第八章 疾風勁草(3)
重傷だが辛うじて意識はある様子の二人に、伊織は声を大にして檄を飛ばし、自らは屋内への入り口に歩を進めた。
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中は右も左も暗く、何処を歩いて良いかも判然としない。
その上、内部は外に比べて一層暑かった。
血の臭いも、風の流れの少なさ故か充満しきって異様に鼻につく。いよいよ吐き気も込み上げてくる。
伊織は一歩、また一歩と奥へと進んだ。
何処から敵が斬りつけてくるかも判らぬ恐怖と、暗澹とした空気に呑み込まれぬよう、持てる限りの気を奮い立たせる。
一歩踏み出すごとにざりざりと音を立てる自分の草鞋がいやに耳障りだった。
全神経が限界まで張り詰めている証拠だ。
二階からの音声はまだ続いている。けれど、一階は水を打った様に静まり返り、人の気配というものが感じられない。
それが殊更に恐怖を煽るのだ。
自然、脇差を握り締める手にも力が籠る。
それまでは暑さから出る汗だったのにも関わらず、今は一変して冷たい雫に変わっていた。
噎せ返るような熱気を感じながらも、背には冷水を浴びせかけられたような悪寒が耐えない。
土間から上がり、廊下へ出る寸前でもう一度脇差を握り直し、死角に気配があるか否かを息を呑んで伺う。
するり、と脇差だけを前方に差し向け、敵がいないと踏むと漸く廊下に身を移した。
と、同時に何かぐにゃりとした感触が足の裏に伝わる。
いやな予感がした。
ぴたりと動きを止め、伊織はそろそろと目だけを動かして足元を凝視した。
よもや死体でも踏みつけたか。
暗がりにも目は大分慣れ、人が転がっていればすぐにそれと認識できる視力はある。
ところが足元に人らしきものはない。
予想を遥かに裏切り、現実はもっと残酷だった。
死体ではなかったことに一時は安堵もしたものの、恐る恐る足を退かせてみて、伊織は嗚咽を上げた。
毛髪の生えた、人の肉片だ。
頭部の肉の削がれたものらしい。
胃の底から強い酸が逆流してくるのを、死に物狂いで喉に押し留める。
目を背けようとしても、視点が固まってなかなか思う通りに逸れてはくれない。
やっとのことで前方の床に視線を流せば、そこにはまた誰のものなのか、打ち落とされた手首がごろりと放られていた。
体中の皮膚がざわざわと波打った。百足の大群でも走り抜けたかのような感触に捕らわれ、伊織は立ち尽くしたまま暫時身動ぎの一つも叶わなかった。
瞠目したままに嘔吐を堪える額には、脂汗が多量に滲む。
想像以上だ。
一階でこれならば、二階はどんな有様になっていることか。
予測も付かない。否、考えたくもなかった。
至る所に血の飛沫が上がり、障子紙は愚かその木枠さえ原型を留めていない。
その異様な空間は、歪んでいるようにも感じられる。この世とも思い難い。
この中で近藤らは太刀を振るっているのだ。
伊織は漸く身体の自由を取り戻すと、一度だけ背後を確認して、また先へと踏み出した。
そこら中に散乱する人の欠片を可能な限り視界に入れぬように配慮しながら進むが、それでも吐き気は治め様がない。
熱気が、何倍にも血の匂いを増幅させているらしい。
伊織は二階へ通じる階段を探した。
多分、階段は二つはあるはずだ。表口を入ってすぐの表階段と、屋内のどこかにある裏階段。
半ば手探りの状態で進んでいく。
目だけを忙しなく動かし、人の気配にだけ神経を張り巡らせる。
一歩踏み出す毎に床板が発する、ぎしりぎしりという軋轢が、途轍もなく警戒心を煽り立てた。
日常には何ともない、ただの足音が、今は何よりもおぞましさを増幅させる。
息を潜め耳を欹てる伊織の頭上からは、浪士たちの怒声と怨嗟、そして近藤のものと思しき気合が途切れることなく注いでいる。
今に、近藤や沖田が斬り損ねた浪士がこの階下へ流れ込んでくるだろう。
天井は激しく物音を立てるのに、伊織の耳には何故かそれが遠くのもののように幽く響く。
不意にそれが極近い距離に聴こえた気がして、脇へと視線を振った。
階段だ。




