第二十一章 各人各様(3)
すると、広沢は一つ嘆息して縁側の向うへ視線を向けてから、ふと思い出したように伊織を振り返った。
「ああ、そうだ。そろそろ新選組にも扶持を出さねばならん。新選組屯所に行って遣いを寄越すよう伝えてくれ」
「し、新選組屯所に……ですか」
内心、躊躇を覚えた。
土方と顔を合わせづらい気がしたのだ。
「これも勤めのうちだ。頼んだぞ」
広沢に念を押すように言われ、伊織は返事を渋りながらも了解の意を述べた。
***
「長州征伐総督に徳川慶勝公が就任なされたは兎も角、未だ大樹公がご上洛なさらぬとは……」
重々しい溜息に乗せ、壮年の会津藩士は愚痴を溢すように呟いた。
「此度の長州征伐は幕府にとってはまたとない好機。過激なる尊攘派勢力に歯止めを掛けるばかりか、幕府の威信を取り戻すまでに至るやもしれぬというに」
幕府権力を立て直すには、何としても将軍自らの進発を実現せねばなるまい。と、続けざまに苦渋の声で唸る。
げんなりと頭を抱える藩士の傍らには、京都見廻組与頭勤方・佐々木只三郎が座していた。
「大樹公がご病弱であられることを建前に、老中どもが発たせぬのでございましょう。今この時、幕府の危惧するものは恐らく、尊攘派よりも、一橋慶喜公――」
深刻な声音で言えば、藩士の面持ちは益々曇る。
「だから愚かだと申すのだ。老中どもは何も分かっておらん」
「……は」
「ここぞという時に、一橋公が幕政を動かそうとしているだの何だのと下らぬことばかり心配しおって……! 幕府には阿呆しかおらんのかっ!?」
「まあまあ落ち着いてください……」
思わず激昂しかけた藩士を、佐々木は努めて柔和に宥めた。
が、藩士の表情は和らぐどころかますます顰蹙し、佐々木を鋭く睨みつけた。
「ばかたれ、この愚弟! おまえこそ幕臣の身であるならば、上様を動かす妙案の一つでも捻り出さんか!」
(……そうか、広沢さんの気鬱の原因も多分これだな)
本陣の中の一室からこんな会話が聞こえ、偶然近くを通りかかった伊織は、思わず襖の陰に潜み、建具の隙間から中を窺っていた。
広沢の指示通りに新選組へ赴くつもりで廊下を歩いてきたのだが、聞き覚えのある声とその意味ありげな会話につい足を止めてしまったのだ。
幸いにも、中の二人はまだ伊織に気付いてはいないらしい。
尤も、思想的政治的に敵対する間柄でもないので、本来立ち聞きなどせず堂々としていれば良いのだが。
(佐々木さんの真面目な顔、久しぶりに見たな)
如何せん、ここで伊織が部屋に入っていけば、恐らく佐々木はぴたりと話を切り上げてしまうだろうと思われる。
ゆえに、こうして盗み聞きという所業に出たのであった。
因みに、佐々木を「愚弟」と無遠慮に罵った会津藩士は、その実兄である手代木直右衛門。
現在、会津藩の中でも特に公用人に抜擢され、幕府や諸藩の動向に気苦労を覚えている一人である。
その手代木が、再び大仰な溜息を吐いた。
「全く、そもそもおまえという奴は、このようなところで油を売っている場合ではなかろうが」
「兄上、私相手に散々愚痴を溢しておきながら、それは些か手酷い仰りよう……」
「阿呆が。どうせまた例の女子を追い掛け回しに来ているのであろう」
「ハハハ、確かに」
「何がハハハだ。笑い事ではないわ! 確かな出自も判らぬ女子をこの本陣に出仕させてくれなどと、つくづく呆れた奴だ」
「ご助言下さった兄上には感謝しております。……しかしですな」
「なんだ」
「あれの出自ですが、私の妾になってしまえば、一先ず私の縁者ということに落ち着きます」
「しかし肝心の相手にその気がなかろうが」
「ぐぬっ……兄上、何という暴言を! 私と伊織の仲を見てもいない兄上に、何がお分かりになるのか……!」
襖の向こうの二人の会話は、瞬く間に明後日の方向へと流れていく。
やれやれ、と内心で嘆息し、伊織は建具の隙間から顔を背けた。
それにしても、と伊織は首を傾げる。
佐々木の口から、少々気がかりな一言が出ていたように思う。
(手代木さんの、助言?)
会話の流れからは、伊織の会津藩本陣への出仕について、手代木から口添えしてくれるよう、佐々木が頼み込んだのだろうと読み取れる。