第十六章 水天彷彿(7)
「ふふ。会って早々厠に誘うとは、なかなか大胆ではないか。流石に些か驚いたぞ?」
「誘ってません……っというか、今のは忘れてさっさと帰ってくだ……」
「さあ、では参ろうか」
伊織の言葉はまるで耳にも入っていない様子。
スタスタ歩み寄ってきたかと思えば、がしりと腕を掴み上げ、意気揚々と厠へ向かおうとする。
「うう……!」
突き飛ばしたいのは山々であったが、何しろ伊織もそろそろ限界である。
「さ、佐々木さん! あとでお礼しますから……私が戻るまで替わりにここで正座しててくださいっ!」
「ぬお!? なに、正座だと!?」
言うと同時に、伊織は佐々木の腕を引っ張り、その場に座らせる。
伊織の行動が不意をついたのか、佐々木は仰天しながら畳に引き据えられた。
「絶対身動きしないでくださいね!!!」
止めにびしっと言いつけ、伊織は即座に部屋を飛び出した。
「ぬああっ待て! 私を置いて行くのか伊織ーー!!?」
「黙って座ってろ限界なんじゃああああああ!!!」
***
敷地の片隅にある厠の戸を閉め、伊織はふっと一息つく。
幸か不幸か、佐々木の来訪で救われてしまった。
(戻るの嫌だけど……)
あの場所にいなければ、土方に諦めたと思われてしまう。
伊織は一つ重い溜息を吐き、副長室へと戻り始めた。
「あ……」
ふと顔を上げた先に、廊下を引き立てられていく葛山の姿が目に映った。
両脇を隊士に固められ、葛山の足取りはまさに引き摺るようである。
途端に、「切腹」の二文字が伊織の脳裏を占めた。
既に暴れた後なのだろうか、その顔は遠目にも生気の失せた様子が窺える。
ほんの一刻も経てば、無残に骸となる定めの者の姿だった。
廊下を引き摺る裸足の音が、やけに響く。
瞬間、止めに入ろうかと思ったが、やめた。
勿論、葛山だけを槍玉に挙げるこの仕打ちに納得しているわけではない。
だが今、伊織一人が止めに入ったところで、土方は粛清を取り止めはしないだろう。
下手に騒ぎ立てれば、葛山の恐怖をより一層大きなものにするだけだ。
そう思うのが、真に葛山への同情故なのか、それとも単に、志に迷う今の伊織自身が持つ、優柔不断さ故なのか。
伊織には、そのどちらとも感じ得なかった。
***
灯火は、幽けく揺らぐ。
一刻と半刻ほど経て副長室へと戻った土方の目に、思いがけない物が映った。
「っギャ!!」
「おお……土方君か、遅かったではないか。伊織が厠へ行ったきり、戻って来ないのだが」
石化したように、そこへ正座していたはずの伊織の姿はなく、何故か替わりに佐々木が鎮座していたのだ。
あまりに予想外の事に、一瞬、伊織の頑迷さが高じて、その姿を佐々木そっくりに作り変えてしまったのかと思ってしまったほど。
「い、伊織はどこに行きやがったんだ……」
どういう経緯があったというのか、佐々木はじんわりと涙ぐんでいる。
そうして、じっと灯火を見詰めていたのだ。
「土方君。私は……私は、何かしたのか?」
「そっ、そりゃ俺が訊きてえよ!!」
「私はただ、伊織と共に厠へ行こうとしていただけだ! なのに何故、伊織は戻って来ぬのだっ!?」
「厠ァ!?」
なるほど、それは確かに戻って来ないはずだ。
こんなにも原因は明らかであるのに、佐々木は全く気付こうともしない。
そればかりか、やるせない思いをぶちまけるかのように、佐々木は土方の膝に突進した。
「土方ァ!! さては貴様が伊織を隠したのだな!? あれは私の妾(予定)なのだぞっ!?」
「ぎゃーー!! 佐々木、てめぇ! 両膝抱え込むんじゃねえっ動けねえだろうが!!」
「伊織を出すのだ、さあ、出るものすべて出すが良い!!」
「馬鹿かてめぇええええ!! だ、大体なあ、あいつぁこれから黒谷に出仕するんだそうだ! 残念だったな、今後は此処に来ても伊織はいねぇ!」
はっはっは、と何故か高笑いで返すと、膝に絡みついた佐々木がぴたりと固まった。
そうして、ゆっくりと顔を上げた佐々木の目には、恐ろしいまでの期待が爛々と溢れているようだった。
「黒谷……?」
「あ、ああ……」
「会津藩本陣へ、か?」
「……だそうだが」
土方が若干怯みながらも肯定すると、佐々木はニヤリと口角を上げた。
「ヒッ!?」
「会津に戻る、か……フフ」
佐々木は、たっぷりと含み有りげに怪しく笑う。
そうして、屯所には漆黒の夜の帳が降りるのであった。
「第十六章 水天彷彿」終
第十七章へ続く