第九章 旗幟鮮明(8)
外に出てまだ間もないのに、汗はもう流れ落ちるほどである。
京都の夏、侮り難し。
下駄の音も、心成しかずるずるとだらしなく鳴る。
「でも、どこに行きますか? この暑さではあまり遠くには行きたくないですよ?」
「そうですねえ、氷でも食べに行きましょうか。お天道様もちょっとお休みしてくれると助かるんですけどね」
沖田の笑顔も外に出た途端に、だらけ出している。
氷菓子、それならば良い暇つぶしになるかもしれない。
もし医者へ行かなかったと発覚したらまた怒られるだろうが。
「でもね、高宮さん」
と、沖田が右腕を掴んだ。
怪我を負ったほうの腕だ。
完治こそしていないが、今はもう痛みも引いていたし、無理に動かさなければまた剣を握ることも出来るようになる。
実際に右腕に不自由は出ていないし、少しの間佐々木の剣術稽古を休めば良い。
しかし、沖田は伊織の袖を捲り上げ、上腕に巻かれた包帯を眺めた。
「怪我はちゃんと診てもらいなさいよ?」
「……はあ」
意識を失ったままの状態で処置されたから良かったが、傷口を縫われているのは察しがついた。
時々引き攣るような感覚がある。
「そのうち抜糸もしなきゃならないでしょうから、行きますけど」
けれどその抜糸もまた、痛かったりするのだろうな、と想像して寒くなる。
暑いのもうんざりだが、こういう想像で寒くなるのももっと嫌だ。
自分で医者の診断を聞いたわけではない。
運んでくれた島田から又聞きしただけだ。
それは伊織に限らずこの沖田も同様だし、土方も事後報告の中で診断を聞いただけである。
だからあれほどに心配するのだろう。
「剣が使えなくなっては困りますからね。この次にはちゃんと行きますよ」
まだ一歩を踏み出したばかりで腕が利かなくなるのは御免だ。
いくら江戸時代の医術が怖いといっても、これは考えを改めざるを得なかった。
うん、と一人自分に言い聞かせるために頷く。
「高宮さんが稽古休んだら、佐々木さん、寂しがるでしょうねぇ」
「乗り込んで来たりしたら、嫌ですね……」
「長州の報復より、佐々木さんの襲撃に備えたほうが良さそうですよねっ! アハハハ」
のんびり、悠々とした口調で沖田は笑った。
決して楽ではない、ここでの生活。
けれどこうして隣にいてくれる人がいる。
そして、心配してくれる人がいる。
共に笑い合う人がいる。
それは何も、特別なことではないのだけれど。
大変なことのほうが多いし、乗り越えねばならない壁も、まだ山積している。
それでも、ここが自分の居場所であると信じる。
ここ以外に身を寄せる宛てもないし、ここ以外にこれほど自分を受け入れてくれる者もない。
帰ろう、とはもう思わなくなっていた。
ここで生きて、皆を守ろう。
出来得る限り。
もう帰れない、否、帰ることのないであろう未来のためにも。
ここにいる沖田や、土方や近藤の意志を、その道を、しかとこの目で見届けよう。
そのために、強くなろう。
てれてれと先を歩く沖田の背中を見つめた。
「ほらほら、早く来ないと御代は高宮さん持ちですよ?」
強い日差しの下、悪戯っぽく笑う沖田の顔が振り向くと、伊織も知らずと口の端が綻んでいた。
【第九章 旗幟鮮明】終
第十章へ続く




