第10話「野に咲く花」
花は、植えられた場所では枯れることがある。
でも、風に飛ばされた先で──思いがけず、美しく咲くことがある。
翌日の審議は、大広間ではなく、王の私室で行われた。
列席者は限られていた。国王、王太子アルノルト、宰相エルヴィン、リヒト辺境伯、そして私。
ローゼンブルク公爵は、拘束されていた。昨夜、王都を脱出しようとしたところを、宰相の配下に阻止されたのだという。
カティアは、公爵家の居館で謹慎中。婚約解消は正式に受理された。
「公爵の処分について、意見を聞きたい」
国王がそう切り出した。
宰相が口を開きかけた、そのとき──扉が叩かれた。
「陛下、失礼いたします」
入ってきたのは、ハインツだった。その顔が、珍しく緊張している。
「緊急の報告です。ローゼンブルク公爵の居館を捜索したところ──予想外のものが見つかりました」
ハインツが差し出した書類を、国王が読んだ。
国王の表情が、変わった。
「……これは」
「公爵家が保管していた、過去二十年分の王宮内部の記録です。人事、財務、外交──全ての機密情報の写しが、公爵家に流出していました」
部屋にいるのは五人だけだ。それでも、空気が震えた。
「流出元は」
「複数です。ただ、最も長期にわたって情報を流していたのは──」
ハインツが言葉を切った。
「ドロテーア侍女長です。二十年前から」
二十年。私が王宮に来るよりもずっと前から、ドロテーアは公爵家に情報を流していた。
私が信頼していた七年間は、二十年の裏切りの一部に過ぎなかった。
(……そう、だったのか)
衝撃はあった。でも、不思議と受け止められた。昨日のうちに、覚悟はできていたのかもしれない。
国王が、深く息を吐いた。
「エルヴィン。お前は、これも知っていたのか」
「疑ってはいました。しかし、二十年分の証拠は持っていませんでした。これは──予想外です」
宰相の声に、珍しく驚きが混じっていた。全知の宰相も、この規模までは読めなかったのだ。
「公爵の処分は、当初の想定より重くなるな」
国王の声は静かだったが、その静かさの中に、揺るがない意志があった。
「領地の半分を没収。残りの管理は王室直轄とする。公爵位は剥奪しないが、宮中への出入りを十年間禁じる」
完全な破滅ではない。しかし、ローゼンブルク公爵家の政治的な力は、事実上消滅した。
公爵は何も言わなかった。全てを失った人間の、空虚な沈黙だった。
◇
審議が終わった後、国王が私を呼び止めた。
「イレーネ・ヴェーバー」
「はい、陛下」
「お前の働きがなければ、この不正はまだ続いていた。礼を言う」
「恐れ入ります」
「褒美を取らせたい。何を望む」
予想していなかった問いだった。
何を望むか。七年間、望んできたことは何だったか。
「……陛下。一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「申せ」
「王宮の人事制度を、見直していただけませんか。身分に関わらず、能力と実績で評価される仕組みを」
国王は、しばらく私を見つめていた。
「それは、お前自身のための願いか」
「私と、私の後に続く者たちのためです」
長い沈黙の後、国王は頷いた。
「検討しよう。宰相と辺境伯に委員会の設立を命じる」
宰相が、小さく頭を下げた。その目が、少しだけ潤んでいるように見えたのは──気のせいだろうか。
◇
全てが片づいた後。
私は一人で、王宮の東棟に向かった。
三階の奥まった一室。窓の小さな、日の差さない部屋。
扉を開けた。
机の上には、書類が山積みになっていた。三カ月分の未処理案件が、埃をかぶって積まれている。
椅子に座った。硬い木の椅子。七年間座り続けた椅子。
窓から差し込む細い光が、書類の山を照らしている。
(ここに戻るつもりは、なかったのに)
でも、不思議と嫌な気持ちではなかった。この部屋は変わっていない。変わったのは、私の方だ。
足音が聞こえた。
振り返ると、リヒトが扉の前に立っていた。
「何をしている」
「少し、感傷に浸っていました」
「そうか」
リヒトは部屋に入ってきて、窓の前に立った。小さな窓を見上げ、眉をひそめた。
「狭い窓だな」
「ええ。でも、光は入ります」
「北方の窓の方が大きい」
「……それは、そうですが」
リヒトが振り返った。いつもの無表情だが、目の奥に何かがある。
「北方に戻る予定だが」
「はい」
「お前は、どうする」
質問の形をしているが、質問ではなかった。
招待だった。
「辺境伯。私は王宮の事務官で──」
「事務官は北方にも必要だ」
「それは──そうですが──」
「俺の砦の窓は大きい。光も入る」
(……この人は、窓の話をしているのだろうか)
していない。絶対にしていない。
でも、この人はこういう人なのだ。大事なことほど、回り道をして伝える。
「辺境伯」
「何だ」
「窓が大きい方が、仕事がはかどります」
リヒトの口元が、かすかに──本当にかすかに、緩んだ。
「なら、決まりだな」
私は笑った。声に出して、笑った。
この人の隣で仕事をすること。この人の隣を歩くこと。この人の差し出す手を取ること。
それが私の選んだ答えだった。誰かに選ばされたのではなく、自分で選んだ。
「一つ条件があります」
「何だ」
「私の肩書きは"補佐"ではなく、正式な事務官にしてください」
「当然だ。最初からそのつもりだ」
窓の外から、風が吹き込んだ。
小さな窓でも、風は入ってくる。
◇
王宮を出る日。
宰相エルヴィンが、門の前に立っていた。三カ月前と、同じ場所に。
「また見送りか」
リヒトが言った。
「前回は一人だったが、今回は二人か。世話が焼ける」
宰相は私に目を向けた。
「イレーネ。人事制度の見直しは、必ず実行する。時間はかかるが」
「信じています」
「……お前には、何度も驚かされた。褒美に何を望むかと聞かれて、制度の改革を求める人間は──なかなかいない」
「自分のためだけじゃありませんから」
宰相は頷き、そして小さく笑った。
「リヒト。頼んだぞ」
「何をだ」
「わかっているだろう」
リヒトは黙って前を向いた。耳が赤い。
私も前を向いた。
馬車が待っている。北方へ向かう馬車。
三カ月前、この門を一人でくぐった。あの時は、逃げるように出ていった。
今は違う。隣に人がいる。背中に、味方がいる。
馬車に乗り込む直前、王宮の白い壁を見上げた。
三階の、小さな窓が見える。あの部屋で七年間、一人で働いていた。名前も知られず、功績も認められず。
でも──あの七年間があったから、今の私がいる。
馬車が動き出した。
王宮の門番が、小さく手を振っていた。見覚えのある顔だ。七年間、毎朝この門を通るたびに挨拶を交わした老兵。名前はフリードリヒ。
彼だけは、最初から最後まで私に「おはようございます、イレーネ様」と言ってくれた人だった。
手を振り返した。目が潤んだが、笑顔は崩さなかった。
石畳の振動が、背中に伝わる。前と同じ振動。でも、意味が違う。
隣に座るリヒトが、窓の外を見ている。その横顔を盗み見て、そっと目を戻す。
「見ていただろう」
「見ていません」
「嘘が下手だな」
「嘘ではありません。観察です」
リヒトが、小さく息を漏らした。笑ったのかもしれない。
北方まで、十五日。長い旅になる。でも、待っている場所がある旅は、長くても苦にならない。
でも──隣にこの人がいるなら、悪くない旅だ。
窓の外を、初秋の風が吹き抜けていく。
王都の屋根が遠ざかり、草原が広がり始める。
花が咲いていた。名前も知らない、小さな野の花。
誰に植えられたわけでもなく、ただそこに根を張って、風に揺れている。
それが──きっと、一番強い咲き方だ。
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