第十八章 幻詭猥雑(7)
(……ピヨ丸には、見えている?)
伊織以外の者にはその姿も声すらも感じ取ることが出来なかったはずだというのに。
ピヨ丸はごく当然のように時尾の肩で休み、時尾の声によって空へ羽ばたいた。
「動物には、見えてるみたいよ」
「!」
伊織は疑問を抱きはしたものの、一言も口にしてはいない。
伊織の素振りだけで、こちらの言いたいことが分かってしまったようだ。
時尾は、徐に伊織に向き直る。
その顔は、穏やかではあった。だが、決して笑ってはいなかった。
「清水寺でね、あなたを突き飛ばしたのは私みたいなのよね」
「!? っえ、はぁっ!?」
「でも、わざと突き飛ばしたわけじゃないから、誤解しないでよ」
もう幾月も前のことになるが、元々、この京都に来たのは現代に通っていた高校の修学旅行だった。
あの夕暮れに訪れた清水寺の舞台に起きた事は、忘れようにも忘れられない出来事である。
恐らく、その場に居合わせた友人や、他の生徒たちにとっても、少なからず衝撃的だったはずだ。
春の夕暮れ。茜に染まる空と、新緑に溢れた京の山々、それに、この幕末の時代とは違う京の風景。
入京の嬉しさにはしゃいで、舞台から身を乗り出した瞬間、何かに背中を突き飛ばされた。
あの一瞬は、思い返すにまだ新しい記憶。
高所から落下する時の、臓腑がひゅうっと縮むような感覚を思い出し、伊織は思わず胃の腑のあたりを押さえた。
だが、時尾は伊織の様子には目もくれず、何かを思い切ったように口を開いた。
「この時代に、高木時尾はもういないわ。だけど、その代わりに高宮伊織がいる。あなたのいた平成という時代には、もう高宮伊織はいない。その代わりに、高木時尾がいる」
「……」
幕末に生き、先の日本など知るはずもない人間の口から飛び出した、「平成」という元号。
生きているのか、或いは死んでいるのか。
それは、何も時尾に限ったことではない事に、伊織はようやっと気が付いた。
現代の――、平成の今頃、この時尾と同様、高宮伊織という人物も死んだことになっているのだろうか。
清水寺のあの舞台から転落した事実を思えば、そう解釈されていても何らおかしくはないはずだ。
「つまり、私とあなたは時代を超越して入れ替わった――ということになるわね」
「! ちょっと待って時尾さん、それ一体どういう――、じゃあ今、あんたは平成にいるってことなの!?」
「そうよ。身体だけは、ね」
どこか超然とした態度の時尾は、軽く頷く。
「身体だけ……?」
では、今こうして目の前にいる人物は? と、伊織は疑念に眉宇を顰めた。
「話すと少し、長いわよ?」
伊織が梶原のもとへと急いでいることを気に留めてか、時尾はちらりと上空の鷹を見て言う。
だが、ここで時尾の話を聞かなければ、次の機会がいつ訪れるか分かったものではない。
伊織は動揺に逸る胸中を抑え、時尾の話を促すように、静かに頷いた。
【第十八章 幻詭猥雑】終
第十九章へ続く