第十九章 契合一致(4)
時尾の急激な変容に驚き、伊織は思わず緊張する。
「あんまり綺麗で、縁に駆け寄ったの。手摺に手を伸ばして、ね」
そこまで聞いて、伊織の心中には何かあまりよろしくない予感がよぎった。
が、時尾の様子を伺うと、まだ話を続けるようであったし、伊織はあえて言葉を呑んだ。
「伸ばした手が何かにぶつかった気がしたのよね。手摺じゃないわ、手摺に届くよりも少し手前の、何もないはずの場所だったから」
「……」
だんだんと伊織の顔が強張っていく。
伊織が舞台から転落した時も、夕刻だった。
舞台の縁で、身を乗り出して景色を眺めていた。
そして、
――何者かに背中を押されたのではなかったか。
記憶の断片に根深く残る、あの転落間際の光景。
伊織の背中を押した手があるはずの場所には、何も見ることは出来なかった。
少し離れた場所に、悲鳴を上げる級友がいたのが見えただけだった。
「私の背中」
「え? なぁに?」
「……それ、時尾さんがぶつかったのって、私じゃないんですか」
「……」
「……」
時尾は目をぱちくりと丸くして、伊織を見詰めた。
「どうしてそう思うの」
「えっ、……だって、私も清水の舞台から落ちたし。その時誰かに背中を押されたから……」
「でも、時代を超えて人を突き落とすなんてことが可能かしら?」
「それは……」
予感だけで口走ったことを、伊織は少し後悔した。
確かに時尾の言う通りだ。
ほぼ同じであろう時刻、同じ場所にいたからといって、ずっと遠い未来の人間に触れるなど不可能。
伊織は閉口した。
「って、不可能を主張したいところだけど。どうやらあなたを突き落としたのは私みたいなのよね」
沈黙も僅か、時尾は溜息混じりに告白した。
先に否定的なことを言っておいて、それはどういう意味なのか。
伊織は怪訝に眉を顰める。
だが、時尾はより神妙な面持ちになると、構わず話を進めた。
「そこから先の記憶がないのよ、私」
「はぁ? それは寧ろ、転落して気絶した私の台詞じゃないですか? どうして時尾さんの記憶がなくなるんです」
今の話の内容から察すると、時尾は舞台からは転落していないようだ。
だとすると、彼女が気絶する理由が見つからない。
「私も転落したのかもしれないし、してないのかもしれない。そこは記憶がないから良く分からないんだけど」
手が何かを押した直後から、ぱったりと記憶が途切れていると言うのだ。
「とにかく次に気付いた時は、もう私のいた京の都ではなかったわ」
***
時尾が目を覚ますと、そこは既に清水寺ではなかった。
目が覚めてもまだ、何か意味の分からない夢でも見ているのかと思った。
白く長い着衣を纏った人間がぞろぞろと取り囲む、寝台の上にいた。
全体が白色で統一された部屋。
見慣れない光景、見知らぬ顔。
時尾が目を覚ますと、彼らは一同に安堵とも驚愕ともつかぬ歓声を上げる。
その中で、見知らぬ人が自分を何度も「伊織」と呼ぶのを聞いた。
ある人は抱きついてくるし、ある人は嗚咽をあげて号泣している。
果ては、どういうわけだか泣きながら気でも触れたように馬鹿笑いしてる人もいた。
そこにあるものも人もすべて、時尾に見覚えのないものばかり。
呆然とする時尾が最初に口にした言葉は、
「なにこれ」
である。
すると、今まで嗚咽をあげて号泣していた中年期頃の男性が、ぴたりと泣くのをやめ、
「何じゃないわ馬鹿娘がぁああああ!! おまえ、これで死んでたらアレだぞおまえ、父さん親子の縁切ってたぞ!!」
時尾の目前にまで顔をぐっと近づけてそう叫んだ。
「ちょっ、唾汚い。誰があんたの娘だって?」
時尾は思わず顔を背けた。
すると同時に、今度はどうしたことか、男は愕然としたように腰から崩れ落ちたのだ。




