さようなら。ビルドレッド様。また来世でも会いましょう。
え?わたくしは何故、生きているの?
エルディシアはベッドの上で疑問に思った。
エルディシアはオルフェルス大帝国の前皇妃である。
夫である前皇帝、ビルドレッドは夫としては最低であった。
夫から愛を囁かれた事なんてない。
いつも、心は戦や、政に向いていて、子が出来たというに、更に子を産むために側妃まで娶って。
エルディシアはビルドレッドに愛されなくて悲しかった。
辛かった。苦しかった。
愛情を唯一の息子であるアルスだけに注いだ。
そして、やっとアルスがオルフェルス大帝国の皇帝に即位して。
自分の役目が終わったら、身体の具合が悪くなって。
死の床についていたはずである。
愛する息子とその妻と孫に見守られて、息が苦しくて苦しくて。
もう死ぬのだと覚悟をした。
でも、後悔はなかった。
愛する息子アルスが、皇帝に即位した。
もう、自分はやることはやったのだ。
もう、二度と、ビルドレッドのような男なんて忘れてやると、死にそうになりながら思った。
本当に苦しかった。寂しかった。心から憎かった。
自分を捨てて、晩年を一緒に過ごす事なんてヨシとせず、辺境騎士団へ行ってしまった最低な男。
ビルドレッドなんて、ビルドレットなんてっ。忘れてやるわ。
死の苦しみの中、そう思った。
それが、今、目を覚ましてみたら、まったく苦しくない。
ベッドの脇では安堵したように、号泣する息子であり現皇帝のアルスと、その妻と、孫である皇子が自分に縋って泣いていた。
安堵の涙を流しながら、
「母上っ。生き返った。良かった良かった」
「お義母様ぁーーー」
「おばあ様。生きていてくれて嬉しいですうっ」
いや、ちょっと待って。
何でわたくし、こんなに元気なの?
ふと、ベッドの横を見れば、あれほど憎んで、あれほど愛した夫がにこやかに立っていた。
「おうっ。ドラゴンの心臓の効き目は一発だなぁ。間に合ってよかった」
辺境騎士団へ行くといって行ったきりの夫、ビルドレッドがにこやかに立っていた。
金の髪に無精ひげを生やし、大男のビルドレッド。
妻として女として酷い扱いを受けてきた。
それでも愛して欲しくて。
女なんて性のはけ口としか思っていないような酷い夫。
辺境騎士団へ行ってしまい、捨てられたと思っていた。
何故、そんな酷い夫が、にこやかにここにいるのだろう。
エルディシアは叫んだ。
「どうして貴方がここにいるのです。わたくしや側妃であったオイリーヌを捨てて、辺境騎士団へ行ったではありませんか?」
ビルドレッドは髪をポリポリと掻きながら、
「アルスから手紙が来て、お前の具合が悪いと聞いたんでな。ドラゴンを退治してその心臓を持ってきて、お前に飲ませた。いやその……お前は妻だから、一応な」
エルディシアは思った。
もう息子を皇帝にした。夫であるビルドレッドの愛なんて諦めていて。
唯一、愛したのは息子のアルス。孫である皇子もとても可愛くて。
ビルドレッドからは酷い仕打ちを受けてきた。
関係は本当に希薄で。
欲しかった愛も貰えなくて。
だからだからだから、助けられたとしても、こんな夫いらない。
エルディシアはビルドレッドに向かって、
「命を助けて下さったことは感謝致します。ですから、どうか辺境騎士団へお戻りください。
わたくしはもう、大丈夫ですわ」
ビルドレッドは眉を寄せて、
「いやなぁ。辺境騎士団連中に説教をされたんだ。あまりにもお前や側妃に対して酷い扱いをしてこなかったかと。女なんて性のはけ口だと思っていた。皇帝を退位して、こんな所で余生を女達と過ごすなんてまっぴらだと。俺はもっともっと走っていたい。もっと刺激が欲しい。だから、辺境騎士団へ入団した。だがな。妻を大事に出来なくてどうすると。辺境騎士団の奴らに言われたんだ。だから、お前の具合が悪いと手紙が来た時に、ドラゴンを退治して心臓を持って来た。なぁ、やり直さないか。俺は反省したんだ。オイリーヌはここを去ったと聞いた。だから、お前と夫婦らしい生活をしてみたい」
「何を今更。貴方の性格では無理でしょう。いつも外の事ばかり気を向けて。戦ばかりしていて。政ばかり気にしていて。皇帝だから仕方がないと諦めて。オイリーヌを側妃にした時だってわたくしはとても悲しかったのに。でも、貴方は何も思っていなくて」
「だって仕方ないだろう?俺は皇帝だ。お前に気持ちを向ける余裕はなかった」
「ですから、今更、わたくしに気持ちを向けなくても結構ですわ」
「お前はそれで構わないのか?」
「せっかく貰った命。わたくしは貴方の事なんて忘れて、自分の為に使いたいの。さようなら。ビルドレッド様。辺境騎士団でわたくしの事なんて忘れて過ごして下さいませ」
「すまなかった。本当に申し訳ない」
ああ、この人らしくない。そして、今更、許したくはない。
アルスに向かって、
「ビルドレッド様はお帰りよ。お見送りして」
アルスは頷いて、
「さぁ父上」
ビルドレッドを部屋から追い出してくれた。
今更、反省したってわたくしの心はもう、凍り付いているのよ。
ビルドレッド様、辺境騎士団で楽しんでお過ごし下さいませ。
エルディシアの瞳から涙が一筋零れた。
ドラゴンの心臓の効き目は凄くて、一週間と経たないうちに健康を取り戻したエルディシア。
せっかく貰った命をどう使おうか、何をして過ごそうか。
エルディシアの悲願、息子アルスが皇帝になったので、皇宮で思い残すことはない。
皇宮を出て、自分の人生を過ごそう。
そう思った。
小さな屋敷を皇都に購入し、一人暮らしを始めたのだが。
一人暮らしは危険だと、息子アルスが、護衛や、メイドを雇ってくれて。
以前、付き合いがあった貴族の夫人達を招いてお茶会を開いたり、
ハンカチに刺繍をする趣味を見つけて、刺繍をしたハンカチをバザーに寄付したり、
それなりにのんびり過ごしていたのだが。
とある日、ガーデンパーティを庭で開催して、数人の貴族夫人達と、楽しんでいたら、
ビルドレッドがいきなりやって来て、テーブルの上にじゃらじゃらと魔石を転がした。
どれも虹色に輝いていて、それはもう美しい魔石で。
「妻が世話になっている。魔物から採った魔石だ。アクセサリーに加工したら、さぞかし良い物が出来るだろう。パーティの土産に持って帰ってくれ」
夫人達は目を見開いて、魔石に魅入って、
「まぁ、なんて輝き」
「これで首飾りを作ったらさぞかし素晴らしいでしょうね。貰っていってよろしいんですの?」
「素敵だわ」
エルディシアは夫人達に、
「お好きなだけお持ち帰りなさって」
どういうつもりなのだろう。
ビルドレッドは、いきなりパーティに乱入して来て、魔石を夫人達に土産に持たせるなんて。
この男とは縁が切れたのではなかったのか。
ビルドレッドはにこやかに、
「妻が世話になっているからな」
魔石を手に取りながら、夫人達は、
「まぁ前皇帝陛下。いまだに熱々なのですわね」
「仲がよろしくて、素敵ですわ」
エルディシアは、ふと思った。
そうだったわ。この男といまだに離縁していないのだわ。
「貴方、ガーデンパーティもそろそろ終わりますし、お話がありますわ」
「ああ、なんだ?」
部屋にビルドレッドを連れて行き、
「離縁していませんでしたわね。丁度良いので離縁しましょう」
「いや、俺は絶対に離縁しないぞ」
「何故、今更、わたくしにかまわないで下さいませんか」
「俺は反省したって言っただろう?だから、なるべくお前に顔を見せるようにしている」
「わたくしを捨てて辺境騎士団へ行ったのでしょう」
「辺境騎士団で仕事はしているが、妻の元へ戻ってくるのは当たり前だろう。これからもちょくちょく、仕事の合間に顔を見せる事にした。お前は俺の妻だからな」
「薄気味悪い」
「へ?」
「貴方はわたくしの事なんて一切、見ようとしなかった。わたくしの事なんて愛してもくれなかった。今更なんなんです」
「だから、反省したって」
「もう、いいですっ。二度と、わたくしの前に顔を見せないで。ああ、貴方となんて、命令でなければ結婚なんてしたくはなかった。わたくしは、ちゃんとした夫と愛ある家庭を築きたかった。でも、感謝しているわ。アルスを授けて下さったのですもの。あの子は本当に母親思いのとても良い息子。わたくしはアルスと出会えたことだけはとても幸せだわ」
「だから、これから、やり直そう。何度でも俺はお前の所へ通う事にする。そりゃ、俺の性格じゃ、じっとなんてしていられない。それでも、暇を見てはお前の元へ戻ろう。土産も沢山持って帰ろう。時には夫婦らしく過ごそう。お前と夫婦になりてぇんだ。ちゃんとした夫婦になりてぇんだ」
いきなりビルドレッドが泣き出した。
憎い、憎い、憎い人……
でも、ずっとビルドレッドの愛が欲しかった。
欲しかったの。
だから、わたくしは……
「貴方なりに、考えたのね。貴方なりに反省したのね。そうね……貴方の事は憎い。憎いけれども、きっと今の貴方を突き放したらわたくしは後悔するわ。
でも、貴方と夫婦になんて戻れない。だって、貴方はわたくしを欲のはけ口としか見てくれなかったじゃない。妻として大事にしてくれなかったじゃない。
だから、茶飲み友達としてなら、会ってもいいわ。それなら、わたくしは貴方を許せる気がするの」
「ああ、それで構わねぇ。茶飲み友達になってくれねぇか」
「ええ、一から、わたくし達の関係を始めましょう」
それから、ビルドレッドは時たま、土産を持って顔を見せ、エルディシアはそんなビルドレッドの訪問を楽しみにするようになった。
勿論、自分の人生も楽しみながら余生を過ごした。
歳を取って、老衰で死の床についた時、愛しい息子アルス夫妻と、孫の皇子夫妻。更に幼いひ孫までいて。皆、心配そうにエルディシアを見つめている。
ああ、ここまで生きてこられてわたくしは幸せだわ。
そして、手を握るのはあれ程、憎んで、あれ程、愛した夫、ビルドレッドだった。
「わたくしね。前に死にかけた時に、貴方の事を忘れようと思っていたの」
「ああ、だが今は?」
「そうね。許してあげるわ。貴方の事、しっかりと覚えているわ。生まれ変わってもきっと」
「有難う。エルディシア。愛している」
「わたくしも愛しているわ」
あああ、若い頃は辛くて寂しい人生だったけれども、晩年は悪くなかったわ……
今はとても幸せ……
さようなら…‥。ビルドレッド様。また、来世でも会いましょう。
その時はきっと……