京オリンピックみたいね」
「うん。それでその内訳は闘牛士みたいな少年、胴体がサッカーボールの牛、そしてオレンジの三つだった。で、採用されたのはオレンジ。それがナランヒートだよ」
「一番斬新なモチーフが選ばれたのね」
「七十年代は少年三連発で、そろそろ新しい風が必要と思われたかな。このナランヒート、何気にアニメ化されてて、しかもスタッフに日本人が絡んでるらしい。八十六年メキシコ大会では唐辛子のピケ、というわけで八十年代は全員植物モチーフのマスコットとなった。そして九十年イタリア大会は、センスが前衛的すぎる不可解なオブジェがマスコットになってしまった。チャオって名前らしいけど」
「……何このブロック?」
「割とマジで謎。でも九十四年アメリカ大会は犬モチーフのストライカーくん、九十八年フランス大会は雄鶏のフティックスと無難な動物モチーフキャラが続いたけど、日韓大会は意味不明な気持ち悪いエイリアンを押し付けられた。CGのキャラとか言うけど、センスが東アジアのそれじゃない」
「平昌のスホランとバンダビや東京オリンピックのキャラとは違ってバタ臭い顔つきが、いかにも押し付けられたみたい」
「次のドイツ大会からはまた動物モチーフに戻ったあたりがこいつらの評価の全てでしょ。ドイツ大会はライオンのゴレオ6世、南アフリカ大会は豹のザクミ、前回ブラジル大会はアルマジロのフレコ。この中だとザクミが一押し。イラストだとそこそこ凛々しいけどきぐるみだと微妙に間抜け面なのが可愛らしい」
「そして今回のマスコットは、狼のザビワカ」
「これも最終候補三つから選ばれたもので、スポーツグラスしてるのがちょっとスマート。それにしてもこのザビワカは本番二年前にはもう制定されてたけどガウチートなんか本番二ヶ月前ぐらいでようやく本誌登場という遅さだからね。本当のところどれだけ商売出来てたのやら。で、元々どういう話だっけ?」
「もう満足した?」
「うん。なんか、ごめん」
「別にいいよ。アルゼンチンワールドカップで、日本代表はあっさり予選敗退を喫したって話。その代わりってわけじゃないと思うけど四月にマレーシアで開かれたムルデカ大会に出場したんだけど、その前哨戦としてソ連からアムール・ブラゴベシェンスクというアマチュアチームを呼び寄せた。当時は代表がクラブチームと戦うケースはちょくちょくあったけど、それにしてもかなりランク低い相手で、呼んだ側も呼ばれた側も今回の目的が『日本代表に気持よく勝ってもらうための噛ませ犬』だと認識していた。ところが……」
「どうなったの?」
「まずはね、当時の日本代表は長年エースを務めてきた釜本がヤンマーでの活動に専念するため勇退、後継者筆頭だった奥寺はドイツ移籍して代表から去った。前線の駒不足という状況で二宮寛監督は、ディフェンダーの斉藤和夫選手をフォワードにコンバートするという大胆すぎる手段に打って出たもののこれが見事に失敗。三試合で二敗一分の結果に終わり、終了後の会見で相手チームの団長が困惑しつつ『日本代表もこれからいいチームになるよ』とか無理に持ち上げるのを二宮監督が横で俯きながら聞くという地獄絵図が現出したわ」
「うわあ、きついね」
「それから八十年代、ワールドカップやオリンピックの予選で『ここで勝てば出場』というレベルまで盛り返し、九十年代にはプロリーグが誕生。オリンピックは一九九六年のアトランタ大会に久々の出場、そして一九九八年のフランス大会においてワールドカップ初出場を果たして、以降はどっちの大会も毎回出場を果たしている。結果的にアムール団長の予言通りって事で」
「でも強くなった頃には誰も残ってないという」
「選手としてはその通り。しかし日本サッカーが暗黒、弱体と蔑まれた時期でも諦めず小さな何かを積み重ねてきたからこそそこまで行けたのよ。そして今、日本代表は数多くのゴタゴタを抱えながらもとにかくロシアの地に立っている。四十年前の三試合で日本代表は一得点に終わったけど、その得点を挙げたのが現代表監督よ」
「へえ、そうなんだ」
「とは言え、そもそも日本代表を率いる西野朗監督って構図からしておかしいんだけどね。ザッケローニ退任からアギーレも自身の八百長疑惑から消えて、ゴタゴタしながらも本戦出場を果たしたハリルホジッチ政治力によって解任」
「あれも何だかなあって話だよね」
「西野監督にとってはあまりにも短すぎる準備期間。強化試合として用意されたガーナ戦とスイス戦はいずれも乏しい内容で無得点の完敗。もはやどうしようもないのかという雰囲気の中、最後に残ったパラグアイ戦ではようやく攻撃が上手く回ってやっと四対二と快勝してくれたわ」
「久々に日本代表の試合を見てて良かったってなったよ」
「相手は本戦出場を逃して若手中心の二軍メンバーだとか、ベテラン選手の引退試合に使うなどやる気がなかったなどと言われる事もあるわ。そんな相手に勝ったところで大して意味がないと。御説ごもっとも。でも本戦を逃した若手主体のガーナ相手にあの体たらくだったチームなんだから、とりあえずは十分よ。監督にとっても誰が必要で誰がそうじゃないかの見極めにもなったでしょうし」
「そこで本田ってなるわけか」
「八年前、長らく日本代表の中心選手だったけどスペイン移籍の失敗などからコンディションを崩していた中村俊輔からその立場を奪ったのが若く野心に燃える本田圭佑その人だった。今の本田はあの時の中村俊輔よ。確かに素晴らしい選手だった。しかし時は誰にも平等に流れる。いつまでもトップフォームのままではいられない。特にスピード不足はいかんともしがたいものがある」
「パラグアイ戦は、特に乾の切れ味抜群だったよね。ああいうのもやれるんだという新鮮な驚きがあった」
「今なら同じ三点差で負けるにしても〇対三じゃなくて二対五でやれる気がする。ともあれ最後は決断よ。どうせ最初から勝ち抜く確率なんてゼロに近いんだから、座して死を待つかともかく足掻いてみるか。はっきり言って今大会、日本代表はグループリーグ敗退すると今は思っている。でも手のひらを返す用意は出来ているわ」
水泳の心地よい疲労感が二人を眠りにいざなったので、欲望に忠実であろうと努めた。夢の中では素晴らしい戦い。果たして現実はどうなるであろうか。それは間もなく明らかになる。
今回のまとめ
・プールの授業ってなんであんな死ぬほど楽しかったのだろうか
・弱く苦しくても無駄な時代なんてひとつも存在しないはず
・ガウチートくん大好きもっと有名な存在になれ
・日本代表はこの状況でどれだけの内容を見せられるかに注目