第六章 乾坤一擲(3)
その証拠に、古高の手元には膨大な量の密文書があるはずなのだ。
喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、伊織は口を引き結ぶ。
先々のことを知っているからと、無闇矢鱈に口外して良い内容ではない。
たった一言が、辿るべき道筋を変えてしまう可能性さえ否めないのだから。
「山崎君を大阪から呼び戻す。こちらの探索に加わってもらうとしよう」
小難しい顔をする土方と尾形は、それぞれに緊迫した空気を作り出す。
それが伊織にも伝わって、ざわざわと神経を逆撫でされているような気になった。
(山崎……)
二人の会話から推測して、監察方の筆頭とも言うべき山崎烝のことであろう。
茶屋で背後に座ったあの男は、島田魁。
勤皇志士の不穏な動きについて意見を交わす二人の様子を見守りながら、伊織は気付かれぬように一つ息を吐く。
土方から与えられた監察という役目は、ある意味で自分にはぴったりかもしれない。
情報ならば、わざわざ危険を冒して嗅ぎ回らずとも、既に伊織の手中にあるのだ。
ただし、それを報告する時期を間違うことは、絶対に許されないことだが。
すると土方が、手にしていた文書を伊織に差し出した。
「目を通しておけ」
「えっ、でも、これ……」
受け取った紙面を眺め、伊織は困惑する。
書かれている字が、殆ど読めない。
これもまた、時代の壁というものだ。
何となく読めないこともないが、仮名遣いが違う上に、崩し方も甚だしい筆跡を正確に読みとることは難しい。
ちらり、と尾形を窺い見ると、尾形もまた怪訝にこちらを見ていた。
「字も読めないのか……」
「すいません……」
これにはさすがに土方、尾形両名ともがげんなりと大きな溜め息を吐いた。
「尾形君……」
「……わかってます。教えますよ、副長」
思わぬ盲点をつかれ、二人は額に手を当てがった。
これでまた一つ尾形の負担は増え、伊織の克服すべき課題も増えたのだった。
***
数日後、伊織は見廻組で何度目かの稽古を受けていた。
竹刀も握ったことのない伊織は、やはり基礎の基礎から学ばねばならなかったが、佐々木は面倒くさがることなく稽古をつけてくれた。
だが、型や素振りばかりの稽古には、逆に伊織のほうが飽きてしまう。
いや、確かにそれも蔑ろには出来ないものだとは思うが、いかんせん、今はどうしても気が急いてしまうのだ。
月が代わって六月に入り、日本の夏独特の蒸し暑さが更に増している。
道場内も輪を掛けて暑苦しく、伊織は玉を成して散る汗を拭うため、素振りの手を止めた。
稽古着も汗に濡れて肌に貼り付き、気持ちの悪いことこの上もない。
これでもし防具など身に付けでもしたら、きっと熱中症にでもなって倒れてしまうだろう。
伊織は荒くなった呼吸を繰り返しながら、ぺたりと床板の上に座り込んだ。
「どうした、もう終わりか?」
監督に立っていた佐々木が、腕組みをしたまま声をかける。
半刻以上も素振りをさせておきながら、自分は涼しい顔で言うのだから堪らない。
「ちょっと……休憩……」
体温が上がりきっているせいで、視界までぼんやりと霞んでいる。
こんなことではダメだと思うのに、体力が伴わない。
少しでも早く剣技を身に付けたいのだが、佐々木は未だその基礎さえも教えてくれようとはしなかった。
(このままじゃ間に合わない)
心得らしい心得も持たぬままその日を迎えることが、伊織にはどうしても不安なのだ。
「いつになったら、剣技を教えてくれるんですか……」
苛立ちを募らせた声を出す伊織に、佐々木は色もなく言い返す。
「剣技は必ず教えてやる。しかし今のお前には、技など教えるだけ無駄だ」
「な……っ!」