第二十三章 千荊万棘【前篇】(8)
「ほんの噂程度です」
「彼女、表向きは死んだってことになってるけれど、私はどこかで生きているような気がするの」
名賀の面差しは未だ晴れないが、言葉を選ぶ様子もなく紡がれる一語一句に、伊織は何故か動揺を覚える。
時尾が生きていると思うその理由を、伊織が些か身を固くして問うと、名賀は漸く顔を上げた。
「私も、時々思うことがあるから。どこか別の土地で暮らしたら、私はそこでどう変わるのかしら、って。彼女はきっと彼女だけの何かに出会って、新たな場所で生きているのだと思うの。遺体が見つからないのは、生きているからに違いないもの」
その答えは、伊織をぎくりとさせるには充分だった。
まるで伊織の今を見透かされているような錯覚に陥る。
勿論、名賀の言ったそれが、年頃特有の願望や憧れに過ぎないということは百も承知だ。
聞かされたのが伊織でなければ、他愛のないことを、と一笑に付すようなものだろう。
実際に別天地へ迷い込み、そこで生きることを余儀なくされた身としては、力一杯説得してやりたい気分にもなるのだが。
「……な、名賀様は、今の暮らしにご不満がおありですか」
尋ねれば、名賀は小さく俯く。
「あるわ。それなりに」
声音も小さいながら、はっきりと言い切る。
側室という立場上、一応の建前として「不満などない」と答えるかと思っていた伊織は、俄かに耳を疑った。
「ある……ん、ですか」
余りにあっさりと名賀の本音に触れることとなり、伊織は刹那的に返す言葉を失くす。
(うわぁ、こういうのってやっぱり、そんなこと言うんじゃありません! とか返すべきなのかなー)
側室としての暮らしは、満足とは言い難くとも裕福であることには違いない。
それを得ながらにして不満を零し、更には気儘に遊び歩いている事実は、放っておけばいつか必ず誰かに非難されるだろう。
とは言え、質問に対して誠実に答えた名賀を咎めることにも、あまり気乗りしない。
「そう、きっと不満なのだわ、私。だって不満がなかったら、わざわざこんなものを求めたりしないものね」
自嘲するように鼻で笑った名賀の指先に、鈴のついた小さな守り袋が揺れる。
良く目を凝らすと、縁結びを祈願したそれは赤や桃の配色で、女子が持つに相応しく、愛らしい格好をしている。
「おかしいとお思いでしょう? とっくに側室に上がった私が、良縁を求めるなんて」
「いえ、そればかりは」
誰も咎めることは出来ません――。
そう続けようとした伊織の声を、時実の鳴き声が遮った。
甲高い声を発して空に滑り上がる時実の姿に、ほんの一瞬だけ注意が逸れる。
「誰も皆、自由ではないわ。それは分かっているつもりよ。私だけが不満なのではない、と」
側室とは言うものの、名賀の口振りからは容保との間にそれほどの近しさを汲み取ることが出来なかった。
寧ろ、どちらかと言えば遠い――隔たりのある間柄と見て良さそうだ。
「それでもお忍びをやめられないのは、きっとまだ諦めていないから。こうして探し歩けば、いつか私にもびっくりするような出来事が起こるんじゃないか、って。今も思っているからなのよね」
悩み多き年頃には、誰しも思うことだ。
たとえ周囲には、それが単なる現実逃避だと言われても。
名賀の場合もそれと全く変わらない。
ある日突然、大きな転機がやってきて、この境遇から自分を連れ出してくれる――。
そんな願いは、時代の別を問わず生まれるものなのだろう。
大藩の主の側室である名賀に、何となく親近感を覚える。
そもそも年の近い女子同士であるだけに、名賀の気持ちは非常によく理解出来た。
尤も、名賀はこちらを女子だとは気付いていないようだったが。
「名賀様は、肥後守様をお好きになれませんか?」
「え? そうね、好きだと思ったこともないけれど、嫌いってわけでもないわ。側室としては何をおいても殿をお慕いするべきなのでしょうけれど、慕うって、難しいものよね」
そう言って話を濁す名賀を目の前に、伊織はふと思い至る。
「いや、それって……好きでもないけど、嫌いになれるほどにも相手をよく知らない――、ということじゃないんですか?」
名賀は意表を衝かれたのか、目を丸くして伊織を振り返った。
その瞬間、二人の向き合う間を切り裂くように鋭い風が突き抜ける。
「きゃ……!?」
「うわっ、何!?」