梅雨の雨の日
雨の日は好きだ。
傘に当たる雨音は世界に私1人しかいないと勘違いさせてくれる。
そのひと時だけ私は人間社会を忘れられる。
いつものベンチに座ると傘の水滴が私の足につかないように気をつけながら机に立てかけ、お茶を一口飲む。
いつもは私を笑う木の葉も今日は頭を下げる。
その光景を見て何かを残すこともなく老いた私でも何者かになれた気がした。
少しすると赤いリュックが濡れないように前に抱えて大きな傘をさした少年が来た。
あれから一週間経ったが結局名前は知らないので私は彼を心の中では少年と呼んでいる。
「君はこんな雨の日も絵を描くのか」スケッチブックを取り出す彼に聞く。
「はい、こんな良い天気なのに絵を描かないなんてことはないですよ」彼は常識を答えるようにいう。
「良い天気ではないだろう」
「いいえ、良い天気ですよ。晴れの日は上を見るとどこまでも高く横を見ると遠く離れた森まで見える。きっと太陽は自分が作ったこの自然を自慢しているんです。それがうんざりするんです」彼は語り続ける。
「でも雨の日は違うんです。雨雲は太陽の自慢から僕を守ってくれて、雨音は絵の中に自分の世界を作ることに集中させてくれる。誰かが作ったこの世界ではなく僕が作った世界を生きれるんです」落ち着いた様子で話す彼に少し昔を思い出す。
私が中学生だった頃は遊ぶことだけを考えていてこんなことを考えたこともなかった。
あの頃は早く大人になりたかったのだが、今思うと早く大人になりたがることがすでに子供の思考だった。
テレビをつけると私より若く成功した人ばかりになった時、子供の頃の時間の大切さに気づいたが、もう遅かった。
だからこそ彼には期待してしまう。中学生ながら画家になると夢を持つ彼には夢を叶えるチャンスがある。
同時に嫉妬もする。私は何も残すこともなく死ぬだろう。そして100年後には私を知る人も死んで、私はいなかったことと同じになる。
対して彼はもし画家として成功したら100年後も生きた証が残る。その事実に私の心臓を銃で打たれたような気持ちになる。
彼が絵を描いているのを見て森を見てそんなことを何回も繰り返していると来た時からだんだんと強くなっていた雨は今は小降りになった。
屋根があるとはいえスケッチブックが少し濡れているのを見て、雨の日は家で絵を描けば良いと思うが口にはしない。それを言ってしまうと彼がここに来なくなるかもしれない。一週間前に戻るだけだがそれが恐ろしい。
私にとっては10年ぶりの人との交流だが、彼からするとたかが一週間だけ会った老人でしかない。
それがわかっているから私は彼が来なくなるようなことは言わないようにしている。
バサッと彼がスケッチブックのページをめくった音がした。昨日までより少し早い。
「もう描けたのかい」
「まだ途中だけど、あそこにカタツムリがいるからそっちを描きたいと思って」彼が指を差した方向を見ると少し小さいカタツムリがいた。
彼は近づくとまた絵を描き始めた。
カタツムリなんていつぶりに見たのだろう。
昔は毎年梅雨になると見かけたが最近はあまり見たことがない。開発が進んでカタツムリはもう少なくなっているのかもしれないな。
そう思いながら周りを見る。緑色の絵の具だけで塗られたような、この辺りもいずれは無くなるのかもしれないが、それは私が死んでからにしてほしいな。
さっきまで弱まっていた雨は、まただんだんと強くなっている。
少年がよしと言って立ち上がり、スケッチブックを置いて雨の中に走って行き50mぐらい離れたところで座り込み、何かを摘んで走って帰ってきた。
少年の手にはたんぽぽの綿毛があった。
戻って来るなり外に向かってたんぽぽの綿毛をふぅと吹いて飛ばした。
たくさんの綿毛が飛ぶがすぐに雨によって撃ち落とされてしまった。
考えてみれば綿毛が撃ち落とされるのは当たり前だが、私は綿毛が撃ち落とされるところを初めて見た。
「どうして急に走っていったんだ?」
「カタツムリを返してきたんです」
「そうしたら近くにたんぽぽを見つけて、摘んできたんです」全身が少し濡れているが手を服で拭きながら答える。
「私もやろうかな」
もう一度周りを見渡す。先ほどの一面緑の場所には塗り残したように白いたんぽぽがあった。
傘を差してたんぽぽに向かい腰を大事にしながら摘む。白い綿毛には少し水滴が付いている。
戻って綿毛をふぅと吹くが水滴が付いているからか飛ばない。もう一度吹くが結果は変わらなかった。
「やっぱりダメだ。私では飛ばせないからあげるよ」
「もう一度やってみてダメだったらもらいます」
スケッチブックを開きながら少年は言った。
2回やって駄目だったのにもう一度やっても結果は変わらないだろうと思うがもう一度吹く。
そうするとたんぽぽの綿毛の上の部分だけが飛んでいき、雨によって撃ち落とされていった。
「やっばりあまり飛んでいかなかったよ」
「もらいましょうか?」
「うん、あげるよ」そう言ってたんぽぽを渡す。
彼はたんぽぽを何回か吹くが3割ぐらいの綿毛がまだ残っている。
すると少年はたんぽぽを地面に落とし、何回か踏んづけて戻ってきた。
少し残酷な光景だった。
私も小さい頃は蟻を踏んづけて遊んでいた。今思えば残酷だが小さい頃は善悪がまだわかっていなかった。
彼は中学生と言っていたが精神はまだ未熟なのかもしれない。
少し強い雨が降る帰り道、電灯が一斉に光る。
電灯の下に白い花が咲いているのが見える。
昨日までも通っていたがあの花には初めて気づいた。
子供の頃はなんでも気づいたのに。
綺麗な形の石、クワガタがいること、たんぽぽの綿毛は見つけるたびに飛ばしていた。
やってたことをやらなくなるのが老いるということなのかもしれない。
私は雨に打たれるのが好きだった。理由はないがただ好きだった。
いつのまにか健康ばかりを気にしてしまっていたな。
家まで5分ぐらいだろうか、ゆっくりと傘を閉じて歩き出した。