第六章 乾坤一擲(4)
何時にもなかった手厳しい返しを受け、伊織は顔を降り仰いだ。
「体力をつけることが最優先だ。たった半刻、素振りをしただけで座り込むようでは、話にならぬ」
尤もなことである。
伊織は反論する言葉を失い、代わりに大袈裟なほど項垂れる。
「おい、何だ? 喧嘩でもしたのか?」
道場にひょっこり現れたのは蒔田だった。
あまり良いとは言えない雰囲気を察して、そう尋ねたのだろう。
運んできた白湯を伊織に手渡すと、蒔田はそのまま傍らに腰を降ろした。
「まぁ少し休めば良かろう。伊織、水でも浴びてくると良い。すっきりするぞ」
蒔田がそう勧めるのに従って、伊織はふらりと立ち上がり、道場から出ていった。
伊織の姿が完全に見えなくなってから、蒔田は佐々木の様子を窺う。
「急に厳しいことを言うと、嫌われるぞ?」
半分揶揄に近い口調で言われると、佐々木らしくもなく複雑そうな表情をしてへたり込む。
「言うな蒔田。私だとて、嫌われたくて言っているわけではないのだ」
「ふぅん……」
「身を守る術はしっかりと教えてやりたい。そのためには生半可なことは出来ぬ。あの中では、体力がなければ他の何を教えても意味を成さぬだろう」
「そうだな。だが、私が見たところ、伊織はなかなかに見所があるように思うぞ?」
佐々木が蒔田を見た。
よもや、蒔田が伊織を褒めるとは思ってもみず、佐々木の表情は更に複雑なものになった。
「だからなおさら気がかりなのだ。あれはまだ人を殺めたことがない。自ら選んだ道とは言え、あれがその壁を越えられると思うか?」
蒔田は答えずにじっと耳を傾ける。
「一端に剣を扱えるようになれば、前線に出ることも増えるだろう。なれば、人を斬り捨てる時は遅かれ早かれ必ず来るのだ」
「……どうした佐々木。お主もたまにはまともなことを言うではないか。見直したぞ」
近頃おかしな行動の目立っていた佐々木に対して、蒔田は僅かばかりではあったが感心する。
「私は伊織の良き師に徹すると心に決めた。主の座は土方君に譲ったが、師として伊織を助けてやりたい」
その、佐々木にしてはあまりに立派な宣言を、蒔田は喜んだ。
「良くぞ申した!! お主こそ武士の鏡だ!!」
「そ、そうか? 照れるではないか、蒔田め。ふふふ……」
「いやしかし、隊にも尾形俊太郎とかいう歴とした師があるらしいが……」
「何ぃッ!?」
「伊織は専ら、その尾形に隊務の手ほどきを受けているそうだぞ。知らんのか?」
「……知らぬぞ!!? キィーッ!! 許せぬ、尾形ッ!!!」
袖口をギリギリと噛みしめて悔しがる佐々木を見て、蒔田はげんなりと落胆した。
(……褒めて損した)
「うぬォ~~、尾形が師ならば私は何なのだ!? 答えろ蒔田!! 私は、私は誰だ!!?」
「落ち着け。お主は佐々木だ……」
***
汲み上げたばかりの井戸水を張った桶に映る、自分の顔。
その鏡を割って、伊織は二、三度汗に濡れた顔を洗った。
(私に、出来ることはないの……?)
胸騒ぎと共に、徐々に焦りも顕著になってきた。
胸騒ぎの根元は、桝屋喜右衛門。
今の時点で先が見えているのは、伊織ただ一人だ。
今だけでなく、この先もずっとそういう立場に置かれるのは目に見えている。
この時代の文書が読めなくとも、経済が分からずとも、剣が使えずとも、土方の力になりたい。
――おめぇにしか出来ねえこともある。
土方がどんな意味で言ったのかは判然としないが、伊織はその自分にしか出来ないことを求めていた。
***
土方の元に、監察の山崎から報告が入ったのは、それから間もなくしてからのことだった。
六月の四日も遅くになった時分、町人に扮した格好のまま屯所に現れた山崎は、かねてより怪しんでいた桝屋の動きの一切を掴んだと報せたのだった。
ぽつりと控え目に明かりの灯された局長室には、近藤、土方、山崎の他に、尾形と伊織も呼ばれていた。