第38話 力の暴走
「そ……そんな……クレイユ様が魔王に乗っ取られていたなんて。早く教会に報告しなければ」
クレイユの話を聞いたルビリアは、爪を噛みながらぶつぶつと呟いている。
彼女は全く理解してくれなかったようだが、無理もない。
長年信じてきた世界の理を覆すような話だ。
誰が聞いても、勇者が悪しき魔王に乗っ取られたと思うだろう。
クレイユも記憶の受け渡しがなければ、すぐには信じられなかったかもしれない。
「僕たちは思い違いをしていたんだよ」
クレイユは漏らさないよう押し留めていた力を解放する。
捕縛した闇魔法は既に手放していたが、ルビリアは蹲ったまま動かない。
いや、魔王から受け継いだ圧倒的な力を前に、足がすくんで動けないのだ。
一度経験したクレイユには分かる。
「いや! いやっ!! 来ないで!!」
ルビリアは幼子のように、顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっていた。
(これじゃあまるで、僕が悪者みたいじゃないか)
黒い紋様は今や腕から体、顔へと広がっている。表面は焼けるように熱いのに、心は冷え切っている。
クレイユは冷めた目で女を見下ろし、どうやって始末するかを考えた。
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土砂崩れが起きた後の崖の上で、ローリエは柔らかな毛並みのヘイルに寄り添い、戦闘の行方を見守っていた。
クレイユがルビリアの影を捕縛して決着がついたように思われたが、それまで黙って見つめていたヘイルが焦った様子でテレパスを送ってくる。
『まずい。あの様子、力に呑まれかけている』
「え?」
ローリエには、何のことかさっぱり分からなかった。
きょとんとしていると、再びテレパスが送られてくる。
『魔王の務めは世界の調和。負の感情が高まると、魔物の力が増し、均衡が崩れる』
「魔王って……クレイユ様は勇者じゃ……」
『詳しい話は後にするが、勇者は器として魔王の力を受け継いだ。このままでは、我を忘れて暴走しかねない』
ローリエは説明を受けても理解できず、頭にいくつも疑問符が舞う。
(器って? 魔王の力を受け継いだって、どういうこと?)
取り戻した記憶を探ってみても思い当たる節がなく、小首を傾げているうちに、背筋がゾクっとした。
クレイユだ。彼の体から膨大な魔力が漏れ出ている。
(記憶にあるお父様と同じ、暴力的なまでに巨大な力……)
魔力を感じた途端に、ヘイルの毛は逆立ち、森から魔物たちの騒がしい声が聞こえてくる。
このままではいけないと、ローリエは直感的に思った。
「聞きたいことはたくさんあるけど、クレイユ様を止めればいいってことよね?」
ローリエはヘイルの背に乗りながら尋ねる。
『そういうことだ。あの男は今、平静を失っている。気をつけろ』
風のように駆けるヘイルにしがみつき、クレイユの側まで来た時――。ルビリアの体は宙に浮いていた。
クレイユが真っ黒に染まった手で、ルビリアの首を締め上げていたのだ。
ルビリアは既に意識を失っているようで、ぴくりとも動かない。
「クレイユ様、駄目です!!」
ローリエは風魔法を纏い、魔獣の背からふわりと飛び降りた。
「ローリエ?」
振り向いたクレイユの顔は黒い紋様で覆われ、宝石のように美しい蒼の目からは光が消えている。
ヘイルの言う通り、魔王の力に呑まれてしまっているらしく、いつもの優しい笑顔もない。
まるで別人と対面しているかのようで、ローリエは怖気付きながらも、言葉を発した。
「このままではルビリア様が死んでしまいます。手を放してください」
「どうして止めるんだ? 彼女は君を殺そうとしたんだよ?」
まだ会話はできる。
けれど、いつものクレイユからは想像できないような答えが返ってくる。
「ルビリア様は戦える状態ではありません。もう十分かと」
ローリエがそう言うと、クレイユはため息をついた。
「君は優しすぎるよ」
彼は感情の読めない濁った目で、こちらを見つめている。
ローリエは優しすぎるという言葉に、「そうかな?」と思う。
果たして、自分は優しいのだろうか。
ルビリアが魔物に町を襲わせたことや、マリアンヌたちを痛めつけたことは赦していない。
それに関しては、しかるべき処罰を受けるべきだが、私刑に処すのは違うと思う。
少なくとも、クレイユの手を汚してほしくないのだ。――きっと、我に返った時、彼は自分のしたことを後悔すると思うから。
「お願いです。手を放して、代わりに私を抱き締めて」
ローリエはクレイユに向かって両手を広げた。
彼はルビリアから手を放し、吸い寄せられるようにしてローリエを抱き締める。
地面に落ちたルビリアが咳き込む音を聞いて、ローリエはほっとした。
「ヘイル、応急処置をして、彼女を安全なところに連れて行ってちょうだい」
『あい分かった』
これで一安心かと思いきや、クレイユは納得がいかなかったようだ。
ローリエの肩をがっちり掴み、黒く染まった端正な顔を近づけてくる。
「ローリエ……どうしてあの女を庇うの? 僕よりもあの女が大事?」
「クレイユ様、落ち着いてください」
「僕はローリエのために生きてきたんだよ。勇者の務めを果たして、君と再会することをどんなに待ち望んでいたか」
「今の貴方は力に呑まれかけているんです! どうか正気を保ってください!」
「どうして? 君のために魔王の力を引き受けた。こんなに苦しい思いをしているのに、どうして手に入らない?」
クレイユは奇声を上げ、激しく頭を掻きむしった後、ローリエの首に手をかけた。
「僕のものにならないならいっそ君を……」
「クレイユ様!!!!」
ローリエは叱りつけるように叫んでから、彼の両頬をそっと手で包んで告げる。
「好きです」
ずっと、好きだった。
一度目も、二度目も。出会った時から、ずっと。――私の、初恋の人。
「だから、そんなことは言わないで」
クレイユの動きがぴたりと止まる。
ローリエは幼子をあやすように、そっと頭を撫でた。




