第二十二章 理非曲直(3)
それまで山南にくっつくようにしてじっとしていたかと思われた明里だが、その面持ちはほんのり膨れっ面に変化しており、山南はまたぞろ小さく吹き出した。
「やぁ、これは申し訳ない。決して君を蔑ろにしているわけではないんだ」
ごめんごめん、と微笑みながら、山南は膨れた明里の頬にそっと触れる。
「今もこうして一人の少年が悩みを打ち明けてくれていたわけだからね。私も誠心誠意応えたかったんだ。何しろ複雑なものだからね、話が見えなくて当然だよ」
「そうどすか?」
「そうだよ。浮かない顔をさせてしまってすまないね」
「山南さんの言う通りですよ。すみません、明里さん。今の話はあくまで私個人の悩み相談のようなものですから、あまり気になさらないでください」
伊織が山南を援護して言うと、明里は一層眉を八の字に下げる。愛嬌のある人だった。
伊織は思わずくすりと笑みを零し、すっと立ち上がる。
「私はこれで失礼しますね。あまり遅くなっても、黒谷の上役殿にどやされますから」
山南も明里も一様に「もう少しくらい」と引き留めたが、伊織はそれを再度断って座敷を後にした。
***
伊織の手によって襖がぱたりと閉められ、座敷には山南と明里の二人きりになる。
あまりにあっさりと帰ってしまった伊織に、些か呆気に取られてしまった感があったが、やがて山南は杯を再び手に取った。
「彼はまだ年若だけど、良い子だろう?」
「へえ、ほんまに。もう少ぅし居てはったら、うちも高宮はんともっと話してみとおした」
明里が頷くと、山南はちらりと明里を横目で見、苦笑する。
「おや、どうやら私もうかうかしていられないようだね。高宮君を恋敵に回したくはないんだが」
「いやや、なに言わはりますのん。恋敵やなんて」
くすくすと笑った後で、明里は不意に真顔になる。一旦目を伏せたかと思うと、明里は躊躇いがちに目線を戻した。
「あんお人……高宮はんは、会津のお人どすか?」
「うん? ああ、そうだよ」
山南は意表を突かれたものの、有り体に答える。何ということはない質問だったが、真顔で問うようなものでもないだろう。
明里のやや張り詰めた面持ちに僅かな違和感を覚えた山南だったが、逐一気に留めることもあるまいなと思い直した。
山南が伊織の出自について深く掘り下げて話すつもりがないことを察したのか、明里もそれ以上、高宮伊織という人物について尋ねることはしなかった。
***
時折、冷たい北風が吹きつける。
黒谷へと帰る道すがら、伊織はふと思い立ち、屯所の近くまで歩いてみることにした。
広沢からの用は既に済んでおり、さすがに屯所内にまで立ち入ろうとは思わなかったが、伊織自身の出発点とも呼べる新選組の屯所をその目に見ようという気になったのだ。
幕末という、この時代。
迷い込み、目覚めた時にはこの屯所の土蔵にいた。
時代を逆行してきた、その出来事だけでも俄かには信じ難いというのに、伊織がここへ来て最初に出会った人々が土方と沖田であったことは、実に驚異的とも言うべき偶然だろう。
宵闇の中、遠巻きにして眺める屯所の様子はひっそりと息を潜めるようにして、その門扉を閉ざしていた。市中巡察の隊士たちも既に任務を終えているのだろう。
恐怖すら覚えるような静寂の中で、伊織の胸中には様々な思いが交錯していた。
いずれ近く、新選組はこの屯所を後にすることになる。
新選組が京で初めて身を寄せた、壬生の屯所を出て――。
(そして、それよりも早く、あの人は……)
つい先刻まで言葉を交わしていた、山南敬助。
このまま時が流れてゆけばきっと、屯所が新たな場所へ移転するよりも早く――、次の春さえ待たずに、彼の命は失われることになるだろう。
他でもない、彼自身の手によって。
少なくとも伊織が現代で得た知識では、そういうことになっている。
現代にいた頃は、過去の出来事として記されたものを単純に目で追い、それに思いを馳せるだけでよかった。
けれど、今は。
その知識は単なる過去の出来事ではなく、これから辿る道行きの標となっているのだ。