第二十三章 千荊万棘【前篇】(7)
時実が失踪したとなれば、やっぱり責任を問われるに違いないのだから。
伊織は涙目になりつつ、今度は清水寺に向けて再び足を踏み出した。
***
疲労困憊の極に達しながらも清水寺にまで辿り着き、伊織は時実の姿を探して境内を歩き回る。
両脚はもう棒と言うよりも、強度的に枯れ枝のようになっていたが、諦めて帰るわけにもいかない。
「おぉーい、時実ー!」
何度も呼びかけながら隈なく捜し回るが、時実の姿はない。
そうして歩くうち、いつしか伊織は舞台の袖まで来ていた。
全ての始まりの場所だ。
特別な思いが残る場所だが、最近はこの付近を訪れていなかった。
ここへ来ると、様々なことを考えてしまう。
未来にあった自分の過去を思い出してしまう。
何となく舞台に踏み入ることを躊躇い、思わず袖で立ち止まった伊織の耳に、楽しげな声が届いた。
若い女子の笑う声だ。
他に声は聞こえず、一人分の笑声が聞こえるのみ。
「? 一人で笑ってる……?」
怪しい気もするが、その正体を確かめるべく、伊織はすっかり鉛のように重くなった足を引き摺るようにして舞台へと踏み込んだ。
「! 時実!?」
舞台の縁、風雨に晒され年月を経て黒く変色した木製の手摺の上。
そこに、羽を休める時実の姿があった。
その傍らに、若い娘が一人。
女子の笑う声は、人懐こい時実と戯れる娘のものだった。
だが、町屋の娘らしい格好をした女子の顔を良く見れば、それもまた伊織の見知った顔だ。
「名賀、様……!?」
思わず目を疑った。
すると、名賀のほうもぎょっとした風に振り返った。
だが、名を呼んだのが伊織と知ると、名賀はたちまち頬の緊張を解いて安堵の笑みを浮かべる。
「なぁんだ、あなただったのね」
驚いて損をした、とでも言い出しそうな破顔振りの名賀は、気安く伊織を手招いた。
真昼の清水には、参拝客も多い。
名賀の姿を一見すると、格好だけは町屋の娘に似せているようだが、ひとたび口を開けば京人とは抑揚の違う口調が飛び出す。
ちらほらと見える参拝客の視線を気にしつつ、伊織は足早に名賀へ歩み寄った。
のほほんと悠長に構える名賀に、思わず荒げた声を出しかけた伊織だが、寸でのところで呑み込んだ。
頭ごなしに苦言を呈しても、かえって逆効果になるかもしれない。
ついでに名賀の機嫌を損ねてしまう恐れもある。
「……名賀様。お出掛けになるのは構いませんが、せめて供の者をお連れになったほうがいい」
極力穏やかに、けれどこちらの意図はきっぱりと伝える。
名賀は相変わらず笑顔のままだ。
この程度の諫言は聞き慣れてしまっているのだろう。
ついには小さく笑声を上げるくらい、名賀の態度には余裕があった。
「ふふ、そうね。でしたら、あなたが供をしてくださる?」
名賀の面持ちにも口調にも、諫められているという感じは全くない。
「混ぜっ返そうとしても駄目ですよ。私はあなたのお忍びを諫めるよう命じられて来たんです。大目付殿にね」
調子を狂わされないよう、伊織はきりりと表情を引き締めて言う。
その一言を境に、名賀の表情が俄かに曇り出した。
今まで伊織を真っ直ぐに捉えていた名賀の視線は、手摺に載せた己の手許に落とされる。
「いやね、たかが側室一人の散歩ぐらいで」
軽くそう言うが、それが名賀の本音であることは、笑みの消え去った面持ちから察しがついた。
彼女は彼女で、何か抱えるものがあるのかもしれない。
側室だからこそ、身辺を厳重に警護される。
そんな理屈が解っていないわけではないようだ。
その証拠に、名賀は乾いた笑いを溢す。
「ねえ。あなた、知ってる?」
「は……?」
「少し前、ここで女子が一人、消息を絶ったことがあったの」
「! それは……」
恐らく、いや、きっと高木時尾のことだろう。
「……いえ、詳細は分かりかねますが」
詮索を回避する返答をしていたことに、伊織は言った後で気付いた。
だが、下手に口を滑らせるよりは良い判断だった。
「ということは、少しは御存じなのね」