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灰の軍靴は赦さない

作者: 八衛門

 灰色の風が吹き抜ける。大地はすでに死んでいた。水は干からび、草は焼け、土には焦げた鉄と骨の香りがこびりついている。

 そこは、かつて温泉郷と呼ばれた村の跡地――メルテ=ラーレ。湯気が舞い、石畳を踏む音が軽やかに響いていた日々は、遠い過去の蜃気楼だ。

 リュカ=ヴェルティエはその焦土の中心に立っていた。両脚は泥に沈み、軍靴の裏には灰がこびりついている。風が吹くたびに、それがざり、と音を立てて剥がれ落ちる。

 「……寒いな」

 呟いた声は誰に届くわけでもなかった。吐息は白く、かじかんだ手が震える。リュカはその手で懐中時計を取り出す。銀の蓋を開ける。中には、母の微笑む肖像画がはめ込まれていた。時は、止まっている。あの日から――すべてが焼き尽くされた、あの日から。

 「母さん……」

 小さく呼ぶ。誰も応えない。聞こえるのは風と、崩れた建物の残骸が軋む音だけ。リュカは目を閉じた。炎が舞い上がる記憶。母の叫び。家が崩れる音。そして、逃げる背中――

 「カイル……」

 かつては笑顔で剣の稽古をしてくれた、優しい義兄だった。けれどあの日、彼は軍を裏切り、村を裏切り、家族を捨てた。

 リュカの拳が震える。懐中時計を握り締めるその手に、血が滲んでいた。

 「討つ……俺が……必ず、お前を」

 吐き捨てるように呟いたその声に、風がまた灰を巻き上げた。


 列車の汽笛が、遠くで鳴る。鋼鉄の車輪が地を蹴り、軍用列車がこの地に近づいてくる音だ。

 リュカは時計を胸にしまい、軍靴の踵を固く地に打ち付けた。その靴は、新兵が支給されるものではなかった。死体から剥いだそれは、履き慣らされ、踵が潰れ、血の染みが残る。けれど、それこそが彼の選んだ足跡だった。汚れていても、血に塗れていても、自分の意志で進むと誓った道だ。

 軍用列車の姿が、霧の中から現れる。鋼の塊。灰色の巨獣。空にはまだ陽が昇らず、全てが鉛色に包まれていた。

 リュカは歩き出す。乾いた音を立てて、軍靴が灰を踏みしめる。

 ――これは赦しを捨てた少年の、最初の一歩だった。


 軍用列車の車内は、まるで鉄の棺だった。壁も床も天井も鈍い鋼鉄で覆われ、窓は最小限しかなく、冷気がじわじわと内部に浸透してくる。ガタン、ゴトンという規則的な振動が足元から伝わり、どこまでも不安定な鼓動のように響く。

 リュカは座席に腰を下ろし、背筋を伸ばして窓の外を睨んでいた。景色は霧と灰の帳に覆われ、何も見えない。ただ時折、黒く焦げた木の幹や、朽ちた看板がちらりと現れては、列車の速度に置き去りにされていく。

 隣には誰も座っていない。車両には他にも兵士の影がちらほらとあるが、誰も声を発しない。  黙して、ただ、次の戦場へと運ばれていく。彼らもまた、自分の過去を灰の中に埋めた者たちなのだろうか。

 リュカは胸元の内ポケットに手を入れ、懐中時計を再び取り出す。その銀の蓋は、指先の体温でほんのわずかに温もりを取り戻していた。だが、針は止まったままだ。この時計が再び時を刻む時、自分は何を失っているのか。――赦しか、命か、それとも……。

 「アルゼ=ベルトへ、間もなく到着します」

 車内に魔導音声が響く。その声に、リュカは無意識に拳を握った。背筋が、氷のように凍る。いよいよ、運命の扉が開く。鋼鉄の巨獣――移動軍用要塞〈アルゼ=ベルト〉。そこが、自分の復讐の始まりであり、終わりになる場所だ。リュカは静かに、立ち上がった。

 列車が減速し、車体が軋む。車窓の外には、城のような巨体が姿を現す。霧を裂いて姿を見せたのは、灰色の鋼で組み上げられた要塞。巨大な魔導煙突が白煙を吐き出し、砲塔が静かに回転している。

 リュカの喉が鳴る。要塞〈アルゼ=ベルト〉。その名を耳にしただけで震える者もいる、伝説の移動軍拠点。そこに自らの意思で足を踏み入れる者が、果たしてどれだけいるだろう。

 扉が開く。冷気と蒸気が入り混じった空気が、リュカの頬を撫でる。彼はゆっくりと、足を前に出した。足元に響くのは、鋼鉄を踏みしめる軍靴の音。その音は、過去を断ち切るための、確かな響きだった。

 長く続くホームに足を踏み入れた瞬間、リュカは空気の質が変わったことを肌で感じた。蒸気と硝煙が入り混じった、どこか焼け焦げたような匂い。それは戦争の匂いだった。

 「新兵か」

 声をかけてきたのは、黒髪を短く刈り上げた中年兵士だった。肩章には二等軍曹の紋章。

 「お前、名前は?」

 「リュカ=ヴェルティエ。第七新兵中隊に配属されました」

 「ふん、若造が一人か……上官がすぐ来る。勝手に動くな」

 そう吐き捨てて、軍曹は列車の連結部に向かって消えた。

 リュカは返事もせず、その場に立ち尽くした。だが、内心は激しく脈打っていた。心臓が、自分の意志とは関係なく音を立てている。この場所で、彼は義兄に再び出会うのだ。

 その確信が、彼の全身に緊張を走らせていた。

 ふと、鋼鉄の天井を見上げた。ここには空がない。陽も風も、雲すらも届かない。あるのはただ、冷たく無機質な天井と、どこかで鳴り響く機械の心音――それが、アルゼ=ベルトの"生"だ。

 そしてその生の中に、リュカ自身が今、組み込まれようとしている。復讐という名の駆動源を胸に抱きながら。


 要塞〈アルゼ=ベルト〉の内部は、想像していた以上に巨大だった。

 リュカは案内兵に連れられ、幾重にも重なる鉄の通路を歩いた。足音が金属の床に反響し、何度も何度も自分の存在を揺り返してくる。照明は天井に並んだ魔導灯だけで、その青白い光が鉄の壁を滑るたび、ここが生きているかのような錯覚を覚えた。

 「第七新兵中隊は、C層の第八区画です」

 無機質な声の案内兵に頷き返し、リュカは重い足取りでその階層へと向かう。エレベーターの扉が開き、冷気と共に焼けた油と蒸気の匂いが押し寄せてくる。

 訓練施設へと入ると、金属の床に響く声と声、汗と怒号と号令が入り乱れていた。空気は熱気と硝煙で満たされている。

 「こっちはリュカ=ヴェルティエ、新兵一名だ」

 隊長と思しき長身の男が振り返る。髪は短く刈り揃えられ、片目に眼帯をしている。

 「マーニャ副官、こいつの面倒を頼む」

 その名に応じて、一人の女性が前に出た。凛とした雰囲気に包まれ、真紅の軍服が映える。鋭い灰色の瞳が、リュカを射抜いた。

 「副官のマーニャ=ローデンだ。よろしく頼む、新兵」

 その声は冷たくもあったが、どこか穏やかでもあった。

 リュカは背筋を伸ばして敬礼を返した。

 「リュカ=ヴェルティエです。以後、よろしくお願いします」

 その瞬間、背後から誰かが肩を叩いてきた。

 「ねえねえ、あんた新人?名前は?リュカ?ふーん、あたしはティナ。ティナ=フロス!」

 茶髪の少女――ティナはリュカと同じくらいの背丈で、軽やかに笑う。その声はこの要塞に似つかわしくないほど明るい。

 「情報担当で、案内もしてるよ。迷ったら何でも聞いてね!」

 そう言って小さくウィンクする彼女に、リュカはほんの少しだけ、頬を緩めた。この鉄の巨獣の中にも、まだ人の温もりが残っているらしい。だが、その安堵は束の間だった。

 「全員整列!新兵は前へ!」

 怒声が響いた。マーニャが静かに前へ出て、冷たい視線でリュカを促す。リュカは列の最前列に立った。

 「これより訓練を開始する。生きて帰れると思うな」


 鉄の床に響くのは、次々に放たれる銃声、剣戟の模擬音、怒号、そして悲鳴だった。

 午前の訓練は基礎動作。素手での格闘、銃の分解と組立て、魔導式機器の取り扱い――。全てが迅速に、正確に行われなければ怒声が飛ぶ。鉄の床に打ちつけられた者は容赦なく蹴られ、倒れた者の肩越しに次の命令が下される。

 リュカの指先は既に割れ、血が滲んでいた。だが彼は顔色一つ変えずに動き続ける。怒りが、痛みを上塗りしていた。――ここにいる理由を忘れるな。これは復讐のためだ。

 夕刻、訓練が一段落すると、マーニャが彼の前に現れた。

 「お前、あの動き……剣術の心得があるな」

 「はい。かつて、家で……兄に習いました」

 マーニャは一瞬、目を細めた。

 「そうか。ならば、次の夜間訓練。私と手合わせしろ」

 「了解です」

 そして、リュカは知ることになる。副官マーニャの剣は、炎のように美しく、氷のように冷たいことを。

 夜、訓練場の片隅。照明がほのかに灯るなか、ふたりは模擬剣を手に対峙した。

 最初の一閃で、空気が変わる。

 剣がぶつかり合うたびに、火花が散る。マーニャの動きは正確無比で、隙がない。呼吸ひとつ乱れぬまま、彼女はリュカを翻弄した。だが、リュカも引かなかった。義兄との鍛錬で培われた反応と勘が、剣先に宿る。しばらくの交錯の末、マーニャが剣を止める。

 「……悪くない」

 それは称賛というより、確認のような言葉だった。

 「本当に“兄”に習っただけか?」

 「ええ。兄は、かつて軍にいた男です」

 マーニャはもう一度、深く彼を見つめたが、それ以上は何も言わなかった。ただひとつ、模擬剣を納めたとき、ほんのわずかに口元が緩んでいた。

 そしてその夜、リュカは寝台の中で目を閉じながらも、剣を交えたときの感覚を反芻していた。火花の音、剣の重み、相手の呼吸。  それは久しく感じていなかった、戦いの実感。義兄カイルと最後に剣を交えた日の記憶が、ふと胸をよぎる。あのときも、似たような火花が舞った。だが――その背中は、遠ざかっていった。

 「今度は、追いついてやる……絶対に、逃がさない……」

 リュカは固く、枕元の懐中時計に手を伸ばした。時は、まだ止まったままだった。


 翌朝の要塞は、静けさに包まれていた。

 霧が天井から舞い降りるように薄く漂い、廊下の奥にある照明がぼんやりと滲んでいる。蒸気管が小さな吐息を漏らすたび、要塞の鼓動が耳元で囁くようだった。

 リュカは食堂の隅に座っていた。無言で配給のパンとスープを口に運ぶ。硝煙と油の香りが混ざるこの場所でも、彼の感覚は研ぎ澄まされていた。背後で、誰かが椅子を引く音。

 「やっぱりここにいた」

 ティナだった。相変わらず陽気な調子で彼の向かいに座ると、スープを両手で抱えてふうふうと冷ましながら微笑んだ。

 「昨日の訓練、すごかったね。副官とやり合ったって聞いたよ。あんなの、新兵じゃ異例だって」

 リュカは答えなかった。けれど、ティナは気にする様子もなく続けた。

 「マーニャ副官って、実は戦場で“氷の蛇”って呼ばれてたんだよ。感情を見せずに、確実に敵を葬るって。……あんた、彼女に何か見込まれたんじゃない?」

 リュカはスプーンを止め、少しだけティナの方を見た。

 その瞬間、警報が鳴った。

 甲高いベルの音が、要塞全体に響き渡る。赤い魔導灯が天井で明滅し、魔導放送が唸りを上げる。

 『緊急招集。全員、D層会議区画へ集合せよ。繰り返す――』


 ティナが目を見開いた。

 「緊急会議?こんな朝に?……まさか、敵襲?」

 リュカの心臓が早鐘を打つ。まさか、こんなに早く。何かが、動いている。

 彼は立ち上がり、走り出した。鉄の床を蹴り、冷たい霧を裂いて――その先に、止まった時の歯車が、ゆっくりと動き出す音を感じながら。

 D層会議区画に到着すると、すでに幾人かの兵士たちが集まり始めていた。階級ごとに配置された席に、緊張の気配が張り詰める。

 壇上に姿を見せたのは、司令官ゲルツァ=バルテオン。鋼の義手を持つ男で、その眼光は刃のように鋭い。彼が口を開くだけで、空気が凍りついた。

 「諸君。今朝未明、東部前線の補給列車が襲撃された」

 会議室がざわめいた。

 「犯行は、反乱軍“紅の牙”。その一部隊がこの〈アルゼ=ベルト〉への潜入を企図している疑いがある」

 リュカの背筋に冷たい汗が流れた。紅の牙――その名に、心当たりがある。かつて兄カイルが属していた、反乱組織。

 「本日より、全区域において内部監視と点検を強化する。また新兵中隊は、要塞内哨戒任務に当たってもらう」

 マーニャが一歩前に出て、リュカたち新兵に視線を送った。

 「準備はいいな」

 リュカは小さく頷いた。ついに来た。過去と、戦いの予兆が。要塞という鋼鉄の檻の中で、時が静かに動き始めていた。


 数時間後。

 リュカたち新兵中隊は、分隊に分かれて要塞内の見回り任務に就いていた。

 「これが、哨戒ってやつかあ……地味だね」

 ティナが後ろからぼやいた。通路はどこまでも続く鉄の回廊。足音が反響し、時折すれ違う上官に緊張が走る。

 「でもまあ、何もないのが一番さ。何かあったら、それはそれで命取りだもん」

 リュカは応じなかった。彼の視線は、壁の隙間や通気孔、監視眼の死角を舐めるように走っていた。

 そのとき、ティナが足を止めた。

 「……今、何か聞こえなかった?」

 微かに、金属の擦れる音。リュカは即座に壁に背を預け、手信号でティナに静止を指示する。音は、奥の物資倉庫から聞こえた。

 リュカはゆっくりと歩を進め、扉の隙間から覗く。中は薄暗く、棚が幾つも並び、空気が淀んでいた。

 そして――何かの気配。

 「誰かいるのか?」

 リュカの声に応じる者はいなかった。だが、わずかに空気が動いた。

 次の瞬間、影が跳ねた。

 反射的に飛び退きながら、リュカは腰の訓練用短剣を抜いた。

「出てこい。こちらは武器を持っている」

 影は棚を蹴って飛び上がり、天井近くの梁を伝って奥へと逃げた。その一瞬、リュカの視界に映ったのは、黒ずくめの布と、鋭く光る双眸。

 「ティナ、警報装置を!」

 リュカが叫ぶと同時に、ティナは壁の端末へ駆け寄り、赤いレバーを引いた。警報音が倉庫内に響き渡り、要塞中に危険を告げる鐘が鳴り響いた。

 「侵入者だ!紅の牙かもしれない!」

 リュカは走り出した。影を追って、鉄の棚をすり抜けながら前方へ。逃げる者は素早く、動きに迷いがなかった。だがリュカも、鍛え上げられた身体で距離を詰める。

 通気ダクトの入り口で、ついにその影が振り返った。覆面の奥から現れたのは、驚くほど若い目。

 「……あんた、まさか……」

 リュカの呟きに、影は小さく息を呑んだ。次の瞬間、ダクトに身を滑り込ませて姿を消す。

 「待てッ!」

 だが、追いかけるには狭すぎた。そこに、数人の兵士とともにマーニャが駆けつけてきた。

 「どうした!」

 「侵入者が……!情報部に連絡を!顔を確認できたかもしれない!」

 マーニャの視線が鋭くなった。

 「リュカ、何を見た?」

 リュカは数秒の沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。

 「……若い、少年のような目をしていました。あれは……もしかすると……」

 言葉を濁す彼の胸中に、ひとつの顔が浮かんでいた。

 兄――カイル。

 まさか、本人ではない。だが、どこかに同じ匂いを感じた。運命の糸が、再びリュカの前に垂れ始めていた。


 要塞全体が不穏な空気に包まれていた。

 あの日の侵入事件から二日。〈アルゼ=ベルト〉の警備は厳戒態勢に入り、あらゆる区画に検問と巡回兵が配備された。

 リュカは何度もその目を閉じて、あの“目”を思い返していた。あれはカイルではない。しかし、似ていた。あの視線、あの迷いと覚悟が混じった眼差し。

 もしかすると、カイルの同志か、血を分けた者か。そんな思考が頭を巡るたび、心臓が冷たい水に浸されるように脈打つ。

 「リュカ、大丈夫?」

 声をかけてきたのはティナだった。情報処理区画での一斉調査の手伝いの中、彼女は疲れた様子を見せながらも、彼の表情を気にしていた。

 「君、最近ちょっとピリピリしてるよ。ま、無理もないか。こんな状況じゃ」

 リュカは口を引き結んだまま、端末に向き直った。

 だが、次の瞬間。

 画面に現れた監視記録の一つに、脳髄が揺さぶられる。

 そこに映っていたのは、二日前の夜。倉庫の死角から這い出す、あの影――そして、フードの下から一瞬だけ覗いた横顔。

 「……いた」

 リュカは席を蹴って立ち上がる。ティナが驚きの声を上げる間もなく、彼はマーニャの元へと駆け出していた。真実が、もう目の前に迫っていた。


 「確かに映っているな。よく見つけた」

 情報処理室の別室。マーニャは映像を凝視し、眉をひそめた。

 「これを機に、魔導視認解析をかける。目元の骨格から照合可能なパターンを割り出せるかもしれん」

 彼女の冷静な声が、リュカの焦りを幾分か和らげた。

 「しかし……」

 マーニャは映像を巻き戻し、再生する。

 「こいつの動き、訓練を受けているな。間違いなく素人ではない」

 リュカは無言で頷いた。

 「正面からの顔は映っていない。照合に限界がある可能性が高い」

 「……でも、もう一度現れます。あいつはまだ、この要塞にいる」

 マーニャは彼を見据えた。

 「確信があるのか」

 「はい。奴の逃げ方には迷いがなかった。まるで内部の構造を知っているかのように」

 その言葉に、マーニャの視線が鋭さを増す。

 「では、その前提で動こう。君には、次の特殊哨戒任務に就いてもらう。今夜、再びあの区画を重点的に監視する」

 リュカは即答した。「了解です」

 そのとき、彼の中で何かが音を立てて、覚悟へと変わった。たとえ、相手が兄の血族であったとしても。今度こそ、終わらせなければならない。自分の、そしてこの戦争の輪廻を。


 深夜の要塞は、まるで眠らぬ獣のようだった。

 通路の照明は最低限に落とされ、蒸気の吐息だけが低く唸っている。リュカは遮光ゴーグルを装着し、一歩一歩を音なく進めた。

 倉庫の周辺区画は封鎖され、一般兵の立ち入りは禁止されている。今夜の監視任務は、リュカと数名の選抜兵、そしてマーニャ自身が主導する形となった。

 「呼吸を抑えて。音と気配に集中して」

 マーニャの小声が耳の通信装置に響く。彼女の指示は的確で、冷気のように集中を促した。リュカは物資棚の影に身を潜め、目を閉じて耳を澄ます。

 ――そのとき、空気がわずかに震えた。

 気配がある。

 すぐ近くに、いる。

 彼は音を立てずに身を滑らせ、背後の通風ダクトの下へ移動した。

 そして、そこに――

 黒い影が、再び現れた。

 「動くな」

 リュカの声が静かに響いた。影は身をすくめたが、逃げようとはしなかった。やがて、影のフードがゆっくりと外される。

 現れたのは、少年だった。まだ十五、六だろうか。だがその目には、年齢を超えた覚悟が宿っていた。

 「お前は……誰だ」

 リュカの問いに、少年はかすかに口元を緩めた。

 「……名乗るほどの者じゃない。でも、兄さんを知ってる」

 「兄さん……?」

 「カイル。俺の“先生”だった」

 その言葉に、リュカの中で何かが弾けた。

 「君は……カイルと、どんな関係だ」

 「教えてもらったんだ。この国が何をしてきたか、何を踏みにじったか。俺は、それを止めるためにここに来た」

 リュカは剣に手をかけた。

 だが、少年の目は怯えず、ただ真っすぐにリュカを見ていた。

 「殺してもいい。けど、それであんたの“赦せなさ”が癒えるのか」

 その問いに、リュカの指がわずかに震えた。

 マーニャの声が無線越しに響いた。

 「リュカ、どうした? 状況を報告しろ」

 リュカは答えなかった。

 その目は、少年の中に、過去のカイルと同じ炎を見ていた。


 「カイルが、お前の“先生”……」

 リュカの声は震えていた。怒りでも恐れでもない、もっと深い何かが彼の胸を満たしていた。

 少年――名をまだ知らぬその影は、静かに頷いた。

 「カイルは、自分の過去をたくさん話してくれた。弟のことも」

 リュカは眉をひそめた。

 「……俺のことを、知っているのか」

 「名前だけ。でも、その目を見れば分かる。君が、カイルの言ってた“真っ直ぐすぎる弟”だって」

 目の奥が熱くなった。

 リュカは深く息を吐いた。冷たい空気が肺を満たし、頭を冷やしてくれる。

 「君の名前は?」

 「エル」

 「エル……」

 彼は短く頷いた。

 「俺をここから出さないと、きっと殺される。今、逃げないと」

 その声に、リュカの胸の奥がざわついた。エルの言葉は、ただの自己保身ではなかった。背負ったものを背負い切ろうとする人間の、それだった。

 マーニャの声が再び通信に響く。

 「リュカ、どうした? 状況が読めない。応答しろ」

 リュカは数秒間、目を閉じた。選ばなければならない。軍人としての忠誠か。弟としての贖罪か。そして、彼は決断する。

 「……こちら、異常なし。見間違いだった」

 通信を切った瞬間、リュカはエルの手を引いた。

 「こっちだ。急げ」

 そして二人は、誰にも気づかれぬよう、要塞の闇の中を走り出す。これは、背徳の逃走劇だった。だが、彼の胸に一点の光が差していた。

 ――これは、贖罪の始まりでもある。

 誰かを殺すのではなく、守ることでしか、もう自分は救われない。そう、リュカは悟ったのだった。


 夜明け前、要塞の外れ――霧の立ち込める補給通路。

 リュカとエルは、蒸気配管の影に身を潜めながら呼吸を整えていた。

 要塞の外縁に設けられたメンテナンスハッチ。それが、唯一の脱出路。警備は薄いが、時間は限られていた。朝の点呼までに戻らねば、異変はすぐ露見する。

 「ここを抜ければ、森に出られる」

 リュカの声はかすかだった。エルは黙って頷くと、足元のハッチに指をかけた。

 だが、その瞬間。

 「そこまでだ」

 鋭く冷たい声が、霧の奥から響いた。蒸気が裂け、マーニャが現れた。その背後には数人の武装兵。エルが後ずさり、リュカの背に隠れる。

 「……見逃してくれ」

 リュカの言葉に、マーニャは瞳を細めた。

 「なぜだ、リュカ。君は優秀だった。誇りだった。なぜ裏切る」

 リュカは答えなかった。ただ、少年を背に庇い続けた。

 「君にとって、この戦争は何だ」

 その問いに、彼は口を開いた。

 「赦されることのない過ちの連鎖……だと、思っていました。でも、今は違う。誰かを守ることで、断ち切れるかもしれない」

 マーニャの目に、一瞬だけ微かな光が揺れた。そして、ゆっくりと手を上げた。

 「――見逃せ」

 兵士たちが戸惑い、マーニャを見た。

 「見逃せ。命令だ」

 リュカとマーニャの視線が交差する。

 「もう一度戻ってこい。今度は、全てを背負って立てる男として」

 リュカは小さく頷き、エルの手を取り走り出す。

 霧の中へ。夜明けの光が、ゆっくりと差し始めていた。

 灰色の空に、一筋の蒼が、確かに滲んでいた。

■作者コメント

この物語は「贖罪と赦し」を基軸にしながら、スチームパンク風の重厚な要塞都市を舞台に展開する心理サスペンスドラマです。登場人物の内面を丁寧に描写し、読者の五感に訴えかける構成を意識しました。とくにリュカの葛藤とマーニャの沈黙の決断には、感情の強い揺らぎを込めました。

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