第十六章 水天彷彿(1)
壬生寺の境内に響く蜩の声も今ではその数を減らし、いつになく物悲しい。
茜に染まる空から霏々と降る、晩夏の雪のような声だった。
葛山を呼びに行ったであろう山崎の背を見送って以後、伊織はふらりと屯所から出た。
山崎に伴われて、何も知らずに土方の許へ来るだろう葛山の姿を思い描けば、哀れと嘆かずにはいられない。
土方はきっと、いつもの怜悧さでもって単刀直入に申し渡すことだろう。
切腹を命じられた葛山は、一体どんな顔で、どんな思いで、どんなことを言い返すのだろう。
それを傍で確かめる気には、とてもなれなかった。
だが、屯所を出てきた理由は、何も葛山のことばかりではない。
山崎の言い分にも溜飲の下がらない思いが蟠り、土方への不信も消え去りはしなかった。
だからだろうか、何故か己自身が新選組の屯所内にいるのが、妙に異な事のように思えて仕方なかったのだ。
昼日中は境内に遊ぶ子供たちの声が賑やかに聞こえるものだが、それも夕刻になるとぽつりと途絶えてしまう。
一人、拝殿の石段に座り込んだまま、伊織は両手で頭を抱え込んで膝に突っ伏した。
「……会津、帰ろうかなぁ」
そう呟いたことに、深い理由はない。
元居た現代の会津と、幕末という時代の今の会津。そのどちらに帰るのかと問われれば、きっとそれにも答えることなど出来ないだろう。
自らの力で現代に帰ることは出来ず、かと言って今の会津藩へ帰ろうとも身寄りはない。
伊織はもう一度、深い溜息を吐いた。
「そうだよ、帰って来いよーぉ」
「!?」
境内には誰の姿もなかったはずが、不意に伊織の独り言へ相槌を打つ声が返った。
ぎょっとして顔を上げてみれば、それはいつぞやの――。
「!!! あ、あんた……っ!」
「やーねぇ。あんた、じゃなくて時尾ですけど?」
「そそそそんなの知ってるよ! っじゃなくて! な、ちょっ…あんた…!?」
境内に人が足を踏み入れた気配もなかったのに。
何故、どうやって此処に現れたのか。
そう言おうとしたのが、時尾の余りに唐突な出現に虚を突かれ、伊織の舌の根も上手くは回ってくれなかった。
仰天する伊織を、時尾は正面から微苦笑で眺め下ろしていたのだ。
姿を現したと思えばすぐに消え、毎回意味の分からない言葉を残して去っていく。
名は、高木時尾。
会津藩士高木小十郎の娘である。
ぱくぱくと口を開閉する伊織を面白げに眺め、時尾はすとんと石段に腰を下ろした。
「悩んでるみたいねぇ。何をそんなに塞ぎこんでるのよ、私で良ければ聞いてあげるわよ~」
「……あからさまに楽しそうに聞かないでくれますかね」
「やーね、真面目に聞くったら。私はあの高木時尾よ? 強いのよ?」
「なんでそんな自信家なんですか、あんた……」
時尾が強いという事実は、確かに初対面の一件で実証済みだ。黒谷から屯所へ帰る伊織を襲った刺客を一瞬にして仕留めてしまったことがある。
(高木時尾が強いなんて、聞いたことないけど)
会津では武家の女も嗜み程度に武芸を学ぶのが常だが、それにしてもあの時の時尾の腕は人並み以上のような気がする。
身動きの取り難そうな振袖姿のくせに、やけにすばしっこいのも特徴的だ。
が。
「悩み相談に強さは要りませんけどね」
「あら、随分冷たい。信用なさいってば、私とあなたの仲じゃない」
時尾は数回、実に意外そうに目を瞬くと、ぐりぐりと肘で伊織の腕を押し突く。
妙に気安いのも気になるが、それはそうと、どこからどう見ても生きた人間そのものなのだ。
容保ら会津の人間が口にしていたことを鵜呑みにすれば、今ここにいる時尾は亡霊の類に入るのではなかろうか。
死んだ、と明言していたのがそこらの下級藩士程度なら単なる噂と片付けることも出来るだろう。
しかし、それは藩主たる松平容保、そして大目付の役に就く梶原平馬の言葉なのだ。