第二十三章 千荊万棘【前篇】(4)
斎藤は、ちらと土方を振り返って言い、足早に部屋を出て行った。
ぱたりと控え目な音を立てて締め切られた障子戸の向こうで、斎藤の足音が遠退く。
その音に耳を傾けながら、土方は今一度煙管を持ち上げ、今度は深く存分に煙を呑んだ。
***
小奇麗に掃き清められた広沢の部屋に、一際どんより暗い影を落とす佐々木の姿があった。
大の大人が、それも一応は幕臣であり太刀の腕前も日の本一とまで噂されるほどの男が、何故こうも固執するのであろう。
ほんの小娘一人に。
伊織は時々、心の底から謎に思う。
「佐々木さん、あんた一応私の後見でしょう。どういうつもりでこんな騒ぎを起こしたっていうんですか」
後見とは、平たく言えば保護者のようなものと思っていた。
だがそれが佐々木である場合、かえって負担になっているような気がするのは何故なのか。
目の前で悄然と項垂れ、さめざめと涙に暮れる佐々木は、大きな体躯をちんまりと竦めて所在なさげに正座している。
「大体、私に用があるのなら直接私に言えば済むじゃないですか。何だって広沢さんに絡むんです。ええ?」
逆に伊織は、決して大きくはない身体を大いに仰け反らせて腕を組み、やや傲然として返答を迫る。
因みに被害者である広沢と、全くの巻き添えを食った手代木は、共に伊織の後方に控えて成り行きを見守っていた。
それは何とも妙な構図であった。
「本当にいい加減にしないと、黒谷への出入りを禁じますよ」
「そっ、それはあんまりであろう! そもそもおまえが剣術の稽古にさっぱり顔を出さぬから、私がこうして直々に交渉していただけではないかっ!?」
佐々木はがばと顔を上げ、潤んだ眼差しと矢鱈悲しげな声で抗議する。
が、そこに賺さず引き攣り顔の広沢が割って入った。
「いや待て、佐々木殿。お主、確か先程は剣術の稽古などとは一言も……」
「黙れ広沢っ! 私にとっては剣術の稽古と逢瀬とは同義なのだ!!」
つまり逢瀬の時間をよこせと広沢に迫っていたらしい。
どうせそんなことだろうとは思ったが、伊織は改めてがくりと肩を落とす。
それはどうやら背後の二人も同じようで、続けざまに重い吐息が聞こえた。
「……愚弟が迷惑を掛け申したな、広沢。分かっているだろうが、無論許可することはないぞ」
「当然でござろう。誰が許可なんぞ出すものか」
寧ろ出入り禁止だ、とまで広沢はぼやく。
「しかし手代木殿。これほどの執着ぶり、もう異常と言って良いのではなかろうか?」
「だから私の手にも負えぬと申したのだ。手綱はそこの高宮というのが握っているようなのでな」
と、手代木は言うが、そんな手綱を持たされても非常に困る。
障子を挟んだ熾烈な攻防の最中で、結局事態を収拾したのは伊織である。
手代木が死守していた障子戸をあっさり引き開けると、そこには涙目になった広沢と、それに絡み付いて泣き喚く変な生き物。
障子という防御壁をあえて崩した伊織の姿を目に留めるや否や、その変な生き物は迷わず伊織に飛び付いた。
否、正確には飛んだだけで、その指が触れる寸前までだったわけだが。
――神妙にしないと三枚に下ろしますよ。
抜き身の脇差を突き付け、氷点下の眼差しを以って放った伊織のそんな一言が、佐々木を制したのであった。
「あー。そういうわけで佐々木さん。今の私は新選組隊士であっても、会津本陣の公用方で使われている身ですから。広沢さんが否と言うなら私も従わざるを得ません。というか、以前から佐々木さんの稽古は気乗りしなかっ――」
「……っ!? ああああんまりではないかーーーっ! うううっ、最愛のおまえにこうも冷たくされては、もう生きてはゆけぬ…!」
がっくりと大袈裟なまでに崩れ落ち、佐々木は勢いよく洟を啜る。
どうやら泣くほど傷付いていることを最大限に主張したいらしい。
「さて、それじゃあ広沢さんの御用とやらを承りましょうか」
伊織は啜り泣く佐々木を見捨て、背後の二人へ向き直る。
「お……ああ、そうであったな。しかし、その、いいのかお主。まだ嗚咽が上がっているようだが」
広沢は伊織の後ろを指して言うが、心成しかその指も小さく震えているように見える。
「ああ、その人もう生きていけないそうですから、いいんじゃないですか」
少々酷薄だが、これくらい言わないと佐々木は黙らない。いや、これでも黙るかどうか、些か不安が残るくらいだ。