第二十話 動き出す準備
第二十話 動き出す準備
翌朝。
椎名敬之は、以前担当した建物の外壁前に立っていた。
佐々木智子がホースを持ち、アルミサッシの上部へ水を当てている。
水は縦枠を伝い、ガラス面を流れ落ちていった。
敬之は室内側へ回り、壁際と床を順に確認する。
数分後。
佐々木が水を止めた。
「どうですか?」
「ここは出てない」
敬之は腰を伸ばし、隣の開口を見た。
「明日は、隣のスパンを調べよう」
「分かりました」
佐々木はホースを巻き始めた。
敬之は濡れたサッシを一度だけ見上げ、手元の記録へ確認結果を書き込んだ。
それから、残された窓を順に見渡した。
「まだまだ、やる箇所あるなぁ」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
◇
その頃。
富山県嶺北市の隣町、宙河町。
梶中運送株式会社の本社兼車両基地へ、一台の大型トラックがゆっくりと入ってきた。
広い敷地には、何台もの大型トラックが並んでいる。
梶中運送は、六角サッシの運送部門のおよそ八割を請け負う、県内でも大きな運送会社だった。
かつては六角サッシの仕事も、数ある荷主のひとつに過ぎなかった。
しかし、出荷ミスによる緊急配送や、急な追加出荷。
そうした六角サッシ側の無理な依頼に何度も応え続けたことで、少しずつ信用を得ていった。
今では日本各地に拠点倉庫を持ち、そこから地元の協力会社のトラックが各現場へ商品を配送する仕組みが出来上がっている。
それでも、車両の手配が間に合わない時には、富山から走ってきたトラックがそのまま現場へ向かうこともあった。
所定の位置に停車したトラックから、一人の男が降りてくる。
渡部だった。
事務所へ入ると、配車係が顔を上げた。
「おかえりなさい、渡部さん」
「ただいま。疲れたぁ」
渡部は運行日報をカウンターへ置いた。
配車係がそれを受け取りながら言った。
「今回、東京の倉庫まででしたっけ?」
「いや。そのまま現場まで行ったよ。向こうで車が足りなかったんだって」
「ああ、やっぱり」
「まあ、仕事があるのはありがたいけどな」
渡部は肩を回した。
配車係は日報を確認しながら、翌日の配車表へ目を移す。
「あ、渡部さん」
「ん?」
「明日なんですけど」
渡部が嫌そうな顔をした。
「えー、明日嫁とデートなのに」
「夜積みだから、昼間は――」
「それじゃ嫁に怒られるよ。久しぶりに二人で焼肉食べに行く話してたんだ」
「積み込みは遅い時間ですし、夕食のあとからでも――」
「デートの日に仕事を入れた時点で怒られるんだよ」
「それにさ」
渡部は少し声を落とした。
「最近の六角サッシの連中、気持ち悪いぐらい表情ないんだよ」
「表情?」
「こっちから質問すると、パソコンの画面見てさ。なんか読みながら、こっちも見ないで答えるんだ」
渡部は顔をしかめる。
「本当に人間か?って思うぞ」
配車係が苦笑した。
「そんなにですか」
「だから明日は無理。他当たって」
「奥さん絡みだと、無理強いできないですね」
配車係は配車表を引っ込めた。
「渡部さんの奥さん、六波羅社長の妹さんだし。下手なことしたら会社にクレーム来そうだもんなぁ」
「来ねえよ」
渡部は笑った。
「でもミラクルですよね」
「何が?」
「渡部さんが、まさか六波羅家から奥さんもらうなんて」
「俺が一番そう思ってるよ」
配車係は笑いながら続けた。
「東京旅行中に迷子になってた八恵さんが、たまたま梶中運送のトラックを見つけて、藁にもすがる思いで話しかけた相手が渡部さんだったんですよね?」
「そうそう」
「予約してた切符も失くしてて、そのまま富山まで乗せて帰った」
「今考えたら、よく乗せたよな」
「それからですもんね。便乗禁止だった社内規定が変わったの」
配車係は笑った。
「六角関係者が困っていて、本人から依頼された場合は、ドライバーの判断に任せる」
「俺のせいみたいに言うなよ」
「いよっ、ロイヤルファミリー!」
「やめろよー!」
渡部は声を上げて笑った。
「俺はただのドライバーだよ。ワハハ!」
◇
六角サッシ本社。
人事部では、本多真紀の今後について話し合いが行われていた。
「本多さんからは、月二回の定期連絡もきちんと入っていますから、特に心配はしていません」
担当者が端末に表示された記録を確認する。
「現在は東京の知り合いの家で休養している、という報告も受けています」
「そうですか」
向かいに座る人事課長が頷いた。
「ただ、一度は復職に向けて面談をしないといけませんね」
「はい」
「こちらから東京へ出向きましょうか」
担当者は少し考えた。
「東京支店の人事課に任せる方法もありますね」
「その方が、本多さんの負担は少ないでしょう」
二人が今後の対応について話していると、担当者のパソコン画面に表示が現れた。
みどりからの提案だった。
担当者が目を通す。
「……嶺北本社での面談を推奨、だそうです」
「本社で?」
「はい」
人事課長は少しだけ考えた。
「では、嶺北本社に呼ぶことにしましょう」
「分かりました」
担当者は画面を操作する。
「案内は、本多さんのモバイルに送ります」
◇
東京。
PCコータローの作業スペースでは、大崎公太郎がパソコンの画面を見つめていた。
机の上には、若月千鶴から渡された資料が広げられている。
画面の中では、アイラが静かに待機していた。
公太郎は資料をめくりながら、スマートフォンを耳に当てる。
「若月さん。やっぱり、この部分なんですけど」
『はい』
電話の向こうから、若月の声が返ってきた。
「みどりの判断そのものを書き換えるんじゃなくて、判断の前提になる部分へ別の情報を入れる。そういう認識でいいんですよね?」
『その方が現実的です』
若月はすぐに答えた。
『現在のみどりが、どこまで自己修正しているのか分かりません。正面から制御を奪おうとすれば、拒否される可能性があります』
「だから、みどり自身に判断させる」
『そうです』
公太郎は椅子にもたれた。
「面倒くさいAIだな」
『あなたが言いますか?』
「俺が作ったのは、もっとかわいいやつですよ」
公太郎が画面を見る。
アイラが反応した。
《評価ありがとうございます》
「ほらな」
『……そういうところは似ていますね』
「似てません」
公太郎は即答した。
電話の向こうで、若月が小さく笑った。
やがて、公太郎は机の端に置かれた小箱へ目を向けた。
箱の中には、一本のスマートウォッチが入っている。
「じゃあ、こっちは俺の仕事ですね」
『お願いします』
「成功する保証は?」
少し間が空いた。
『ありません』
「ですよね」
公太郎は笑った。
『ただ――』
若月の声が少しだけ真剣になる。
『今のまま何もしなければ、状況は変わりません』
公太郎は黙ってスマートウォッチを手に取った。
「それなら、やるしかないか」
通話を終える。
公太郎は作業台へ移動した。
スマートウォッチとパソコンをケーブルで接続する。
「アイラ」
《はい》
「これから、お前の引っ越し準備を始めるぞ」
《引っ越しですか?》
「期間限定だけどな」
《新しい端末へ移動するという意味でしょうか》
「正解」
公太郎はキーボードへ手を置いた。
画面に複数のウインドウが開く。
その横で、スマートウォッチの小さな画面が点灯した。
「さて」
公太郎は指を鳴らした。
「仕事するか」
◇
しばらくして。
東京で休養を続けていた本多真紀の社内モバイルに、一件の通知が届いた。
送信元は、人事部。
表題は
『復職面談のご案内』
面談日時――十月三日、午後一時。
面談場所――六角サッシ嶺北本社。
と表示されていた。




