出会いの春
私は迷った。かれこれ10年は迷っている。
と言うのも人生のゴールへの道を知らなかったからだ。
でも誰かについていけば良いだろうと思っていた。
そうやって走り続ける人生は、前を走っていたはずのみんなが止まり、私の背中を押して満足げに消えてしまったことで終わりを告げた。
そこから私はゴールを知らないまま走っている。
いつもそんな夢を見る。
ベットから起き上がり、冷たい水でバシャバシャと顔を洗う。
顔を上げると鏡に映っている老人を見てふと考える。
私に皺が増えたのはいつからだ。
私の髪が完全に白く染まった時はいつからだ。
少し考えてから、私が老人になった日のことを思い出しても虚しいだけだと気づいて考えるのをやめた。
10年前仕事を辞めた時から知人との会話はしていなく身だしなみに気をつかう事は無くなった。
その結果私は毒が全身に大きな変化をもたらしながらゆっくりと駆け巡っているのに今日まで気づけなかった。
鏡に映る青白い、カビだらけのパンみたいな顔が。
動くたびに悲鳴をあげる情けない体が。
ある事実を告げている。
「そろそろ死ぬな。」とぼそっと呟く。
毒が駆け巡っていたと言ったが、私は毒を盛られたわけではない。私に毒を盛るような人はいない。
私は孤独だ。でもその孤独は人を殺す毒だった。
私がここ10年間ずっと憂鬱だったのはこの毒のせいだ。
きっとこの毒は心臓を止めるのだろう。そしてこの毒によって家族も友人もいない私の体はぐちゃぐちゃに溶かされるのだろう。
私はなんとなく生きてきた。高校も大学も仕事すら、なんとなくで選んできた。良い女性がいれば結婚しても良いなんて漠然と思っていた。その結果、夢や、やりたいこともなく恋も出来なかったつまらない男にしかなれなかった。でもそんな自分を隠したかった。だから偽物の夢を語り、周りを騙してきた。そんな私に対して大きな夢を語る友人には口では応援して、心の内では『まだ輝いている』と馬鹿にしていた。夢を持てなかった私には、他人の夢が破れるのを願わずにはいられなかった。
「朝はやっぱり気が滅入る」
朝の光に照らされた私の人生は空虚だった。
「あいたたた」
靴を履くために少し屈むと腰が痛む。
仕事を定年退職したあと私は家にいてもやることがないのでよく公園に行くようになった。4時までには出て、暗くなるまで公園にいる。
この公園の美しい緑は人間社会の錆びた歯車を異物として照らし出す。なのに私はいつもここに来てしまう。きっとこの公園は魚に寄生する寄生虫のように私を思っているだろう。それでも来ずにはいられなかった。
私はいつもの屋根のあるベンチに座り、4人ぐらいでお弁当を食べれるようなテーブルにお茶のペットボトルだけを置いて時間を潰していた。
「今度はお弁当でも持ってきてここで食べるのもいいな」なんて呟いてみるが、このテーブルを1人で使うのは少し惨めに感じたのでやめた。
春の風を感じながら1時間ぐらい時間を潰して家に帰ると、何回も観たテレビドラマをつけて時間を潰す。
刑事が色々な事件を解決するドラマだが、内容はもう覚えている。息子がいじめられていることを知った母親の殺人、お金のない大学生の強盗犯、父親の虐待被害を受けている小学生などを敏腕刑事が解決し、寄り添い、大抵誰かが救われる。
現実はそんな綺麗じゃないよ。など心の中でツッコミながらご飯を食べる。あるいは、物語にそんな野暮なことを考えてしまう私の心が汚れているのかもしれない。そう布団の中で考える日々をいつも過ごす。
ある日公園でいつものように過ごしているとテーブルを挟んで反対側のベンチに小学生ぐらいの小柄な男の子が座ってきた。男の子は長袖の服を着ているが少し大きく、袖から手が少しだけ出ていた。男の子は背負っていた赤いリュックからスケッチブックと色鉛筆を取り出し絵を描き始めた。
男の子が絵を描きだしてから30分ぐらい経っただろうか、私はそろそろ帰ろうかと思っていると
「おじいさんは何してるの?」と聞いてきた。きっと長い間何もせずただ座っている私を不思議に思ったのだろう。
「何もしてないよ」少し声が震えてしまった。
「じゃあなんでここにいるの?」
「なんでだろうね」
子供の純粋な疑問が私の心を抉る。
「じゃあ僕の絵を見てよ」
そう言ってリュックから別のスケッチブックをとり私に渡してまた絵を描き始めてしまった。
手元のスケッチブックを開いてみると、いかにも子供らしさが溢れている絵がたくさん描かれている。
ある絵は真っ赤に燃える太陽の下でたくさんの昆虫が笑顔で暮らしている。
ある絵は綺麗な青い海の下でたくさんの魚が笑顔で暮らしている。
絵には人生が込められていると聞くが、きっとこの子の人生が笑顔溢れるものだったのだろうと思うくらいどの絵も不気味なほどに笑顔で溢れていた。
それが私には眩しくて、でもどこか心惹かれて……
「僕の絵どう?」彼が不安そうに聞いてくる。
「すごいよ。私には描けない絵ばっかだ」
「そうでしょそうでしょ」褒められたのがよほど嬉しかったのか凄い勢いで立ち上がって「僕は将来、画家になるんだ」と私がもう持てない将来を語る彼はまだ輝いていた。
空が少し暗くなると
「じゃあ僕は帰るね」そう言って彼はさっさと帰ってしまった。彼を思わず止めてしまいそうになったほど、久方ぶりの会話は楽しかった。会話といっても彼の絵の感想を話しただけだが。
いつもより遅い時間の帰り道は少し新鮮で、テレビドラマは観れなかったが良い1日だった。
彼は明日も来るだろうか、などと布団の中で考えてしまう。明日を待つのはいつ以来だろう。今日は運動会の前日のような高揚感ですぐには寝付けなかった。