序章・僕らの出会い(前編)
窓の外から吹く清々しい秋風が、僕の心に穏やかな心地を与えてくれた。
たった独りの「平穏」こそ、今の僕にとっては、十分だった。
…………。
はっ。
僕はゆっくりと、片方の瞼を開いた。
……ここは。生徒たちの騒々しい声。室内の外から刺す太陽の光。
ああ、そうだ。ここは僕のクラス、2年生の教室。
おそらく……昨日の徹夜のせいだ。自分の机に頭を置いて、いつの間にか眠ってしまっていた。
ちょうど今が休み時間であることが唯一の救いかもしれない。
もし授業中に居眠りして誰かにバレたら、ここには恥ずかしくて居られなかったはずだ。
えーと…。確か今、数学のノートに僕なりのテスト対策を書いていた。
『2018年10月22日』、今日学んだ対策を、ちゃんとノートに記しておかないと。
授業で習った事が、ぼんやりと記憶に残っている。今のうちに仕上げておかなければ。
……あれ。ノートはどこだ? たしか僕の名前・神崎浩太郎と、裏にちゃんと書いていたはず。
「──うあっ」
机にくっつけていた顔を上げると、僕は気づいた。
不穏な感触を、口元に感じたのだ。
まさか。いいや、まさかね。……だが、その「まさか」だった。
それは、ヨダレだ。
生ぬるいネバネバした僕のヨダレが、口元についていた。
それだけではない。探していたノートは、僕の机の上にある。
……つまりそれは、僕がここで眠っていたせいで、ページをヨダレだらけにしてしまったという、まさに大惨事だ。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。周りの生徒は他の生徒と話す事に夢中だ。
だが、バレたら即刻、寝ている時にヨダレを出す気持ち悪い人間だと思われるかもしれない。
可能性としては、十分あり得る。あり得るぞ。そんなのが理由で、変なあだ名をつけられでもしたら…!!
僕は心の中でパニック状態に陥ったが、機転を利かせてサッと制服のポケットからハンカチを取り出す。
そしてそのハンカチを使い、バレないよう急いで口元とページについたヨダレを拭く。
「……おいおい神崎、何してんだ?」
「うわっ!」
廊下で誰かと話していた村野が、教室に戻ってきた。なんとかヨダレを拭き終えたギリギリに、だ。
ページは多少破けてしまったが、使う分は問題ない……と思う。
……突然現れた村野に対し、つい間抜けな声が出てしまったが。
「どしたんだよ? 変な声出して。そんなに俺にびっくりしたか?」
「ま、まあね。少し…」
こいつの名前は村野純。同級生で…僕の唯一の友達だ。
多少気が合わないところもあるが。それでも僕にとって腐れ縁のような関係は、何ヶ月も続いている。
少しボサボサの茶髪が特徴的で、チャラ男っぽいが中身は元気な少年だ。
「ふーん…まあな。ちょっと前にホノカにも、あんったちょっとうるさいから黙ってなさい! って言われたし」
「あ、はぁ…そ、そうなんだ」
「そーおだよ! そういえば他の奴にもよく言われたわ! ほら、例えば…」
で、出た。村野の友達トークがおさまらない。
僕は今、勉強がしたいんですけど……。そもそも、こいつの話を聞く為に学校に来てるんじゃない。
あと「ホノカ」って誰だ。勉強の暗記はできるけど、名前なんていちいち覚えてない……。
さっきノートに記そうとした事を忘れてしまった僕のことはお構いなしに、村野の友達トークは休み時間の終わりまで続いた。
下校中。一人で帰ろうと思ったが、村野に「一緒に帰ろうぜ!」と誘われ、そんなこんなで帰り道の住宅街を歩いていた。
僕らが暮らしている地域は主に都会っぽいが、この場所はそれとは関係なく、車すら通るのが少ないので、僕からすれば心地よい。
すると夕方だというのに、いつもとは早く空が暗くなる。
だんだんと少しずつ曇り空になっていった。そんな時……。
「なあ、ウチ来ねぇーか?」
「えっ」
村野が、突発的な発言をした。しかし本人は、悪気なさげな笑みをこちらに向けてきている。
「……今から?」
「おう! 今から!」
「う、ウチって、村野の家?」
「……ええと、それ以外ってあるか?」
ひ、人の家? 他人の家に上がり込むだなんて、変な気分になりそうだ。
それに、「今から」というのも気が引ける。僕は一刻も早く家に帰って、学校で勉強できなかった分の予習がしたい。
こっちの反応を気にかけている村野だが、きっぱり断っておく事にしようか……。
「あの、今日は──」
「いいよなっ? 俺もさ、一度お前をウチに入れたかったんだよなー! 結構俺たちも仲良いしさ、こーゆー事して、仲深めてこうぜっ!」
僕の言葉はあっけなく、風のように流されていった。あー、結局……鈍感な村野は「そういう」モードになっている。
因みにここで言う「そういう」というのは、押しが強いという意味だ。満面の笑みを浮かべる村野のテンションは止まらない。
「ま、無理にとは言わねーけど」と村野は顔を逸らして諦めようとするが、そう言われると僕はめっぽう弱いのだ。
何の悪意もないのか、逆にそういう性格を知って敢えて言っているのだろうか…。
「はぁ…いいよ。分かった」
聞いた村野は、「やったぜ!」とガッツポーズを見せてきた。……やれやれ。
僕は自覚がないが、呆れ顔をしていたはずだ。そんなこんなで仕方なく、村野の家に立ち寄ることとなったのだが……。
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「帰る」
「……ちょぉおおオイオイ! ま、待ってくれよ神崎!?」
村野の家の廊下で、鞄を持った僕を、背中から必死に引き止める村野。
彼は僕の腕をがしっと掴んで引き止める。でも、さすがにこれは、これは絶対ダメだ。
──村野の部屋に、同じ学校に通う、見知らぬ高校生を「2人」も見かけた。
目撃したのは、黒髪のストレートヘアで清潔感のある女子。
そして、グレた体勢で座る少し目つきの悪い制服姿の男子高校生。
そんな二人を見てしまったら、緊張のあまり、そこから去るのも仕方がないというものだ。
……自分でもよく分かっている。俗に言う陰気、いいや、腰抜けな行動である。
しかし僕は、人の気持ちを尊重できない性格だ。だからこそ、これまで人間と関わろうとせず、「平穏」に生きてこようとしてきた。
また僕は余計な事を言って、誰かを失望させることしかできないんじゃないかと思ってしまう。どうしても。だから僕は──。
「安心しろって! すぐに終わるから……ちょっと我慢してくれ!」
「っ痛い痛い! ちょっと! 腕掴みすぎだよ!」
そんな思いもあっけなく、僕は2人のいた村野の部屋に、無理やり連れ戻されたのだった。
「あれ? 戻ってきたの?」
「はぁ……俺が廊下に戻って捕まえてきたんだよ」
清楚な私服姿の女子は、呆れ顔の村野に、腕をぎゅっと掴まれた僕を見て驚く。
……僕は終わりを悟る。このまま僕は、一体何をされるのだろうか。
「こいつの名前は神崎。神崎浩太郎!俺の大、大、大親友だから!仲良くやってくれよな!」
「へえ、そうなんだ!」
するとその黒髪の女子はわざわざ僕の目の前に来て、にこっと笑顔を見せる。
黒髪のストレートロングに、白のワンピース。かなり清潔感のある格好をしていたが、大人っぽくて近寄りがたいという印象よりも、口調から優しさが垣間見え、親しみやすいような存在だ。
「初めまして、神崎くん。私は蒼凛です。よろしくね!」
「う…うん。よろしく」
蒼さんの純粋げな目と優しい声に、硬くなった表情が、少しだけ柔らかくなった気がした。
その後、しばらく僕らでいろんな事を話した。僕と蒼さんは、ほとんど村野の話を聞いていただけだが。
村野もほとんど僕らや友達の話しか話さなかったけれど、たまに部活の話もしていた。
実際はどうか分からないが、気がつけば既に……僕はこの場に馴染んでいた気がする。
蒼さんや村野は僕が話す言葉も、すんなりと受け入れてくれた。正直思ったより悪くない時間だった。いや、たまたま運が良かっただけだろうか。
……因みに、僕らが囲んでいたローテーブルの向こうにいた、制服を着た少し怖い男子高校生は、床に座って黙り込み、スマホをいじっていただけだった。
その黒髪は荒れていて、制服もかなり長い間アイロンをかけていなさそうだ。何か事情でもあるのだろうか。
僕は気になって村野に、小声で彼の事を聞いた。
「ああ、あいつは中島蓮木。ちょっかいをかけなきゃ何もしてこねぇから気にすんなよ」
「『ちょっかいをかけなきゃ』……??」
少しだけ、背筋が凍ってしまう。そこまで裏社会的な人間なのか…!?
とりあえず、怖いから関わらない事にした。(あの人は何でここにいる?)なんて素朴な疑問は、今すぐ忘れ去った。
そんな時。玄関のチャイムが鳴り、村野が急いで向かう。
この場に馴染んでいたせいか、「ああ、また人が来たのか……」と、僕は不安にはならなかった。
──僕は、独りでも十分だった。考える僕の将来の中に、人の姿はない。最低限の仲間なら出来ると思うが、交流はしないはずだ。
きっと、それを村野に心配されたのだろう。余計なお世話とも言えるが……今回だけは、良い体験をさせてもらっていると思う。
しかし、僕と仲良くなれる人間が、この世界に居るとは思えない。
……そんな事を、考えていた時だ。
村野は僕らの前に、一人の女子高生を連れてくる。
それが、『僕らの出会い』だった。
「あ、あの……どうしたんですか?そんな所でぼーっと立って」
「……ふぇ!?ひっ!な、なんでもありません!!」
制服の女子高生が、僕を見て口を開き、呆然と見詰めてきた。思わず、僕の方から声を掛けるべきかと思ったのだが。
だが初対面で、僕はいきなり余計なことを言ってしまった……その女子高生は僕の言葉に、過剰に反応したようだ。
僕が後悔に苛まれていた時、村野は僕にその子を紹介した。
「こいつは、七瀬実花。ちょっと頭おかしいから気をつけろよ?」
「え、村野くんちょっと余計なこと言わないでっ!?」
笑顔で発した村野の、無意識かつ失礼な言い方に、彼を見て怒る七瀬さん。
確かに、表情豊かな印象ではある。だが……初対面なので七瀬さんの性格は知らないが、僕に言わせてみれば、村野の方が明らかにおかしいと思った。
横から彼にジト目を向けた後、ふと七瀬さんに視線を戻す。
少しだけ光が反射する茶髪の、綺麗なウェーブが掛かったロングヘア。丸っこい目からは、女の子っぽく、制服姿と相まって可愛らしい印象を受けた。
全体的に例えるなら……今時の若者の雰囲気、清潔さを混ぜ合わせた、多少小動物っぽい感じだ。
「その、よろしくお願いします。七瀬さん」
「え、あ……よよよろしく、お、お願いします……??」
七瀬さん。明らかに動揺しすぎだ。挙動不審すぎる。
赤の他人が怖いのか? もしそうなら、僕はあんまりこの場にいるべきではないな……。
「何言ってんだよ、二人とも? 俺たち同級生だし、そもそも同じ教室だろ?」
会話も弾ませられない状況だった最中。村野が半笑いしながら、明るい様子で話す。
僕は少し驚いた。じゃあ七瀬さんとは、前々から同じ教室だったってことか…? 僕もかなり勉強に集中してたと思うし、同じクラスだと気が付かないのも当然だろうか?
「え?そうなの……? あ、ごめん。クラスの事あんまり知らないから」
「か、神崎くんはさ、ほらっ、真面目だから、私のことなんか知らなくて当然だよ」
「僕の事、知ってたの? 七瀬さんは」
「う、うん。……その……。前々から知ってたよ」
体を左右に揺らしながら、恥ずかしそうに顔を赤くし、七瀬さんは話す。
……僕はその時、七瀬さんの存在を初めて知ったのだった。
その後、みんなで……いいや、中島くんを除き。
一緒にいろんな話をして、最終的に僕は思った。他の生徒と話すのは、大して悪い事ではない。
時間が迫ってきた為、帰る準備をして玄関まで来た。
帰り際、村野が「いつでも来たい時はウチに来てくれよ」と誘ってくれた。この場を去ろうと扉を開けた瞬間。
「ああああああっ!!」
「え……!?」「は!?」
悲鳴を上げながら、猛ダッシュで彼女はやって来た。白いソックスを履いていて、ツヤのあるフローリング上で走っていたので、無論その場で転ぶ。
「い、だだだ……!」
「だっ大丈夫!?!?」
御手洗いの方に行っていた七瀬さんが、廊下を走って僕の元にやってきたのだ。
僕と村野が唖然としている中。床に当てた額を抑えながら、七瀬さんは息切れを起こしながら、ゆっくりと立ち上がる。
「──か、神崎くんっ!! 私も一緒に、家まで送るよっ!!!」
この時、七瀬さんが何故「変」だと呼ばれていたのか、初めて分かった気がした。
その後、住宅街の帰り道で七瀬さんと二人で色んな話をした。
七瀬さんが昔ピアノを習っていた事や、挫折してしまった時のこと。
その時の音程に合わせて口をぱくぱくさせて歌う七瀬さんが、ちょっぴり可笑しな感じだった。
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翌日。曇り空の下、僕は教室にいた。
生徒の落ち着いた話し声と、どんよりとした薄暗い空模様が心地よくて落ち着く。
休み時間に僕はそこで、ノートを使った勉強の予習をしていた。
10月23日。本当にあっという間の1年間だと、日付を書いてて思った。
「かっ神崎くん、おはよう」
「あれ、七瀬さん? えっと、うん、おはよう……?」
そんな時。制服姿の七瀬さんが、僕の後ろから回り込むように、目の前にやって来る。
本当に同じクラスだった。少し後ろの方の席だったから、気付かなかったのも当然か。
昼頃だと言うのに「おはよう」。少し首を傾げたが、僕も合わせておく。
「どうかしたの?」
「……えっと」
動揺したまま七瀬さんが目線をやるのは、机に掛けられた僕の鞄の方だ。
「……気になるの? 僕の鞄」
「っあいや! すごい重そうだなぁーって。……大丈夫なの?」
大丈夫って、どういう意味の質問だ。
ん……あ、重さのことか。
「まあ、ちょっと重いかな」
「へぇ! どんなのが入ってるの?」
「え? み、見せられるようなものは無い、けど……」
七瀬さんは目を輝かせ、興味津々。やっぱり僕は他人と会話をする時、少しばかり混乱してしまう。
ここまで見られてしまうと仕方がないなと思い、鞄を机に置いて『ある持ち物』を取り出す。
「うーん……これがほとんど、鞄の中を占めてる。大丈夫かと言ったら、どうなのだろうか」
「えっ!? のののの、ノート!? こんなに沢山あるの!?」
この数十冊も重なるノートは、全てここ数年間描き続けた勉強用のノートだ。
かなり昔から書いてるし、残りはおそらく勉強机の引き出しに入っていたはず……。
それを見た七瀬さんは驚いた表情で、僕のノートの一つを持ち上げて、ページを開く。
すると、ずらーっと文字や数式などがページの空白に敷き詰められているのを見た七瀬さんは、さらに驚く様子を見せた。
「す、すごいよ、これ神崎くん! これ編集すれば、きっと勉強本出版できるよ!?」
「えっ……」
そのとき、僕の中で不思議な気分がした。
当たり前だが、これまで誰にも僕のノートを褒められた事がなかった。村野にさえも。
「……あ、ごめん。ちょっと言いすぎた?」
「ううん、謝らないで。その……ありがとう、そう言ってもらえて……嬉しい」
目の前にいた七瀬さんは「嬉しい」という僕の言葉に一瞬反応し、「ううん!」と首を横に振った。
そんな話をした後、七瀬さんは自分の机に戻っていった。
僕は彼女が机に戻ったのを確認すると、ノートを鞄に仕舞った。
ん?
……ノートが一冊欠けている。
それに気づくと、ものすごい恥ずかしそうにしながら七瀬さんが戻ってきた。
ぽかんとしていた僕に、何も言わず、無くしていたノートを渡し、頭を下げた直後に逃げるように机に戻っていった。
七瀬さんは、僕のノートを持ったまま、それに気づかず自分の机の方に戻っていったのだ。
……七瀬さんは、変わっていると言うか、ドジなのか。
その後だんだんと教室内の声が騒がしくなり、僕は一度落ち着いた場所へ向かおうと教室を出て、早歩きで学校の図書室に向かう。
廊下を早歩きしていると、図書館の扉の角から女子高生が飛び出してきて、ぶつかってしまった。
その反動で女子高生は床に座り込んで、俯いた状態になる。
「あっ……ごめんなさい」
「………。」
僕は彼女の目の前で、少ししゃがんで心配の眼差しを向ける。今のは僕の不注意だったし、万が一怪我でもあれば、話し掛けるのは当然だと思った。
が、その赤いストレートロングの髪をした女子高生は、黙り込んだまま、一向にこちらに顔を向けようとはしてくれなかった。
僕の声を無視して彼女は立ち上がり、スカートの埃を払った後、横をすり抜けて去っていく。
普通の人なら「少し失礼な人だな」と思うかもしれないが……僕は何とも思わなかった。
……いや、何も思いたくなかった、と言った方が正解か。
胸が押しつけられるように痛くなった。苦く懐かしい「過去」が、薄らと頭の中に彷彿としたように。
僕は昔、仲の良かった大切な人に、酷い事をしてしまった。