第二十三章 千荊万棘【前篇】(6)
一度だけ伊織の周囲を旋回したかと思うと、時実は黒谷とは逆の方向へと飛んで行ってしまった。
「うわわわわ!! どこ行く気よ!?」
咄嗟に切腹を申し付けられる自分を想像し、伊織は慌ててそのあとを追って走り出した。
***
「すいませーーん。この縁結びの御守り一つ、くださいな~」
小さな鈴のついた、緋色の守り袋。
社務所の窓縁に所狭しと並んだ幾つもの御守りの中から、一つを選りすぐって手に取ったものだ。
「はい、ただいま」
社務所の巫女は代金を受け取り、労いの言葉を返す。
「御苦労さまです。どうぞお幸せに」
手にした守り袋を胸元に抱き締め、名賀は巫女の言葉に僅かばかり驚きの表情になる。
『お幸せに』。
その一言に戸惑いを覚えたが、名賀は平静を装って礼を述べ、足早に社務所を離れた。
***
伊織の拳を離れた時実は、すいすいと南方へ進路を取る。
黒谷の南、東山の方向だ。
伊織はその姿を必死に追いかけたが、時実は度々方角を確認するかのように上空に舞い上がる。
その度に、時実を見失いはしないかと肝の冷える思いがした。
だが、時実は上空に長居はせず、すぐに地表近くに降りて来ては伊織を先導するかのように前を行く。
どこかへ連れて行こうとしているのかとも思わないではなかったが、さすがにそこまでの知能は無いだろう。
こうもちょろちょろ飛ばれたのでは、名賀を探すどころではなくなってしまう。
早々に捕まえて、黒谷の小屋に返してしまうに限る。
伊織はその一心で時実捕獲を試みるのだが、近寄ればまた時実は先へ先へと擦り抜けて行く。
「頼むよ時実! 私が悪かったって! 名賀様見付けないと、広沢さんにまた何て言われるか……っ!」
鷹に向かって喚きながら走り抜ける伊織を、道行く人々は擦れ違いざまに怪訝な眼差しをもって見送る。
それでも時実は伊織の声など気にも留めずに南下していった。
三条を過ぎ、四条を越え、気付けば産寧坂に差し掛かる。
現代のように高い建物がないのが救いだが、それでも見失わずに後を追うのは骨が折れるものだった。
ここまで来ると息はとっくに上がり切り、ぜいぜいと肩で呼吸する始末で、声を出せる余裕など全くなくなっていた。
見覚えのある料亭が視界に入り、それで漸く自分が産寧坂まで来ていたことに気付いたのだ。
時実は道沿いの塀に停まり、伊織が追い付いてくるのを待っている。
(いい加減、ここらで捕まえないと……)
体力の限界だ。
時実からまだ少し距離を取って立ち止まると、伊織は乱れた息を少しばかり整える。
そして、遠くから一歩一歩慎重に慎重を重ねて時実へ近付いていく。
「……さーぁ、時実さん? 大人しくこっちへ飛んでおいで~?」
ちょっとばかり足元がふらつくが、時実が跳躍する気配を見せないことを確かめながら、一歩ずつ着実に近付いていく。
「帰ったら好きなだけ、広沢さんの頭を掻き毟っていいからね~」
時実捕獲まで、あと三歩、二歩……
そして、最後の一歩を踏み出そうとしたその矢先。
時実は一際高く鳴き声を上げ、大空へと舞い上がった。
「ギャーーー!!! 時実ェェェエ!!!」
捕獲、失敗。
黒谷からここへ至るまでに、体力精神力ともに相当消耗している伊織にとっては、過酷な仕打ちである。
足は既にポッキリ折れそうなまでに酷使された状態だというのに、時実は空高く飛んでいってしまった。
あまりの衝撃に、伊織は時実の飛び去った方向を暫時呆然と見上げたまま、身動きが取れなかった。
(あっちの方向って、確か……)
清水寺。
そう、清水寺だ。
よりによってどんどん標高の高いところへ逃げて行ってしまうのは、一体何故なのか。
(嫌がらせだ……。時実の嫌がらせに違いない……)
得も言われぬ複雑な気分に襲われたが、それでも与えられた選択肢は追跡あるのみ。