第十八章 幻詭猥雑(4)
「いやぁ、驚いたよ。突然だったからね。あの子にとって、ここは居辛い場所なんだろうか」
「さあ、どうでしょう。いずれにせよ、今黒谷へ出仕しているのは一時的なものです。局長のお戻りと同時に屯所へ戻って来ることになっているようですが」
ほんの僅か、その眦が寂しげに下げられていることに斎藤は気付く。
山南の何気ない一言に含まれた「居辛い場所」というのが、妙に実感の籠もった響きを醸し出していた。
それは、高宮伊織が居辛いか否かよりも、もっと別な次元を示す言葉のように。
「高宮は元々会津の人間だそうですし、寧ろ会津藩で召抱えられるのが普通なのでは?」
「ははは、確かにそう言われてみればその通りだ。――でも、不思議だね」
「? 何がですか」
「あんなに土方君に引っ付いていたのに、このところの高宮君は、どうも距離を置きたがっているように見える」
「それは……」
少なくとも伊織に黒谷出仕の決心をさせた決定打は、葛山の一件であろう。
葛山を処断したのは土方であり、それが亀裂となったことはまず間違いない。
と、斎藤は心中で答えるに留め、口に出すことは控えた。
だが、山南にはその心中が読めたとでも言うのか、或いは既に予見していたとでも言うのか、小さく吐息してみせた。
「私も、高宮君の戸惑う気持ちはよく分かるつもりだよ。このまま戻らない方が、あの子にとっては幸せなことなのかもしれない」
小声で、しかし、一語一句は明確に告げ、山南は斎藤に向き直る。
「つまらない話で引き留めてしまったね。これで失礼するよ、すまなかったね」
そう言って、山南は出会い頭と全く同じ笑みを浮かべると、斎藤の脇をすり抜けるように歩き出した。
***
「ピヨ丸様ぁああああ!!」
「おーーーい、ピヨ丸様ーーー!」
「ぬぅう、雛鳥め、いずこぞ!」
広い広い黒谷の屋敷内に、大声を張り上げながら縦横無尽に駆け巡る三人の姿があった。
バタバタと足音も憚らずに血相を変えて駆け抜けていく様子は、火事場をも連想させる。
板張りの廊下を並んで駆ける三人とは、先頭から会津藩大目付役・梶原平馬、次に新選組隊士であり現在は公用方にて見習い中の高宮伊織、その後続に見廻組与頭勤方の佐々木只三郎。
中でも最も泡を食った様子の梶原の手には、空の鳥籠がしっかりと携えられている。
よくよく中を覗き込んでみれば、綿のような羽が夥しく散乱していた。
伊織の元へ駆け込んできた時、梶原は「大変だ大変だ」と騒ぎ立てるばかりで、何がどう大変なのかさっぱりだったが、その手にある鳥籠で、大凡を察知したのだった。
「ぴ、ピヨ丸様の綿羽がこれほど散乱しているのだ、何者かに襲われたに違いない…!」
顔面蒼白になって訴えかける梶原は、廊下の真ん中で突如足を止めた。
お陰で、後続の伊織は危うくその背に追突しそうになり、もっと危うきは、更に後続の佐々木がここぞとばかりに両手を広げて伊織に追突しようとしたことである。
間一髪で身を捩り、佐々木の追突を免れたわけだが、その瞬間に見た佐々木の悲しげな目はなかなか忘れ難い悲壮さを漂わせていた。
「伊織殿、このまま三人纏まって探していても埒が明かぬ。私はこのまま屋内を捜す。主らは表を捜してみてはくれぬか」
勢いついて急停止し損ねた佐々木が、もう一歩で梶原にぶつかるだろう、というところで、梶原も機敏な条件反射でもって片手で佐々木を弾き飛ばす。
大柄な佐々木を苦もなく突き飛ばすのだから、梶原もツワモノである。
「頼む、伊織殿。ピヨ丸様の安否が分かるまで、この事決して殿のお耳に入れてはならぬぞ!」
「わ、分かりました。それじゃ、見つけたらすぐに報せてくださいね」
伊織は梶原と目を合わせ、軽く頷き合うと颯爽と踵を返して表へ飛び出した。佐々木を残して。
「ぬあああああっ、待て! 待たぬか私もおまえと共に行くぞぅううおおお!!」
「佐々木さんは屋根裏でも探してくださーい」
「そういうことだ、頼んだぞ佐々木殿。では!」
しゅっと袴の裾を翻し、梶原もまた素早くその場を去って行ってしまった。