第八章 疾風勁草(4)
傾斜の急なそれは、裏階段と呼ばれるもので、近藤の声はこのすぐ上から聴こえてくる。
(ここを昇るべきか――)
大きな異物を呑み込むように、喉がごくりと上下した。
ここを駆け上がれば、人を斬る躊躇などしている暇はない。
段上を見上げるも、そこは仄暗く霞んだ闇があるばかり。
時折刀身の翻る反射光が視界に入る。
覚悟ならば、決めていたはずだ。
だから隊に加わることにした。
けれど、その反面で、土方隊に属することの安心感があったと言わざるを得ない。
ゆらりと陽炎のように、段上に漆黒の影が現れたのは、その直後だった。
こちらへ、階下へ降りてくる。
刹那、一際大きく心臓が脈打った。
同時に、相手の視界に入っていることに気付き、狼狽を覚える。
来た、と思った。
影が一段一段確実に降りてくるにつれて、乱れた呼吸が耳の奥へと届く。
ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら、それはついに伊織の目前まで迫った。
味方ではない。
近藤の声は階上に聴こえているし、影の形も沖田のそれとは異なる。
どうしてこういう時に限って、唾は固形物のように突っ掛かるのだろう。
背筋に一本、添え木をされたように直立不動で、その影を見た。
暗闇に慣れた目で、それが浪士であると確信する。
(一対一だ――)
斬り合いになるのは必至。
斬るか斬られるか、そのどちらかでしか有り得ない。
伊織は脇差を右下方に構え、じりじりと後じさる。
「――新選組か」
今までに聞いたこともないような重低音で、浪士は訊く。
すぐに斬りつけて来る気配はないが、手には大刀が握られている。油断は出来るわけもなかった。
「……新選組隊士、高宮伊織」
知らずと虚勢を張っているのか、伊織自身の声もかなり低いものとなった。
一間ほどの間合いを挟み、互いに見合った。
陰影が邪魔して、浪士の素顔は明らかではない。
けれど、相手が余程に体力を消耗していることも、その刀が凄絶な攻防を経て疲弊していることも、窺い知る事は出来た。
「……宮部鼎蔵」
変わらずの低音で名乗りを上げた浪士の名は、伊織にとって充分過ぎる衝撃だった。
池田屋に密会していた浪士の、親玉じゃないか。
運が悪い。
ここに来て最初に対峙した相手が、宮部だとは。
この人は、誰に斬られたのだったろうか。
瞬時にそう考えて、伊織は目を瞠る。
(――違う)
思考は何時にもなく澄明に研ぎ澄まされていた。
宮部は隊士によって斬殺されたのでもなく、捕縛されたでもない。
自刃だ。
――では。
ここで斬られるのは、己か。
いや、ここで死ぬわけにはいかない。死にたくはない。
宮部の見下ろす視線の重圧を押し退けるように、伊織はその目を睨み上げた。
ここに来るまでに見た、人の身体の残骸が脳裏を掠める。
ここで怯めば、次は自分がああなる。
恐れはある。だが。
「ある種、こちらのほうが自然な事なのかもしれない……」
別に宮部に対して言ったわけでもないが、言葉は自然と伊織の口をついて出た。
「刀で人を斬ることも、人間本来の姿なのかもしれない」
少なくとも、それを大綱に禁じられ、目の前の障害を崩すことも侭ならない現代に比べては、この凄惨さも自然な光景なのかもしれない、と半ば言い聞かせる意味で声に出した。
口に出して言えば、限界まで昂った心拍が、不思議と鎮まってくる。
ここでは、現代の大綱など何の意味も持たなかった。
この時代に生きると、土方についていくと決めた時から覚悟していたことだ。
何時かは越えなければならない壁だった。
恐れを為したほうが負けだ。
怯んだ者が敵の刃をその身に受ける。
ここで斬らねば、己が崩されるのみ――。
伊織は脇差を正眼に構え直し、慎重に宮部との間合いを測る。




