第二十三章 千荊万棘【前篇】(9)
思わず目を閉じて後退ったが、伊織はすぐに風の正体を目で追いかけた。
「時実?」
戯れのつもりか、二人の間を飛び抜けた時実は、ひらりと舞台の上空に舞い上がった。
同時に名賀も我に返ったか、その声が上がる。
「あれっ!?」
「名賀様? どうかしまし――」
「あの子、私の御守りを銜えてるわ! ちょっと、あの鷹、あなたの!? すぐに呼び戻して!」
「えええ!?」
名賀の気に入りの守り袋を、時実が銜えている。
確かに、咄嗟に時実の嘴を凝視すると、小さく赤いものを銜えているようだ。
慌てて懐から呼子を取り出す伊織だったが、既に遅い。
時実は、手摺の向こう側――舞台の底へ向けて方向転換、次の瞬間には目にも止まらぬ速さで急降下したのである。
「うわーー!? 待てコラ時実ぇぇえええ!!」
「うぎゃーー私の御守りーーーー!!」
揃って舞台を囲う手摺から身を乗り出す。
が、時実はまるで放たれた矢の如く、舞台の真下へと向かった。
――と、思われたのだが。
ある瞬間を境に、下を覗き込む伊織と名賀の表情が、さっと強張った。
紅葉も、早いものはもう葉を落とし始めており、茶色い木の枝が目立つ。
時実の身体が、その木々の中へ突っ込むかと思われた瞬間のことだった。
風景に溶けるかのように、その姿が消えた。
見失ったわけではない。
目の前で、時実は姿を消したのである。
「……」
「……」
随分と長い間、真下を覗き込んでいた二人は、どちらからともなく手摺から身を退く。
そうして互いに顔を見合わせると、呆然としたままでやはり暫く立ち尽くした。
「あれは、あなたの鷹よね」
「いえ、その……私の、というより、殿の鷹、です」
「消えたのよ、ね?」
「……恐らくは」
「てことは、私の御守りも?」
「多分、時実と一緒に」
「……」
「……」
「「消えたぁあああああ!!?」」
この日この時、名賀は自らが良縁に恵まれぬことを、伊織は殿の鷹を失踪させた咎による責を、それぞれ何となく覚悟したのであった。
【第二十三章 千荊万棘 前篇】終
第二十四章へ続く