第十七章 出処進退(7)
大口を叩く伊織を傍らから窺い、佐々木は途端におろおろし始める。ついさっきまでの泰然とした余裕の雰囲気は、もう無くなっていた。
「おいおい、そう無茶をするものではないぞ、伊織。何もこんなところでなくとも、お前の奉公先は他にもあるのだぞ!?」
「あんたの妾奉公なら死んでもお断りですよ、佐々木さん。んな下らないことを言いに来たなら、とっとと帰ってください。邪魔です」
「じ、邪魔!? 私はお前を案じて申しておるのだぞ!? 妾奉公が不満ならば、私はお前と駆け落ちしても構わん……!!」
伊織の腕をがっしりと握り締め、佐々木は続けざまに何かを言おうと口を開きかけた。
「佐々木殿、心配はご無用のようだ。務めの妨げになるので、お話ならば別室でお伺い致そう」
「ぬあああ、放さぬか広沢ッ!! 私はここでじっくり伊織を鑑賞致すゆえ、構うでない!!」
「……因みに余計な世話を焼くようだが、衆道にのめり込むのはほどほどにしたほうが良い」
そうして、佐々木は広沢によって部屋から引き摺り出されて行ってしまった。
***
夜半。
「ひ、広沢……さんっ!!」
書体も文面も、すべて見様見真似で清書を試み続け、伊織は既にげっそりと深い隈を刻んでいた。
仕上げたものを広沢の待つ部屋へと抱えて行き、その敷居を跨ごうというところで、伊織の痺れきった足が縺れた。
入室早々、盛大に転んでしまったばかりか、携えてきた紙の山が一面の猛吹雪となって舞い乱れる。
「にしゃァアアアアア!!! なァーーーにしてんだこの、おんつぁまがァアアアア!!!」
畳の上を派手に滑り込んだ伊織を、ばさばさと舞い落ちる料紙と広沢の怒声が襲う。
おんつぁま。即ち、「壊れて使い物にならない、役に立たない」の意。
「……すいません」
「しかもどう見ても、言い付けた分量をこなせておらんだろう!」
「……頑張ったんですけどね」
清書をぶちまけたことは兎も角、量に関しては初めから無理があるので、伊織もさり気なく反抗的になってみる。
すると、広沢が清書を一枚、出来を確かめるようにして両手に取って広げた。
倒れたままで傍らに立つ広沢を見上げてみるも、その手に持った紙で遮られ、表情までは窺い知れない。裏側から薄っすらと透けて見える自らの筆跡は、お世辞にも上出来とは言えないが、これでも努力の結果なのだ。
きっと広沢も首を縦に振ってくれる――
と、思ったのだが。
「え、あれ? ちょ……っ、広沢さん?」
広沢の腕が、掴んだ紙ごと小刻みに震え出していた。
「……何だ、この蚯蚓は」
「蚯蚓? ……や、やだなぁ、それは蚯蚓じゃなくてですね……」
伊織の返答も終わらぬうちに、広沢の両手が清書を一気に左右へ引き裂いた。
「カアーーーッ!!!!」
「ええええええええ!!?」
「ええい、お主は明日から毎日二刻!! 手習いを必修とするッ!!!」
「そんなーーー!!?」
要するに不合格、らしい。
少しくらい労いの言葉もあるかと期待してもいたのだが、どうやらそれは大間違いだったようだ。
力尽きてがっくりと畳に突っ伏した伊織の頭上で、広沢が再び、今度は幾分声音を抑えて言う。
「だがしかし……まあ、根性はそこそこ認めてやろう」
「!」
ぼそぼそと呟くような声は聞き取り難く、だがそれでも後半部分はしっかり伊織の耳にも届いた。
驚いてもう一度見上げた広沢の顔が、夜半の暗がりの中でもほんのりと照れたように見えるのは、果たして伊織の錯覚だろうか。
「あー……つまり、何だ、そのー……。今後も私の下で使ってやると言っておるのだ」
「……あ、ありがとう、ございます」
「但しッ! 手習いはしっかりやってもらうぞ! でなければお主は本当に使い物にならぬからな!!」
(――広沢さん、良い人なんだか何なんだか……何だかなぁ)
***
前途はまだまだ茫洋としている。
だが、会津藩本陣出仕初日のこの日、少なくとも今この時に自らが為すべき事を漸く見つけたような気がしていた。
【第十七章 出処進退】終
第十八章へ続く