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ブラック企業で過労死した私、転生先もワンマン社長な王太子の婚約者でした

作者: 中身無男
掲載日:2026/06/30

 指先の感覚がないのは、たぶん三日、眠っていないからだ。


 でも、それが普通だと思っていた。


 できない理由を並べるな、というのが上司の口癖だった。


 だから、できない、とは言わなかった。


 一度も。


 わたしが死んだ夜も、納期だけが、迫っていた。


 人気のないフロアで、わたしの机だけが、光っていた。


 積まれた書類は、朝までに半分も終わらない量だった。


 それでも、終わらせるしかなかった。


 みんな、こうしている。


 わたしだけが、特別なわけじゃない。


 そう思っていた。


 キーボードの上に、ことりと頬が落ちた。


 ああ、まだ終わっていないのに。


 遠ざかる光を見ながら、最後に考えたのも、納期のことだった。


    ◇


 目を開けると、知らない天井だった。


 絹の天蓋。やわらかい寝具。窓から差す、朝の光。


 ヴィオラ・アーレンス。


 この国の伯爵令嬢で、王太子の婚約者。


 それが、いまのわたしの名前だった。


 死んだのだ、と理解するのに、時間はかからなかった。


 そして、生まれ変わったのだ、とも。


 身体を起こすと、枕元に、書類の束が積んであった。


 明日の打ち合わせの、覚え書きだった。


 昨夜のうちに目を通しておくと、自分で決めていたものだ。


 ああ、と思う。


 ここでも、やることは同じだ。


 天蓋の絹は美しかったけれど、机の上の景色は、前と、変わらなかった。


 きっと、世界とは、こういうものなのだ。


 そう思って、わたしは書類に手を伸ばした。


    ◇


 王太子レオンハルトは、明るい人だった。


「ヴィオラ、難しい顔をするな。場が暗くなる」


 執務室に入るなり、彼はそう言って笑った。


 隣国との同盟を軸に、国そのものを作り変える。


 それが、彼の悲願だった。


 しかも、何もかもを、一度に成し遂げようとしていた。


 その段取りを仕切るのが、婚約者であるわたしの役目だった。


「殿下。お金のことで、一つだけ」


 わたしは、書面を差し出した。


「すべてを一度に進めれば、年明けには、国庫の底が見えます」


「ああ、細かい話か」


 レオンハルトは、書面を見なかった。


「お前は、いつもそうだ。できない理由を探すのが、上手い」


 胸の奥が、ひやりとした。


 その言葉を、わたしは、どこかで聞いた気がした。


 けれど、どこでだったか、思い出せなかった。


「……出過ぎました。申し訳ありません」


 わたしは、書面を引いた。


 それ以上は、言わなかった。


 言っても、届かないことは、わかっていた。


    ◇


 その夜、わたしは一人で、数字の穴を埋めた。


 殿下の計画は、止められない。


 止める必要はない、と殿下が仰ったから。


 だから、止まらないまま、破綻しない道を探す。


 足の出る分を、別の名目で工面して、そっと回しておく。


 今年の不足は、来年の余りで埋める。


 破綻を、先へ先へと、送っていく。


 表からは、何も変わって見えない。


 殿下の言う通りに、滞りなく進んでいるように見える。


 それで、いい。


 誰にも気づかれないのが、いちばんいい。


 積まれた書類は、朝になっても、終わらなかった。


 蝋燭が短くなる頃、紙の縁で、指を切った。


 血が一滴、滲んだ。


 書面にかからなくて、よかった、と思った。


 それだけだった。


    ◇


 ただ一つ、奇妙なことがあった。


 工面の控えは、形式上、同盟相手の国にも送る決まりだった。


 表向きはただの帳尻合わせで、誰も裏まで読まないはずのものだった。


 ところが、一度だけ、返事が来た。


 相手国の後見人、アルヴィス・レーヴェン。


 その名で、欄外に、短い問いが書かれていた。


「この先送りは、いつまで保つのか」


 わたしは、しばらく、その一文を見つめた。


 気づかれるはずが、なかった。


 表からは見えないように、隠したのだ。


 それを、読んだ人がいる。


 その問いの答えを、本当は、わたしも知っていた。


 そう長くは、保たない。


 ただ、その夜は、なぜか、いつもより丁寧に、返事を書いた。


    ◇


 ミレーユ・ロエンタールは、有力公爵家の令嬢だった。


 殿下の覚えもめでたく、いつも、彼のそばにいた。


「ヴィオラ様は、すごいですわ。あんなに難しい数字を、いつも一人で」


 彼女は、わたしを慕ってくれていた。


 その目に、嘘はなかった。


 だから、わたしは、油断していたのだと思う。


 ある日、ミレーユ嬢が、わたしの机の控えを、見てしまった。


 別名目で回した、工面の跡を。


 彼女は、目を丸くした。


「これ……殿下のご存じない、お金の流れですわよね」


「ミレーユ様。これは」


「ヴィオラ様、いけませんわ」


 彼女は、本気で、わたしを案じる顔をした。


「殿下に黙って、こんなこと。きっと、殿下も驚かれます。ちゃんと、お話ししなければ」


 止める間も、なかった。


 彼女は、善意で、殿下のもとへ駆けていった。


    ◇


 同盟の披露を兼ねた、舞踏会の最中だった。


 両国の貴族が集い、音楽が流れ、誰もが笑っていた。


 その中央で、レオンハルトが、わたしを呼んだ。


「ヴィオラ・アーレンス」


 声が、低かった。


「お前、俺に黙って、国庫を動かしていたそうだな」


 音が、止んだ。


 人々の視線が、集まる。


 ミレーユ嬢が、殿下の後ろで、おろおろと目を伏せていた。


「殿下、わたくし、ヴィオラ様を案じて、それで……」


「いい。よく知らせてくれた」


 レオンハルトは、わたしに向き直った。


「答えろ。俺の許しも得ず、勝手に金を動かしたな」


 否定は、できなかった。


 本当に、動かしていたから。


「……殿下の計画が、立ち行くように。破綻を、防ぐために」


「破綻だと」


 彼の顔が、赤くなった。


「俺の計画が、破綻するというのか。お前ごときが、それを決めるのか」


「違います。わたしは、ただ」


「俺に何も言わず、勝手に何をしている」


 声が、広間に響いた。


「お前ごときに、何ができる。これは、国家への――ひいては、俺への、反逆だ」


 わたしは、目を見開いた。


 反逆。


 破綻を防ごうとしたことが、反逆。


「お前を、追放する」


 レオンハルトは、言い放った。


「俺の隣に、俺を裏切る女は、いらない」


 わたしは、何も、言えなかった。


 この道の先で、地面が切れている。


 落ちてから気づいても、遅い。


 それを、知らせようとしただけだった。


 けれど、それを言っても、ここでは、届かない。


 退がる背に、ミレーユ嬢の、涙ぐんだ声が追ってきた。


「ヴィオラ様……わたくし、ずっと、あなたの味方でしたのに」


 その声には、やはり、嘘がなかった。


 それが、いちばん、こたえた。


    ◇


 その夜、わたしは控えの間で、引き継ぎの書類をまとめていた。


 追放された身でも、後始末は要る。


 誰も読まないと、わかっていても、まとめる。


 それが、仕事だった。


 扉が、開いた。


「あなたが回していた工面が、今日、すべて止められたな」


 顔を上げると、見知らぬ男が立っていた。


 仕立てのいい装い。静かな目。


 その手に、わたしが送った控えがあった。


「アルヴィス・レーヴェンだ」


 男は、名乗った。


 欄外に、問いを返してきた人。


 顔は、初めて見た。


 胸が、ひやりとした。


 同盟相手の人だ。


 工面が止まれば、相手国にも、損が出る。


 責めに来たのだ。


「申し訳、ありません」


 わたしは、目を伏せた。


「わたしの力が、足りず」


「礼を、言いに来た」


 え、と、顔を上げた。


「あの控えを読んで、すぐにわかった。この計画は、必ず破綻する。だから、同盟からは手を引かせてもらった」


 アルヴィスは、静かに続けた。


「貴国は、婚約者も、有能な実務者も、同盟相手も、今日一度に失った。気づいてすら、いないだろうが」


 責めが、来ない。


 それどころか。


「あの……」声が、掠れた。「なぜ、お叱りに、ならないのですか」


 アルヴィスは、わたしを、まっすぐ見た。


「叱る理由が、ない。あなたは、正しかった」


「ですが、わたしは、止められませんでした。役に、立てなかった。わたしの代わりなど、いくらでも」


「いない」


 短く、アルヴィスは、遮った。


「破綻すると、嫌われてでも告げる人間が、あの国に、一人でもいたか」


 わたしは、答えられなかった。


 いなかった。


 わたし、一人だった。


「数字を合わせるだけなら、代わりはいたかもしれない」


 アルヴィスは、言った。


「だが、計画が失敗していると、先に言える人間は、いない。あなたの代わりは、どこにもいない」


 わたしの手が、震えた。


 代わりは、いくらでもいる。


 ずっと、そう言われてきた。


 前の世界でも。この世界でも。


 自分の名で、必要とされたことが、なかった。


「私の国に、来てほしい」


 アルヴィスは、言った。


「ヴィオラ・アーレンスの名で、私の国で、働いてほしい」


 わたしの名を、彼は、はっきりと呼んだ。


 誰の代わりでもない、わたしの名を。


    ◇


 アルヴィスの国は、穏やかだった。


 悪い人が、いない。


 ただ、危ういことに、誰も気づいていなかった。


 会議は長いが、何も決まらない。


 期日は、なんとなく延びる。


 困ったことが起きても、まあ何とかなる、で流れていく。


 着いてすぐ、わたしは、ひとつの計画に気づいた。


 国土を縦に貫く、大きな運河。


 何代も前から続く、国の悲願だった。


 全線を、一日も早く通したい。


 その想いで、予算は、全線にまんべんなく撒かれていた。


 けれど、数字を見れば、わかった。


 このままでは、どの区間も完成しないまま、国庫だけが尽きる。


 会議で、わたしは言った。


「この進め方では、運河は、永遠に通りません」


 座が、ざわついた。


「では、悲願を諦めよと?」


「そんな、水を差すような」


 また、だ、と思った。


 また、わたしは、場を暗くする者になる。


 前の世界と、同じだ。


 ここでも、世界は、こうなのだ。


 俯きかけた、そのとき。


「聞こう」


 アルヴィスの声が、した。


「なぜ、永遠に通らないと思う。最後まで、聞かせてほしい」


 わたしは、顔を上げた。


 握り潰さない。


 黙らせない。


 卓に、載せる。


 レオンハルトが捨てた同じ言葉を、この人は、拾った。


「……全線に、薄く撒いておられます」


 声が、わずかに震えていた。


 聞いてもらえることに、慣れていなかった。


「だから、どこも仕上がらない。まず、いちばん工事の進んでいる一区間に、予算を寄せてください。あと少しで通る区間が、すでにあります」


 わたしは、図を広げた。


「そこが通れば、すぐに通行料が入ります。その上がりを、次に進んでいる区間へ回す。新たに借りなくても、一区間ずつ、延ばしていけます」


「全線が通るのは、いつになる」


「……何十年も、先です。わたしたちは、見届けられないかもしれません」


 正直に、言った。


 嘘は、つけなかった。


「ですが、この道なら、国庫は尽きません。むしろ、年ごとに豊かになりながら、確実に、近づきます」


 しん、とした。


 諦めよ、ではない。


 一気に、でもない。


 早く実る一本から、ゆっくり、確かに。


「やってみよう」


 アルヴィスが、言った。


 迷いの、ない声だった。


    ◇


 いちばん進んでいた区間は、その年のうちに、通った。


 通行料が、入り始めた。


 その上がりが、次の区間を、動かした。


 新しい借金は、しなかった。


 それでいて、悲願は、初めて前に進んだ。


「本当は、私も、薄々わかっていた」


 あとで、アルヴィスが言った。


 図面越しに、ぽつりと。


「このままでは通らないと。だが、誰も口にしないから、私も、言わずにいた」


「気づいて、おられたのですか」


「気づいていて、流していた。いちばん、たちが悪い」


 彼は、苦く笑った。


「だから、あなたを呼んだ。私に言えないことを、言える人だから」


 わたしは、その横顔を、見た。


 この人は、自分の弱さを、知っている。


 知っていて、それを補う人を、隣に置こうとする。


 レオンハルトは、自分の弱さを、見ようとしなかった。


 同じ「いい人でありたい」でも、こんなにも、違う。


    ◇


 その国での日々は、奇妙なことの、連続だった。


 夜更けまで数字を直していると、止められる。


「もう休め」と、言われる。


 しくじりを申し出ると、「早くわかってよかった」と、返ってくる。


 差し出した書面が、戻ってくる。


 却下でも、黙殺でもなく、欄外に、問いを書かれて。


 もっと知りたい、という、問いとして。


「あなたの国では」


 ある日、アルヴィスが、図面越しに言った。


「人が壊れるまで働くのが、当たり前だったのか」


 わたしは、答えに、詰まった。


 当たり前だと、思っていた。


 ずっと、そう、思っていた。


 指の感覚がないのも。


 三日、眠らないのも。


 血が書面にかからなければ、それでいいと思ったことも。


 ぜんぶ、普通だと。


「……わかりません」


 正直に、言った。


「何が普通なのか、わたしには、もう、わからないのです」


 アルヴィスは、しばらく黙って、それから、静かに言った。


「なら、これから、覚えればいい。ゆっくりで、いい」


 ゆっくりで、いい。


 そんな言葉を、わたしは、二度の生で、初めて、聞いた。


    ◇


 レオンハルトが訪ねてきたのは、それから二年後のことだった。


 謝罪では、なかった。


「ヴィオラ。迎えに来てやった」


 開口一番、彼は、そう言った。


 その隣に、ミレーユ嬢がいた。


 二人とも、二年前と、何も変わっていなかった。


「お前が、よその国で大層な働きをしていると、聞いてな」


 レオンハルトは、続けた。


「ならば、その腕を、俺のために使え」


 彼の国は、傾いていた。


 わたしを追放したあと、誰も、危ういことを言わなくなった。


 ミレーユ嬢は、「殿下ならできます」と言い続けた。


 レオンハルトは、「俺を信じろ」と言い続けた。


 止める者の、いない計画は、止まらなかった。


 先送りされていた破綻が、いちどに、表に出た。


 国庫は底をつき、国家規模の借財だけが、残った。


「お前のためを思って、機会をやる。戻って、立て直せ」


 レオンハルトは、当然のように、言った。


 詫びる気は、まるで、なかった。


 ミレーユ嬢が、やわらかく、微笑んだ。


「ヴィオラ様。殿下はああ仰っていますけれど、本当は、お困りなんですの。お戻りになって、助けてさしあげて?」


 二年前と、同じ目だった。


 善意の、嘘のない目。


 自分が何をしたか、今も、わかっていない目。


「断る、と言ったら?」


 わたしが問うと、レオンハルトは、鼻で笑った。


「お前が裏切らなければ、国は傾かなかった。お前には、償う責任がある」


 来た、と思った。


 二年前と、同じ言い分。


 けれど、もう、俯かなかった。


「殿下。わたしが二年前にお渡しした書面に、いつ国庫が尽きるか、月まで、書いてありました」


 わたしは、静かに言った。


「その、通りになりましたね。わたしが書いた、その月に」


 レオンハルトの、言葉が、止まった。


「わたしが裏切ったのではありません。二年、先送りにしていた破綻が、わたしがいなくなって、予定通りに来た。それだけです」


「……っ」


「あの計画が破綻していると、誰か一人でも、殿下に申し上げましたか。わたしを追放した、二年のあいだに」


 レオンハルトは、答えられなかった。


 誰も、言わなかったのだ。


 言える者を、彼が、すべて遠ざけたから。


「わたしの言葉が、害だったのではありません」


 声が、ふるえた。


 抑えていたものが、二年分、せり上がってきた。


「都合の悪い事実を、害だと呼んで、耳を塞いだ。壊れるまで人を使って、それを当たり前だと思った。――それを、わたしに、もう一度やらせるおつもりですか」


 気づけば、声を、張っていた。


 二度の生で、初めてだった。


 こんなふうに、誰かに、声を上げたのは。


 レオンハルトが、たじろいだ。


 わたしは、息を、整えた。


 そして、前の世界の上司と、同じ言葉を口にする男に、二度目にして、初めて、告げた。


「あれは――普通では、ありませんでした」


 言った瞬間、ようやく、思い出した。


 執務室で聞いた、できない理由を探すな、も。


 その前の世界で、三日眠らずに聞いた、同じ言葉も。


 ずっと、同じ声に、従ってきたのだ。


 それが、普通だと、思って。


 もう、思わない。


    ◇


 それから、ミレーユ嬢に、向き直った。


「ミレーユ様。あなたは今も、ご自分が何をなさったか、お分かりにならないのですね」


 ミレーユ嬢が、きょとんとした。


「わたくし、ヴィオラ様の、味方ですわ」


「ええ。あなたは、そのおつもりだった」


 わたしは、静かに言った。


「あなたの善意は、一度も、嘘ではなかった。だから、いちばん、怖かった」


 ミレーユ嬢は、まだ、わからないようだった。


 ただ、自分の言葉が、初めて、誰にも届いていないことに、戸惑っていた。


 その戸惑いだけが、彼女に残った報いだった。


    ◇


「できるのだろう。直せるのだろう」


 レオンハルトが、苛立って、わたしの腕を取ろうとした。


 その手が、届く前に。


 アルヴィスが、間に入った。


 彼の腕を、押し戻す。


「彼女に触れるな」


 声は、静かだった。


 静かなぶん、退かないことが、伝わった。


「彼女が組み直した運河は、すでに、我が国の背骨だ。持ち物のように、連れ帰れるものではない」


 そして、レオンハルトを、まっすぐ見た。


「あなたが手放したものが、これからどうなるか。私は、二年、隣で見てきた」


 声が、低くなった。


「あなたの国が傾くのは、最初からわかっていた。その理由も」


 さらに、続けた。


「だからこそ、待っていた。あなたが、彼女を手放す日を」


 皮肉では、なかった。


 ただ、最初から見えていた人の、静かな確信だった。


 レオンハルトは、もう、何も言えなかった。


 ミレーユ嬢の手を引いて、力なく、去っていった。


    ◇


 二人が去ったあと、広間に、静けさが戻った。


「追いかけて、何か言わなくて、いいのか」


 アルヴィスが、聞いた。


 責める響きは、なかった。


 ただ、わたしの答えを、待っていた。


 わたしは、首を振った。


「もう、わたしの国では、ありません」


 そして、言った。


「わたしの国は、ここです」


 それは、わたしが、わたしの意志で決めた、初めてのことだった。


 誰にも、命じられず。


 誰にも、許しを乞わず。


 アルヴィスが、わずかに、笑った。


「あなたらしい」


    ◇


「ひとつ、聞いてもいいか」


 帰り道、アルヴィスが、言った。


「あなたを呼んだとき、私は、あなたの名で働いてほしいと言った」


「はい」


「あれを、少し、変えたい」


 わたしは、彼を見た。


「あなたの名を――私の隣の名に、してはくれないか」


 風が、運河の水面を、撫でた。


 わたしは、すぐには、答えられなかった。


 ただ、こわくは、なかった。


 利用される予感も、使い潰される気配も、そこには、なかった。


「考える時間を、いただいても?」


「いくらでも」


 アルヴィスは、頷いた。


「ゆっくりで、いい」


 その言葉に、わたしは、笑ってしまった。


 いつか、彼が、わたしに教えた言葉だった。


    ◇


 その夜。


 わたしは、机に向かおうとして――手を、止めた。


 書きかけの書類は、まだ、残っている。


 二年前のわたしなら、朝まで、向かっただろう。


 指の感覚が、なくなるまで。


 けれど、わたしは、蝋燭を、そっと消した。


「今日は、もう、休みます」


 誰に言うでもなく、口に出した。


 それは、二度の生で、初めて、自分から選んだ「終わり」だった。


 窓の外に、運河が、月を映して光っていた。


 何十年も先に、ようやく全線が通る、あの長い水の道。


 わたしは、その完成を、見られないかもしれない。


 それでも、確かに、前へ進んでいる。


 わたしと、同じだった。


 二度、使い潰された。


 それが普通だと思っていた女は、もう、どこにも、いない。

ここまで読んでいただきありがとうございます

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけるとありがたいです



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