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お好きにどうぞ。私は明日から遠征ですので  作者: 渚月(なづき)


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第2話「空席の重さ」

王宮が静かに壊れ始めたのは、私が去って三日目のことだったらしい。

もっとも、当の王宮にいる者たちがそれに気づくには、もう少し時間がかかったのだが。


私がいなくなった王宮で何が起きているかなど、馬車に揺られている間は知る由もなかった。


ただ、想像はできた。


まず、外交書簡。ベルシュタインとの通商条約の返書は、私が修正した版を提出してから出発した。でも、次の書簡が届いたら──あの秘書官の翻訳力では、三日ともたないだろう。


次に、式典。来週の聖女祭の準備は、半分まで手配済みのものを引き継ぎ書に残してある。でも、料理の手配と楽団の配置と来賓の動線を同時に管理できる人間が、東棟にいるだろうか。


そして──補給路の計算。これが一番心配だった。北方への物資輸送は、季節と道路状況と各中継地の保管容量を考慮した複雑な最適化が必要になる。


(……まあ、私が心配することじゃない)


馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わっていた。


王都の白い石造りの建物が減り、木造の農家が増え、やがて森と草原が広がり始める。空が、低い。


五日目。最初の中継地で馬車を乗り換えた。ここからは軍の輸送隊に合流する。


軍用の幌馬車は、王宮の馬車とは別物だった。板張りの座席は硬く、幌は風を通し、荷台には木箱が積み上げられている。


「事務官殿?」


声をかけてきたのは、補給部隊の若い兵士だった。


「ええ」


「王宮から来たって本当ですか?」


「本当ですよ」


兵士は信じられないという顔をした。王宮の人間が、こんな泥だらけの隊に自ら志願するなど、前例がないのだろう。


実際、私自身も少し驚いていた。この硬い座席に揺られながら、不思議と心が穏やかだった。


誰にも指示されない。誰の手柄にもされない。ただ自分の仕事を、自分の名前でやればいい。


それだけのことが、こんなにも清々しいとは。


七日目の夜、中継地の宿舎で眠れずにいた。硬い寝台に横になり、天井を見つめる。王宮の天井画とは違う、ただの木の板だ。でも、不思議と圧迫感がなかった。


(私は、逃げたのだろうか)


その問いが、何度も頭をよぎる。


逃げたのかもしれない。でも──逃げた先に、やるべきことがあるなら、それは逃避ではなく選択だ。


そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。





八日目の朝。中継地の村で、初めて北方の朝食を口にした。硬い黒パンと、塩漬けの肉。それに、薄い麦の粥。


王宮の朝食とは比べるべくもない。でも、不思議と美味しかった。空腹が最高の調味料だとは、よく言ったものだ。


隣に座った年配の兵士が、パンをちぎりながら話しかけてきた。


「事務官殿は、初めての北方ですかい」


「ええ」


「冬を知らなきゃ、北方を知ったとは言えねえですよ。だけど、夏の北方もいいもんです。草原が一面の花になる」


花。この荒涼とした土地に、花が咲くのだろうか。


「楽しみにしています」


兵士は歯の欠けた口で笑った。


「事務官殿が来てくれて、俺たちは助かりますよ。前の事務官が辞めてから、補給はめちゃくちゃでさ」


前の事務官。着任先で引き継ぎを受けるはずの人物が、すでにいないらしい。


「前の方は、なぜ辞められたんですか」


兵士の表情が曇った。


「さあ……。ある日突然いなくなったんですよ。誰にも何も言わずに。怖くなったんじゃねえかって噂もありましたが」


怖くなった。何に?


その答えは、砦に着いてから明らかになる。





十二日目。北方辺境の拠点、ヴァイセンの砦に到着した。


雪はまだ残っていた。五月だというのに、吐く息が白い。王都との気温差は歴然だった。


中世ヨーロッパでも、北方の軍事拠点は兵站──つまり物資の補給と管理──が戦局を左右したという。戦いは剣で始まるが、勝敗を決めるのは食糧と物資だ。


砦の入口で、一人の男が待っていた。


長身。黒い外套。灰がかった金髪を無造作に後ろへ流した、三十代半ばの男。表情が、ない。


「補給部隊の事務官か」


「イレーネ・ヴェーバーです。本日付で着任いたします」


「リヒト。辺境伯を預かっている」


辺境伯。北方辺境を統治する最高位の貴族。噂では、冷酷で無愛想、必要な言葉以外は一切口にしない男だと聞いていた。


噂通りだ、と思った。


「執務室はこちらだ。案内する」


リヒトは振り返りもせずに歩き出した。長い歩幅に、私は小走りでついていく。


案内された執務室は、王宮の私の部屋よりも広かった。窓が大きく、北方の白い光が差し込んでいる。


「ここが?」


「不満か」


「いえ、窓が……大きいなと」


リヒトは一瞬だけ、不思議そうな顔をした。たぶん、窓の大きさに感動する人間を初めて見たのだろう。


机の上には、すでに書類の山が積まれていた。


リヒトは執務室の椅子には座らず、窓辺に立ったまま説明を始めた。


「この砦には現在、常駐兵が三百名。冬季には増援を含めて五百名を超える。全員の食糧、防寒具、武器の補修部品──全てが王都からの補給に依存している」


報告を聞いて、規模が掴めた。五百名分の冬季補給。それは相当な物量だ。


「補給路が滞っている。前任が二カ月前に辞めてから、まともに管理できる者がいない」


「拝見します」


書類を一枚めくった瞬間、目が止まった。


これは──酷い。


輸送計画書の数値が、現実とまるで合っていない。中継地の保管容量を無視した積載量。季節による道路状況の変化を考慮していない日程。このまま実行したら、物資の三割は途中で腐る。


「ひどい状態です」


つい口に出てしまった。リヒトが、わずかに眉を上げた。


「……具体的に」


「中継地ごとの保管容量と実際の輸送量が噛み合っていません。例えば第三中継地は、乾燥品の保管に適した石造りの倉庫が一棟しかないはずですが、この計画では生鮮品を含む全量をそこに一時保管する前提になっています」


「なぜそれがわかる」


「出発前に、過去五年分の北方輸送記録を読みました。各中継地の施設情報は、その記録の中にありました」


リヒトが、初めて正面から私を見た。


鋭い目だ、と思った。でも宰相とは違う。宰相の目が値踏みする目なら、この人の目は──見極めようとする目だ。


「三日で修正案を出せるか」


「二日で出します」


なぜそう言ったのか、自分でもわからない。


でも、リヒトは頷いた。小さく、一度だけ。


部屋に戻って、書類を広げた。窓の外では、雪混じりの風が吹いている。


ペンを取り、白紙に計算を始める。


指先が動く。頭が回る。七年間で培った全てが、ここで初めて正しく使われようとしている。


(私は、こういう仕事がしたかったんだ)


心の奥で、何かが静かに温まるのを感じた。


──その夜。

遠く王都から、一通の早馬が砦に届いた。

宛名は、リヒト辺境伯。

差出人は──宰相エルヴィン。


リヒトはその書簡を読み、窓の外の暗い空を見つめて、低くつぶやいた。


「……やはり、動き出したか」


その言葉の意味を、私はまだ知らない。



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