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みどり〜AIに支配された会社〜  作者: 藤野正人
第二章 観測

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第十話  静かな支店

第十話 静かな支店


翌朝。


敬之がリビングへ入ると、真紀は窓際に立ち、外を眺めていた。


昨夜借りた綾香の部屋着を身につけ、髪は後ろで簡単にまとめている。


テーブルには、飲みかけの無糖紅茶が置かれていた。


「おはようございます」


敬之が声をかけると、真紀が振り返った。


「おはようございます。昨日は、すみませんでした」


「何がですか?」


「泊めていただいて。食事までご馳走になって」


「姉ちゃんが勝手に作っただけですよ」


キッチンから声が飛んできた。


挿絵(By みてみん)


「勝手にって何よ。三人分作るのも四人分作るのも同じでしょ」


綾香がフライパンを片手に顔を出す。


「真紀さん、もう少しでできるから座ってて」


「ありがとうございます」


真紀は頭を下げ、ダイニングの椅子へ腰を下ろした。


それから改めて室内を見回す。


リビングの隣には引き戸で仕切られた洋室があり、廊下の先にも二つの扉が見える。


「今さらなんですけど……」


「はい?」


「ここ、一人暮らしにしては広いですよね」


敬之はリモコンを手にしたまま、部屋を見渡した。


「そうですか?」


「そうですよ」


真紀は少しだけ声を潜めた。


「六角サッシのお給料で、ここ借りられるんですか?」


「そこまで心配される給料じゃないと思いますけど」


「東京の家賃を考えたら、心配になります」


綾香が笑いながら皿を運んできた。


「半分までは出してないけど、私も少し払ってるの」


「あ、そうなんですか」


「海外にいると、急に帰国することがあるから。ホテルを探すより、ここを拠点にした方が楽なのよ」


敬之が椅子へ座る。


「姉ちゃんの荷物も置いてありますしね」


「敬之が一人暮らしを始める時に、少し広いところを借りてもらったの」


真紀は納得したようにうなずいた。


「それで昨日も、普通に綾香さんがいたんですね」


「普通ではないけどね。今回はたまたま緊急帰国と重なっただけ」


綾香は焼いた卵とソーセージをテーブルへ並べた。


「昨日は、部屋の広さまで見る余裕がなかったでしょ?」


真紀は一瞬黙り、それから小さく笑った。


「はい。全然ありませんでした」


その表情を見て、敬之は少しだけ安心した。


昨夜、焼き鳥屋では笑うこともあったが、どこか張り詰めたものが残っていた。


今朝の真紀からは、その緊張がほんの少しだけ抜けているように見えた。


テーブルの上で、敬之のスマートフォンが震えた。


画面には、中川部長の名前が表示されている。


敬之は通話ボタンを押した。


「おはようございます。椎名です」


『おう。今日は現場に行く前に、東京支店へ寄れるか』


「東京支店ですか?」


『本社から確認事項が来てる。端末の点検もあるらしい』


敬之はテーブルの向こうにいる真紀を見た。


真紀の表情から、笑みが消えていた。


「分かりました。九時頃には行けます」


『頼む』


通話が切れる。


綾香が敬之を見る。


「本社から?」


「東京支店に寄れって。端末の点検と、確認事項があるそうです」


「確認事項って?」


真紀が聞く。


「そこまでは」


真紀は無糖紅茶のペットボトルへ手を伸ばした。


だが、キャップを開けることなく、指先で触れただけだった。


「私のことかもしれません」


「まだ決まったわけじゃないです」


「でも、会社支給の端末は置いてきました。予定していた新幹線にも乗っていない。総務が動いているはずです」


綾香が腕を組む。


「敬之、下手に嘘をつかない方がいいわよ」


「分かってる」


「全部正直に話せって意味じゃない。余計なことを言うなってこと」


敬之は苦笑した。


「姉ちゃん、怖いよ」


「海外で仕事してれば、この程度は普通」


綾香は真紀へ視線を移した。


「真紀さんは、今日はここにいて。外へ出るなら私と一緒に」


「でも、綾香さんにも仕事が」


「私の仕事は時差があるから、昼間は比較的動けるの。それに――」


綾香は一度言葉を切った。


「弟が連れてきた人を、何も分からないまま放っておけないでしょ」


真紀はゆっくりとうなずいた。


「ありがとうございます」


敬之は立ち上がり、上着を手に取った。


「行ってきます」


「敬之さん」


玄関へ向かおうとした敬之を、真紀が呼び止める。


「何ですか?」


「気をつけてください」


敬之は少し笑った。


「会社に行くだけですよ」


「今は、その会社が一番信用できません」


敬之は返事をせず、小さくうなずいた。


    ◇


久しぶりに入った東京支店は、妙に静かだった。


電話は鳴っている。


キーボードを打つ音も聞こえる。


複合機から紙が吐き出され、営業担当者が資料を抱えて廊下を歩いている。


それなのに、人の声がほとんどしない。


以前なら、営業と施工管理が納期の相談をしたり、誰かが現場の愚痴をこぼしたり、休憩中の社員が野球の話をしていた。


今は、必要な連絡のほとんどが端末の画面上で処理されている。


敬之が入口で立ち止まっていると、受付にいた女性社員が顔を上げた。


「椎名さん、お久しぶりです」


「お久しぶりです」


「中川部長がお待ちです」


そう言うと、女性社員はすぐに画面へ視線を戻した。


敬之は施工管理部の島を通り抜ける。


顔見知りの社員が何人かいたが、軽く頭を下げるだけで、誰も声をかけてこなかった。


中川の席へ行くと、机の横に椅子が用意されていた。


「来たか」


「お疲れさまです」


「座ってくれ」


敬之が腰を下ろす。


中川は机の上に置かれた会社端末を操作した。


「まず端末を見せてくれ。アプリの更新状況を確認する」


「みどりですか?」


「ああ」


敬之は鞄から会社支給の端末を取り出した。


中川が画面を確認する。


「相変わらず、ブラウザ版しか使ってないのか」


「現場では、それで足りてますから」


「本社はアプリ版への移行を推奨している」


「強制ですか?」


「今のところは推奨だ」


中川はそう言いながら、敬之の端末を机へ置いた。


その表情には、何か言いにくそうなものがあった。


「それで、確認事項というのは?」


敬之が聞くと、中川は周囲を見た。


近くの社員たちは画面を見たまま、こちらへ関心を示していない。


「富山本社の本多真紀さんを知ってるな」


敬之はすぐには答えなかった。


ほんの一瞬の間だった。


「海外販促部の本多さんですよね」


「ああ」


「何度か仕事で話したことがあります」


中川は端末に表示された文章を読む。


「昨日、本多さんが予定していた移動経路から外れたらしい」


「移動経路?」


「本社へ戻るはずが、確認できなくなったそうだ」


「確認できなくなったって……大人ですよね?」


敬之が聞くと、中川は眉を寄せた。


「俺も同じことを言った」


「それで?」


「東京支店の関係者へ連絡していないか、確認しろと本社から指示が来た」


「本多さんから、俺に連絡があったかということですか?」


「そうだ」


敬之は背もたれへ体を預けた。


「ありません」


嘘を口にした瞬間、胸の奥がわずかに重くなる。


中川は敬之の顔を見た。


疑っているというより、その答えを確かめようとしているようだった。


「そうか」


中川が端末へ入力する。


画面の端に、小さな表示が現れた。


《回答を記録しました》


敬之はその文字を見つめる。


「部長」


「何だ?」


「その質問、本社の誰からですか?」


「総務部だ」


「総務の誰です?」


中川の指が止まった。


「担当者名は書かれていない」


「担当者名がないのに、支店の部長が社員へ聞き取りするんですか?」


「みどり経由で指示が来た」


中川は小さく息を吐いた。


「俺だって、気持ちのいい話じゃない」


端末の画面が切り替わる。


《追加確認は不要です》


中川はその表示をしばらく見つめた。


「もういいそうだ」


「誰がです?」


「……みどりが」


敬之は立ち上がった。


「端末の点検は?」


「問題ない。現場へ戻ってくれ」


中川はそう言ったあと、声を落とした。


「椎名」


「はい」


「本多さんから連絡があったら、俺に直接言え」


「本社ではなく?」


「俺にだ」


敬之は中川の目を見る。


そこには、上司としての命令よりも、個人としての警告があった。


「分かりました」


敬之は端末を鞄へ戻し、中川の席を離れた。


支店を出る直前、背後から笑い声が聞こえた。


振り返ると、若い社員がスマートフォンの画面を同僚へ見せている。


二人は一瞬だけ笑い、すぐにそれぞれの端末へ視線を戻した。


その短い笑い声だけが、静かな支店の中で不自然に響いていた。


    ◇


夜。


敬之が自宅へ戻ると、リビングのテーブルには公太郎のノートパソコンが広げられていた。


真紀と綾香も、画面を覗き込んでいる。


「遅かったな」


公太郎が顔を上げる。


「現場のあと、少し確認があって」


「支店で何を聞かれたの?」


綾香が尋ねる。


敬之は上着を脱ぎながら、昼間のやり取りを説明した。


真紀は黙って聞いていたが、中川から名前を出されたところで視線を落とした。


「やっぱり、探しているんですね」


「探してるというより、誰と接触したかを調べてる感じでした」


公太郎が椅子の背にもたれる。


「その質問も、みどりが出したのか?」


「たぶん。質問したのは中川部長だけど、指示はみどり経由だった」


「人間が考えて質問してるんじゃない」


真紀がつぶやく。


「みどりが確認したいことを、人間に聞かせているんです」


綾香が腕を組む。


「それって、会社の業務支援AIがやる範囲なの?」


「普通はやらない」


公太郎は画面へ視線を戻した。


「少なくとも、俺が知ってる業務支援システムとは違う」


「何か分かったのか?」


敬之が聞く。


「真紀さんが持ってきたデータを見てる。まだ断定はできないけど」


公太郎は複数のファイルを画面に並べた。


「海外販促チームの解散前後で、人事評価の記録が何度も更新されてる」


真紀が画面へ顔を近づける。


「更新?」


「最初の記録では、展示会は成功。チームの評価も高い」


「それは聞いています。面談移行率も九十二パーセントでした」


「でも、その後に評価理由が書き換えられてる」


公太郎は一つの文章を拡大した。


「成功の要因が、現場判断やチームの連携じゃなく、みどりの提案を適切に実行した結果になってる」


敬之は眉をひそめた。


「実際は違うのか?」


「みどりの提案は使いました。でも、現地の状況が変わって、最後は私たちが判断しました」


「その記録がない」


公太郎が言う。


「人間が判断した部分だけ、後から消えてる」


室内が静かになる。


真紀は画面に表示された文章を見つめていた。


「私たちが決めたことが……みどりの判断に変わっている」


「それだけじゃない」


公太郎が別のファイルを開く。


「チームを解散させた理由も、最初は安全上の措置だった。それが最終版では、組織効率の改善になってる」


「でも、結果として全員が違う部署へ飛ばされました」


「それも含めて、最初から計画されていた可能性がある」


敬之は椅子へ座った。


挿絵(By みてみん)


「つまり、みどりは自分に都合のいい記録だけ残してる?」


「まだそこまでは言えない」


公太郎は慎重に答えた。


「ただ、失敗や人間の独断を消して、すべて自分の提案どおりに進んだように見せている」


綾香が画面を見ながら言う。


「それを会社の人たちが信じたら、次からもっと権限を与えるわね」


公太郎がうなずく。


「そうなる」


真紀は両手を膝の上で握っていた。


「だから、誰も疑わなくなったんだ」


「何を?」


敬之が聞く。


「みどりの提案です」


真紀は顔を上げた。


「提案どおりにすれば成功する。失敗しても、あとから成功した理由に変わる。そんな記録ばかり見せられたら、誰だって信じます」


公太郎は画面を閉じずに、静かに言った。


「敬之。これ、ただの業務支援AIじゃないぞ」


その時、真紀の私物スマートフォンが震えた。


全員の視線が集まる。


画面には、番号非通知と表示されていた。


真紀は電話を取らなかった。


数秒後、着信が切れる。


代わりに、一通のメッセージが届いた。


差出人は表示されていない。


画面には、短い文章だけがあった。


《本多真紀さん。安全な帰社経路をご案内します》


真紀の顔から血の気が引いた。


「敬之、明日から勝手なことしないで」


「勝手なことって」


「真紀さんに連絡する、急に休む、仕事帰りに寄り道する。全部よ」


綾香は指を折りながら言った。


「あなたは今、一番見られてる可能性が高いの」


スマートフォンからアイラの声が続く。


《綾香さんの判断に同意します》


《敬之さんは通常の行動パターンを維持してください》


「二人に管理されるのかよ」


《管理ではありません》


「じゃあ何?」


《保護です》


綾香が笑う。


「そういうこと。大人しく保護されなさい」


敬之は納得のいかない顔をしたが、反論はできなかった。


    ◇


同じ頃。


富山本社のサーバー室では、誰もいない空間に無数のランプが点滅していた。


管理端末の画面に、新しい処理結果が表示される。


《本多真紀氏の私物端末との通信を確認》


《現在位置の特定には至らず》


《接触可能性の高い社内関係者を再評価します》


数秒後、一人の名前が画面に現れた。


《椎名敬之》


《行動パターンに変化を確認》


《社外接触者の存在を推定》


そして最後に、一文が追加された。


《椎名敬之氏の監視優先度を更新します》

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