第二十章 愛別離苦(8)
男の予期せぬ反応に、思わずぎょっとした伊織だが、そこはあくまで冷静に振る舞う。
「私が高宮ですが……。ええと、初めてお目にかかります。……です、よね?」
初対面と確信していながら、つい男にも同意を求めてしまった。
男の瞠目振りが、さながら意外な知人と偶然再会したかのような雰囲気だったからである。
だが、伊織の戸惑いとは裏腹に、男が同意を示すことはなかった。
男の口は何か言いたげに何度も開閉を繰り返していたが、手足をもつれさせながらやっと立ち上がるまで、ついぞ言葉らしい言葉は発せられなかったのだ。
「あの、沖田さん、この人一体何なんで……」
「貞ぁぁあああ!!」
「えっ、……はぁ!?」
「貞おまえっ、やっぱり生きてたかバカぁああ!! おかえりおかえり黄泉がえりっ!」
男は息継ぎも無しに歓声のようなものを上げ、賺さず伊織に抱きつかんと突進してきた。
それを寸でのところでかわすと、男は勢いをつけたまま、玉砂利の上に豪快な滑り込みをする。
「なっ何なんだ急にあんた…!」
「うわー。高宮さん、今のかわしはお見事ですねぇ」
と、傍観中の沖田はパチパチと手を叩く。
「沖田さん、何なんですかこの人。貞って誰ですか、なんで突進してくるんですか…!」
「あはは、すみません。貞さんて娘さんなんだそうですよ。もしかして高宮さんなら、何か心当たりあるかなぁと思いまして」
飄々と言ってのける沖田に、伊織はげんなりと肩を落とした。
「何言ってるんですか。私に知り合いが少ないことは沖田さんもご存じですよね? 私がこの人の娘さんを知っているわけがないじゃないですか」
「そうですか、残念ですねぇ。高宮さんも知りませんか」
残念ですねと言いながら、その物言いはあまり残念そうには聞こえない。
すると、伊織に抱き付き損ねた件の男が、沖田との間に割って入り、やおら伊織の腕を掴んで絞り上げた。
「貞ァーーー!」
「いだだだだだっ!?」
ぎりぎりと捻りを加えられ、皮膚と神経の引き攣る痛みに耐え切れず、伊織は思わず大声を上げた。
「おおおおまえという娘はっ! 父に向かって何だその態度は!?」
「ヒーーー、おっさん痛いって! 人違い人違い!!」
「おっさんじゃない、父上だ!」
「いいから放せって、もう!!」
大人の男の握力たるや、今にも腕を引き千切られそうなほどである。
うっかり目尻に涙も浮かぶ。
「まあまあ高木さん、落ち着いて下さいよ。この人は本当に貞さんじゃないんです」
「な、なんと……! それは真か」
漸く仲裁に入ってくれた沖田に宥められ、男の注意が沖田に移る。と、同時に雑巾のように絞られていた伊織の腕もやっと解放された。
「んもう、やだなあ高木さん。最初に断っておいたはずですよ。貞さんは隊士の中にはいない、って」
半ば呆れたように笑う沖田と、それを耳にしてがっくりと肩を落とす謎の男。
男はどうやら高木というらしいが、その話の内容については、伊織にはどうにも解せなかった。
高木は悄然と項垂れたかと思うと、そのまま地べたに崩れ落ち、魂でも抜けてしまったかのような呆け顔で伊織を見詰め直している。
「これほど貞に似た容姿で、本当に貞ではないのか……」
「残念ながら、この人は高宮伊織といって、貞さんとは全くの別人です」
「記憶でも失っているだけで、本当は貞だったりしないか」
「記憶は失っていませんし、貞さんじゃありませんよ」
「だが、清水から転落したなら、一時的に貞としての記憶を失っていてもおかしくは……」
「しつこいようですが、この人は高宮伊織といって、更に付け加えると歴とした男ですよ」
「いや、しかしこの顔は貞そのもの……!」
「高木さんもしつこいですねぇ」
沖田の呆れた口調を最後に、高木はぐっと眉間に皺を寄せる。
そして、まるでねめつけるように伊織を一瞥した。
「……」
「な、何ですか。私は男ですよ。あなたの娘さんではありえませんよ」
またも突進されては堪らない、と身構えたが、意外にも高木はただ伊織の顔を見るのみ。
「……そうか、あい分かった。不躾な真似を致した」
「あ、……いえ」