後編
「木乃香と彼方って、ちょっと名前似てるよね。あ、今のは呼び捨てにしたとかじゃなくて……」
(可愛い)
失言だと、手をぶんぶん振って慌てて否定する姿も、どこかあざといと思わせる仕草も、木乃香にとっては全て可愛いという風にしか目に映らず、まさに天使に対する妄信が極まる。
傍から見れば、いや事実として、木乃香は彼方のことが好きになっていた。
それが恋や愛、友情という括りであるかどうかの判断は難しいが、例えば何も聞かずに財布の中身全てくらいは貸せるし、遊びに誘われれば他の予定はだいたい蹴るくらいのことはするだろう。
大好きである。
「……そういえば彼方さん、最近少し浮かない表情をしますね」
「えっ、そうかな」
「はい。何か悩みでも?」
「あ……えっと、うん。実は、木乃香ちゃんのことなんだけど」
「私ですか? ええっと、なんでしょう。心当たりは色々ありますけど」
「……聞いていいのか、わかんないんだけど……」
彼方は、それが一つのタブーであるような、聞いてしまうことで木乃香の気分を害してしまうことを懸念している。元より聞こうか悩んではいたが、ただ顔色を指摘されてしまった以上、それを正直に尋ねることに決めたのだ。
意を決して話すのは、二人が出会って間もない頃。
「西院さんに、スポーツの経験を聞かれた時に、凄く怒っていたよね……、それが、どうしてかなって思って……」
「ああ。格闘技の経験を聞かれたんですけど、実は、あの、嫌わないんでほしいんですけど」
「き、嫌ったりなんかしないよ! 木乃香ちゃんが何してたって……」
「喧嘩なんですよね……格闘技じゃなくて」
「け、喧嘩?」
「はい。これでも負けなしだったんですよ。そんなんで帰宅部だったわけです。部員が喧嘩したら部に迷惑もかかりますし……」
想像だにしない言葉に呆気にとられてしまうが、すぐに彼方は身を乗り出して叫ぶように言う。
「だ、ダメだよそんな、危ないこと!」
「もうやってませんよ、若気の至りってやつです」
「そ、そう、だよね。ビックリしちゃった……木乃香ちゃんが喧嘩……想像できないや……」
「そうですね、今はおとなしくやっていますので。あぁ、だからあまり過去の詮索とかしてほしくないんです。見ず知らずの西院さんにムッとしてしまったわけですね」
ふっと息を吐いて、木乃香は彼方が安堵の息を吐くのを見て安堵する。
今の自分を見て、過去の蛮行を咎めるより先に心配してくれる、嫌われたわけではないという安心が心を優しく包んでくれる。
「幻滅しました?」
そんなわけない、と思いながら、もっと優しい言葉が欲しくなって聞いてしまう。
「驚いたけど……想像もつかないけど……、でも、木乃香ちゃんのことだから、きっとちゃんとした理由があったんだと思う。……あ、でももし今喧嘩したいって思ったらまずは相談、だよ。私、助けになるから」
「ふふ、彼方さんは弱そうですけどね」
「喧嘩の助けはしないよ! 喧嘩しないように、助けるから」
「それは、心強いです。百人力ですね」
「本当にそう思ってる? もう……」
呆れながら、軽く微笑む彼方に、つい木乃香も笑みをこぼしてしまう。
彼方のような人がいれば、昔の木乃香も喧嘩しなかっただろう、なんて思うほどに。
さながら救いの天使。
――――――――――――――――
「彼方さんって天使とか信じます?」
「えっと、宗教の話?」
「実在するかどうか。どっちかというと宇宙人とかの話です」
「私は……見たことないものは信じないかな」
「そうなんですか……では、こちらどうぞ」
「ん? なあに?」
「鏡です」
「それは……わかってるけど……?」
「天使が見えませんか?」
「私しか映ってないよ……」
「はい」
「……私が天使、ってこと?」
「その疑念が持たれています」
「あはは……よくわかんないや」
「彼方さんって、凄く優しくて、可愛くて、たぶん別の生き物なんじゃないかと、思いまして」
「え、えー……恥ずかしいよ……、でも、だとしても、それは優しくて可愛いだけの人間だと思うよ? そんなに、天使くらい優しくて可愛いとは思ってないけど」
「あ、そこは自信、持ってください。私の目に狂いはありません。天使くらい優しくて可愛いです」
「その目、狂いあると思うなぁ」
話しながら、彼方の頬は徐々に赤く染まっていき、せわしなく髪の毛を触るようになる。
照れながら、うーとかあーとかの言葉が混じるのを、木乃香は特に意識することなく指摘した。
「どうしたんですか?」
「いやだって……凄く……愛でられているみたいな……」
「愛でて……そうですね……。でも彼方さんが天使じゃないとすれば……、ただのベタ褒めですね」
「だから、うん。凄く恥ずかしいよ」
「……じゃあ、天使ではない?」
「当たり前だよね! わかるよねそれくらい!!」
「怒ってます?」
「ちょっとだけね!!」
「照れ隠しでしたか」
「言わないでよもう!」
あー、と蹲って顔を隠す彼方を見て、また木乃香はふむ、と思案した。
「…………可愛さに説明がつかない」
「理由なんてないよ~! 人それぞれの性格だよ! そんなに……木乃香ちゃんは私のこと可愛いって思うの?」
「はい」
「それは……もう、相性が良いだけだよ……ありがとう……うーっ!!」
「……なるほど。……ありがとうございます、こちらこそ。彼方さんが私に声をかけてくれてよかった。本当に」
しつこく声をかけて、仲良くなろうと意気込んでくれて。
思い返せば、初めて会った時から、そんなどこか調子の違う彼方の姿に毒気を抜かれてしまったものだ。
「あー、最初から好きでした。彼方さんのこと」
「……今日はどうしたの!? も、もう……謝るから許して……顔見れないよ……」
「なんか腑に落ちました。今後ともよろしくお願い致します」
「勝手に腑に落ちないでってばぁ! 今度ともよろしく!」
顔を隠した彼方と、そんな彼方を一心に見据える木乃香であった。