第十章 並駕斉駆(9)
「まずはお前自身が死を超えろ。決して容易くはないが、この先それが出来なければ、土方君についていくことは難しいぞ」
「死を、超える……ですか」
ますますもって理解できない。
死ねばそこで終わりではないか。
それを超えろとは。
「お前自身が死を恐れなくなった時に、自ずと意味も悟る。急いても仕方あるまい」
言い終えた佐々木は、珍しいことに何事もなく伊織を解放した。
語り聞かされた言葉を何度も心中で繰り返してはみるものの、やはり悟るまでには至らない。
暫しその場で思案に暮れる伊織を残し、佐々木は終の一言を呟いて退室していった。
「まったく、私も厄介な女子に惚れたものだ」
***
じっと座り続けて、半刻。
明かり取りの灯火が、油を吸う軸にじっと音を立てた。
「飯は要らねえのか」
副長室の中央に正座する伊織の耳に、土方の声が届いた。
もうとっくに夕餉だ。
「お腹は減ってます。でも、……食べる気になれない」
「なんだ、佐々木に何かされたのかよ」
現場からさっさと逃げておいてよく言うものだ。
心成しか声が笑っている。
内心むっとするのと並行して、ふと懊悩の呪縛が解けた。
「何もされませんでしたよ。かえって、大事なことを教えてもらえたような……と言ってもまだ半信半疑ですけど」
佐々木の言ったことは恐らく非常に大切なことなのだと思う。
目を伏せて、ゆっくりと大きな吐息を吐いた。
すると土方はやや乱暴な足取りで伊織の正面に周り、どっかりと腰を降ろす。
顔を上げれば、そこには大袈裟に顰蹙した土方。
「おめぇ、まさか……!」
「はい?」
「今更佐々木に懸想してんじゃねえだろうな!?」
聞いた途端に、がくりと顎が落下した。
大真面目な顔で何を言うか。
「違いますよ! 気色悪い冗談やめてください! 置いて逃げたくせに!」
「馬鹿、てめぇ! 最初に人を餌食にしようとしたのは誰だってんだ!!」
「だって土方さんなら生き延びられると思ったんですよ!」
「冗談じゃねえよ!」
また、いつもの言い合いだ。
佐々木のように気遣ってくれる素振りは全くない。
いや、気遣いが欲しいわけではないのだが、壁に当たっているのは目にも明らかなのに、一言も助言はくれないのだろうか。
「兎に角、早く着替えろ。いつまで女でいるつもりだ」
注意を受けて、まだ着替えすらしていないことを漸く思い出した。
華やかな袖の色柄を見つめて、また少しぼんやりとする。
女子でいることを選んだなら、こういうこういう着物を普段に纏い、刃傷沙汰とは無縁の生活を送ることもあっただろうか。
何となく、それを考えてしまった。
それこそ、今更というものなのに。
慌てて念頭から追い出そうと、首を小さく左右に振った。
「明日も引き続き尾形君に同行しろ、いいな」
「わかりました」
毅然と返答した。
土方もそれを聞き届けると、またふらりと何処かへ出て行った。
その背を見送り、伊織は微かに唇を噛む。
弱音は吐けない。
吐けば、そこで見限られてしまうような気がした。
***
膳を突く蒔田の傍らに、畳に伏して泣き喚く者あり。
蒔田にとっては、もう慣れたものである。
どちらかといえば、この光景が日常のような気さえするくらいだ。
「蒔田ァ―――ッ!!」
「なんだ佐々木」
「私が泣いているのに、貴様は隣で晩ご飯か! ええい、気に食わん!!」
「お主も食えば良かろう……」
平然と鰯を摘もうとする蒔田の腕を、佐々木は斜め下から掴み上げた。
「話を聞かぬか蒔田ぁ―――ッ!!」
「聞いておる聞いておる。放さぬか無礼者め」
渋々と窘めると、次いで佐々木は蒔田の膝に泣き伏した。
「伊織が女子姿で、しかも落ち込んでたというのにッ! 何故あそこで押し倒さなかったのだ私は!!? これではまるでピエロではないか!!」
「ほうほう、それは大儀であった」
蒔田広孝、初めからまともに聞くつもりはない。
まあ些か気になるのは、ピエロとは何だろう、くらいである。
(……ま、何でもよいか)
それよりも、食卓の鰯が美味かった。
つい箸も進んだ。
「佐々木、お主も一先ず食事を取ってはどうだ? ん?」
「鰯など要らぬわ! ぬおおおんッ!!」
野太い声で喚き散らされるのは煩いが、止めようとすれば一層大声で喚き出すということも、もう承知している。
だからこんな時は放置しておくのが最善策なのだ。
「きちんと食さぬと、勿体ないお化けが出るぞ?」
そうして時々、こうして適当に声をかけてやれば良い。
佐々木はまだまだ落ち着く様子はなく、蒔田の袴で徐に洟を拭いた。
ご丁寧に指で掬って擦りつけている。
「うぬッ!? たわけが! 人の袴で洟をかむ奴があるか!!」
「私の膳には毎晩伊織を載せて出してくれ……そうすれば残さず食してやる」
「ならばしっかり釣って来ぬか! 釣れもせんものを膳に上げられるわけがなかろう!! ……って、貴様、鰯にまで洟をつけるな―――ッ!!!」
【第十章 並駕斉駆】終
第十一章へ続く




