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お好きにどうぞ。私は明日から遠征ですので  作者: 渚月(なづき)


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第6話「届かない書簡」

手紙は、届いてこそ意味がある。

届かない手紙には、届かない理由がある。


北方に来て二カ月。


補給路の改善は目覚ましい成果を上げていた。物資の損耗率は以前の三分の一に減り、兵士たちの士気は目に見えて上がった。


同時に、二つの調査が進んでいた。


一つは、第二中継地を経由した物資の横流し。リヒトが手配した調査員からの報告で、東部の闇市場に流れた物資の刻印が、王都出荷品と一致することが確認された。


もう一つは、ドロテーアの不正。こちらはより慎重に進める必要があった。


「東棟の者」からの手紙は、その後も不定期に届いた。差出人は依然として名乗らない。だが、内容は具体的で正確だった。


ドロテーアが隠した引き継ぎ書の保管場所。カティアとドロテーアの密会の日時。東棟の人事異動の裏事情。


これらの情報を一つずつ検証していく。


外交の世界では、情報の確度を三段階で評価する。直接証拠、状況証拠、伝聞。裁判でも同じだ。直接証拠は動かないが、状況証拠は積み重ねることで直接証拠と同等の力を持つ。


私が集めているのは、状況証拠だ。一つ一つは弱い。でも、十分な量を積めば、崩れない壁になる。


「イレーネ」


リヒトが、報告を聞き終えて言った。


「王都から、外交書簡の件で問い合わせが来ている」


「外交書簡?」


「ベルシュタインとの通商条約。返書の期限が迫っているが、王宮の外務卿秘書官が対応できずにいる。北方に"翻訳できる者"がいると聞いて、協力を求めてきた」


私は少し考えた。


「お引き受けしてもよろしいですか」


「判断はお前に任せる」


これがリヒトの流儀だった。決定権を委ね、結果を受け入れる。信頼を、形で示す人。


外交書簡の翻訳を引き受けた。書簡は早馬で届き、私が翻訳して返送する。非効率だが、誤訳による外交問題を起こすよりはましだ。


そして、この過程で一つの発見があった。


翌日、外交書簡の翻訳に取りかかった。


ベルシュタインとの通商条約は複雑な交渉で、双方の利害が絡み合っている。原文はベルシュタイン語で書かれており、王宮の秘書官には読めない微妙なニュアンスが随所にある。


たとえば、"wohlwollende Frist"という表現。直訳すれば「好意的な期限」だが、外交文書では「相手の事情を考慮した猶予期間」という含意がある。これを「友好的な検討」と訳したのが、あの秘書官の誤訳だった。一語の選択が国家間の信頼を左右する。翻訳とは、言葉を置き換えることではない。文脈と意図を読み取り、相手の言語で再構築することだ。


翻訳しながら、王宮にいた頃のことを思い出す。あの頃は、こうした翻訳の成果も全て外務卿の名前で提出されていた。


今は違う。リヒトは報告書に必ず「翻訳:イレーネ・ヴェーバー」と記す。当然のことだが、当然のことをしてくれる人は少ない。


翻訳を仕上げ、返送の手配を整えた後、届いた書簡の束を改めて確認していたとき、不審なものに気づいた。


書簡の束の中に、二通だけ封蝋の色が違うものが紛れている。公用の赤い封蝋ではなく、紫の封蝋──私的な書簡に使われる色だ。宛名を見て、手が止まった。


一通はカティアからドロテーアへ。もう一通はドロテーアから東棟の下級事務官へ。


手違いで公用便に紛れ込んだのだろう。本来なら未開封のまま返送すべきだ。だが──ドロテーアが私の報告書を傍受していたことを思えば、これは単なる私信ではない可能性がある。


長い逡巡の末に、封を切った。正しい行いではないかもしれない。でも、正しいだけでは不正は暴けない。


カティアの手紙には、こう書かれていた。


「東棟の管理権を正式に侍女部に移管する件、王太子殿下の承認を取りつけました。あの平民の事務官が戻る前に、既成事実を作りなさい」


そしてドロテーアの指示書には──私が北方に送った報告書の写しが添付されていた。私が補給路の不正について調査していることを、ドロテーアは知っていた。


つまり、私の報告書は途中で傍受されている。


(……届かない書簡があったのは、これが原因か)


先週、宰相に宛てて送った調査報告の返信が来ない理由がわかった。途中で抜き取られていたのだ。


背筋が冷たくなった。


でも、同時に確信した。ドロテーアは焦っている。私の調査を止めたいほどに。焦りは、墓穴を掘る。


私はリヒトに報告した。


「書簡が傍受されているということは、通常の伝令路は使えません」


「別の経路を用意する。辺境伯の私的な伝令を使え」


「よろしいのですか」


「構わない」


リヒトは立ち上がり、窓辺に歩いた。窓の外では、北方の短い夏が始まろうとしていた。雪が溶け、草が芽吹き、空の色が少しだけ明るくなっている。


「イレーネ。一つ聞いていいか」


「何でしょう」


「王宮に、戻る気はあるか」


唐突な問いだった。


「……正直に言えば、今はまだ考えたくありません」


「そうか」


リヒトは振り返らなかった。でも、窓ガラスに映った横顔は、少しだけ安堵しているように見えた。


いや、気のせいかもしれない。この人の表情は、いつも読みにくい。


「辺境伯」


「何だ」


「窓ガラスに顔が映っていますよ」


リヒトは、一瞬固まった。


それから、窓に向かったまま、小さく咳払いをした。


(……かわいい人だ)


そう思ってから、自分の思考に驚いた。辺境伯を「かわいい」と思う人間は、おそらく北方広しといえども私だけだろう。





宰相への報告は、リヒトの私的伝令で無事に届いた。


返信は三日後に届いた。宰相の筆跡で、簡潔に書かれていた。


「証拠の蓄積は順調と見た。しかし、もう少し待て。王宮の中で、もう一つ動いている駒がある。その駒が定位置についたとき、全てを動かす。時期は私が知らせる。リヒトにもよろしく伝えろ」


もう一つの駒。宰相は、私の知らないところで別の手を打っている。


(この人は、一体どこまで先を見ているのだろう)


宰相エルヴィンの底が見えない。冷酷な政治家。でも、その冷酷さの下に、何か別のものがある気がする。


手紙を丁寧に折りたたみ、引き出しの奥にしまった。


──窓の外で、兵士たちの笑い声が聞こえる。

夕食の時間だ。今日のパンは、きっと柔らかい。


私は席を立ち、食堂に向かった。

廊下で、リヒトとすれ違った。彼は黙って歩調を合わせた。


二人並んで歩く。肩と肩の間に、拳一つ分の距離がある。近すぎず、遠すぎない。


食堂に入ると、兵士たちが「辺境伯とイレーネ事務官だ」と小声で囁き合っているのが聞こえた。気にしないふりをしたが、耳が少し熱くなった。


それだけのことが、少しだけ嬉しかった。

こういう感情に、名前をつけるのは、まだ早い。


その夜、執務室で一人、今日の出来事を整理した。


書簡の傍受。カティアの密書。ドロテーアの指示書。そして宰相の返信。


全ての糸が、少しずつ一つの大きな絵に収束していく。まだ見えない部分は多い。でも、輪郭は掴めてきた。


この不正の根は、ドロテーア一人の思惑では終わらない。もっと深く、もっと太い根が、この王宮という建物の地下深くに張り巡らされている。


──だが、王都では事態が動き始めていた。

ドロテーアの次の一手は、イレーネの想像を超えるものだった。


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