第32話 深淵より
しばらく魔力を奪われていた影響か、ルビリアの顔色は悪かったが、それでもローリエの追撃は全て弾き返されてしまう。
『あの女は既にかなりの魔力を消耗している。力で押し切ればいける』
ヘイルの言う通り、魔法の威力を上げる余裕はまだありそうだが、ローリエは躊躇った。
「でも、そんなことしたら彼女は死んでしまうわ」
『向こうにも殺意があるのだから、構わんだろう』
確かに、ルビリアは元からローリエを始末するつもりだったようだが、更に『魔族かもしれない』という殺意を正当化する理由を与えてしまった。
少しでも気を抜けば、彼女は本気でローリエを殺しにくるだろう。
悩みながらも攻撃を増やそうとしたその時――。
『⌘∮∞↓∬∮⊿→⌘』
ルビリアが歌のように呪文を唱えると、突然現れた紫の炎がヘイルの首をぐるりと囲む。
『これは……』
まるで首輪のようだとローリエは思った。
『ガッ!!』
「ヘイル!?」
炎はそのままヘイルの首を締め、体内に溶けていく。それと同時に、ヘイルの目は紫に光り、彼はあろうことかローリエに牙を剥いた。
「ヘイル!! ヘイル!! どうしてしまったの?!」
テレパスも途絶えてしまった。ローリエの言葉が全く聞こえていないようだ。
森にいる他の魔物と同じく、ヘイルは涎を垂らしてローリエに飛びついてくる。
「ふふっ。こんな最上級クラスの魔物にも効くなんて、すごい魔法。どうしてこんなに便利なものを、禁書として眠らせていたのかしら」
ローリエがヘイルの攻撃を必死に避けている傍らで、ルビリアが呟く。
(ルビリア様がヘイルを操っているんだわ! 町を襲った魔物もやっぱり彼女が?)
人が強制的に魔物を操る魔法というのは初めて聞いた。使用者への負荷が高い魔法だと思うが、今はそんなことを考えている場合ではない。
ヘイルがルビリアについたことで、形勢は完全に逆転した。
(お父様が魔物を使役しているのは見たことあるけど、私にはヘイルの体内にある《《首輪》》の外し方が分からない)
操られたヘイルには、理性も知性もないようだ。力任せな単純攻撃が続くので、ある意味良かったのかもしれない。
『ダークバインド』
「っ!!」
ヘイルの一撃を跳んで躱したところをルビリアの闇魔法が襲う。
どうにかバリアを張ったが、その隙にヘイルの前脚をもろにくらった。
ローリエは吹っ飛ばされ、木の幹に当たって地面に落ちる。
(早く立たなくちゃ……)
そう思うのに、土まみれの体は動かない。
無理に動こうと思うと、胸のあたりに激痛が走った。
魔王の血が流れている分、普通の人より頑丈で再生力が高いとはいえ、それを上回る強い攻撃を受ければ体は簡単に壊れてしまう。
「クレイユ様の手を煩わせるまでもなかったわね」
ルビリアが詠唱を始めると、彼女の足元に巨大な魔法陣が浮き上がる。
(ああ……まずい……)
ローリエは今の自分では止められないと直感した。
今の状態でバリアを張ったとしても、貫通してしまうだろう。
(もういいか……。遅かれ早かれ、きっとこうなる運命だった。最後にクレイユ様と少しでも幸せな時間を過ごせたのだから、心残りはない)
クレイユとの約束。ヘイルとの別れと父親の面影。モントレイ家での日々。売られそうになったところを救ってくれた勇者様。幸せな朝食の風景。
全ての記憶が繋がり、走馬灯のように駆けていく。
死を受け入れ、ぎゅっと目を瞑るローリエだったが、攻撃を受けるよりも先に大地が揺れた。
あたり一面、地面が隆起し、大量の土が巨大な波となってルビリアを襲う。
「ローリエ!!」
幻聴だろうか。頭が痛い。
クレイユの声を聞きながら、ローリエは一瞬意識を手放した。
ꕥ‥ꕥ‥ꕥ
真っ暗な景色にいつかの記憶が映る。
『あやつらに見つかると面倒だ。気をつけるように』
ローリエはヘイルとともに、木の上から冒険者たちの様子を観察していた。
人として生を受けながら、人と暮らしたことのないローリエは、森へやって来る冒険者に興味津々だ。
「ねぇ、ヘイル。人は群れを作るものなの?」
『ああ。弱いからな。森にいる魔物もそうだろう。弱いものほど仲間を作る』
「……じゃあ、私も弱いのね。一人になるのは嫌だもの」
ローリエはぎゅっと胸を押さえて答える。
ヘイルと離れて一人ぼっちになることを想像したら、悲しくて涙が溢れそうだ。
魔族は単独行動を好むらしいが、ローリエは誰かと一緒にいたいと思う。
「お父様にとって、私はいらない子だったのね。きっと、中途半端で弱いから」
『そうではない。あの方は、そなたを危険に晒したくなかったのだ』
ヘイルはそう言って、ふさふさの尻尾でローリエを包んでくれた。
(いいな……。人として生きることができれば、幸せになれるのかな)
楽しそうに談笑する冒険者たちを見て、ローリエはふと考える。
けれど、それは違った。
人の子として、モントレイ伯の屋敷に預けられてからも、邪険に扱われていたではないか。
(どこにも私の居場所はない。私はどこに行っても愛されない……)
再び視界が真っ暗になる。
ずぶずぶと冷たい泥沼に落ちていくようだ。
(誰か私の手をとって。ここにいても良いと言って)
闇に溺れながら、鉛のように重たい手を必死に伸ばす。
「ローリエ」
今度ははっきりと、自分の名前を呼ぶクレイユの声が聞こえた。




