母のロザリオ
今宵、忠利は城下の商家を宿としていた。
寝所の用意ができたと、近習に告げられてから既に一刻は過ぎている。
「はて、如何したものかな……」
首を垂れるように俯きながら、忠利は眉間に皺を寄せた。
頭の中では、沿道に立ち並ぶ地侍や百姓たちの暗く淀んだ眼差しが、次から次へと浮かんでは消えていった。
江戸の徳川幕府は、三代将軍の家光の御代となって既に十年が経っていた。幕府の権勢は盤石そのもので、もはや些かの揺るぎもない。
そのような時勢のなか、わずか半年前まで肥後熊本の国守は加藤家であった。幕府は、二代目藩主忠広の治世の乱れを理由に加藤家に改易の沙汰を下した。代わって国守を命ぜられたのが細川家であった。
忠利は細川家の三代目の当主であり、齢は四十七を迎えていた。
此度は初めての国入りで、熊本城までは、もはや二里ほどの距離を残すのみとなっていた。明日は、忠利にとって初登城となる。
だが、国入りしてからこれまでの道程を思い返してみると、沿道で迎える地侍や百姓たちの表情は一様に沈鬱なものだった。
加藤家先代の清正の治世の見事さは、他藩にまで広く知れ渡っていた。治水、灌漑、新田開発、それらの事業は全て肥後熊本の民を潤すこととなった。
さらには、それまで肥後の民が見たこともなかった、熊本城という巨大な城郭を創り出したことで、清正はまるで神仏の如く崇められていた。
その記憶は、今も肥後熊本の民の心に深く刻み込まれている。
加藤家の改易は、清正公が没してから二十年後、幕府によって半ば強引になされたものだった。
国入りして以来、忠利は、鬱屈とした反骨心が国中に満ちていることを感じ取っていた。
−−地侍や百姓たちの瞳には、憤怒の念がこもっていた……その熾火のような思いは、何かの拍子に激しく燃え上がらないとも限らない−−
忠利は眉間の皺を更に深くしながら、フッと小さく溜め息をついた。口先から吐き出す息がたちまち白く変わった。
年の瀬も近い師走の寒さが全身に刺し込むようで、思わずブルッと身震いをした。まるでこの地の気候までが忠利を拒絶しているようにも感じられた。
今後の治世に自信を持つことなど到底できず、忠利の胸の内には暗い不安ばかりが募っていた。
−−地侍や百姓たちの鬱屈とした思いは、押さえつけようとすればするほど、かえって爆発するものだ……いったいどうすれば……−−
肥後熊本の地は、地侍の反抗が特に激しい土地柄であった。
加藤家の治世の以前、当時の天下人、太閤秀吉に国主を命ぜられたのは佐々(さっさ)成政であった。入国早々に検地を強行した成政は、地侍たちから一斉に蜂起されて、肥後全土が騒乱状態に陥った。だからこそ、次の国主を任された清正は、民心を安んずることにとりわけ腐心したのだった。
すがるような心持ちで、いつしか忠利は緋色の巾着袋を手に取っていた。いつも肌身離さず持ち歩いているものだったが、その小さな巾着袋に何が入っているのか、近習達でさえも知る者は無かった。
袋の口を結ぶ紐を解くと、忠利は指先を袋の中に差し入れた。そっと指を抜き出すと、数珠のように小さな黒い珠が連なった円環が現れた。円環の一端から黒い珠が数珠繋ぎに一筋伸びている。その先端には金銀の象嵌が施された金属製の十字架が付いていた。金属の表面は黒く塗られ、十字の中央部分には桔梗の花が描かれていた。
忠利が手にしているのはロザリオであった。キリスト教の信徒が祈りの際に用いる道具である。当時、キリスト教はバテレン、十字架はクルス、ロザリオはコンタツと呼ばれていた。
既に太閤秀吉の時代にバテレン禁止令が出され、徳川の御代になってからは、それは更に徹底されていた。このロザリオは、忠利にとって、たった一つの母の形見であったが、決して誰にも見られてはならないものでもあった。
ロザリオの十字架を両手で包むようにしながら、忠利はゆっくりと瞼を閉じた。そのまま瞑想をするように、フーッと大きく息を吐き出すと、静かに深呼吸を繰り返した。
−−そういえば……−−
不意に忠利の胸の内に、母、玉子の姿が浮かんできた。
まだ元服前、忠利は大阪から江戸へ出向くこととなった。わずか十五歳であった。
太閤秀吉の死去の後、豊臣の世が揺らぎ始めていた。そんな波立つ時勢のなか、父、忠興から、徳川家の人質となることを命じられたのだった。
全ての準備を整え、いよいよ江戸へ向けて大阪の細川屋敷を発つ前日に、突然、母、玉子から呼び出された。
細川家は、清和源氏の血脈となる室町幕府の管領家の流れを汲み、二条流歌道の古今伝授を受けるなど、文武両道の家柄である。その細川家の男子として、忠利は元服前とはいえ、剣術などの武芸はもちろんのこと、歌道や茶道の修練に至るまで、気の休まる時もないほど忙しく、普段は母と顔を合わせることもなかった。
忠利は、突然の母の呼び出しに驚きながら、揺れる世情のなかで何か事が起こったのではないかと、慌てて自室を飛び出した。
暦の上では春であったが、既に夕日は地平線にかかり、辺りは肌身を刺すような冷気に満ちていた。
忠利は凍える指先を擦り合わせながら、ハーッと息を吹きかけた。幼い頃から病弱だった忠利にとって、花冷えの寒の戻りは身に堪えるものだった。
母の部屋に向かう板張りの廊下の途中で、ふと足を止めた。
夕暮れの空を見上げると、満月が柔らかな光を注いでいた。
−−大阪で見る月も、これで最後かもしれぬ−−
そんな郷愁が、にわかに込み上げてきた。それを振り払うように強く足を踏み出すと、廊下の板敷きがトンと軽やかな音を立てた。
母の部屋の障子戸の前まで来たところで、忠利は板敷きに膝を突いた。
「光千代でございます」
忠利は、幼名を光千代と名付けられていた。
「お入りなさい」
忠利が障子戸を開けると、ピンと背筋を張りながら、畳敷きの部屋の中央に母が座っていた。首にロザリオを掛けている姿は、まるで枯れ野に凛と咲き香る、たおやかな一輪の花のようだった。
涼やかに微笑んでいる母の顔は、透き通るように白く、ほんのりと輝いているようにも思えた。我が母ながら、まるで菩薩か、天女のように美しい。そんな想いが湧き上がってくるのを、忠利は止められなかった。
「体の具合は如何ですか、光千代殿?」
母が、右手の指先を揃えて目前の畳を指し示した。そこに座るようにと、忠利に促す仕草だった。一つ一つの所作に高雅な気品が溢れている。
「寒さは身に堪えますが、ご懸念には及びませぬ」
忠利は母の真向いに腰を下ろしたが、どうにも照れくさくて母の顔を直視できず、伏し目がちに畳の縁へ視線を落とした。
「あなたが幼い頃は病弱で、ずいぶん心配したものです」
「そんな私のために、母上はバテレンの洗礼を授けて下さいました」
「主のご加護でしょう。よくここまで成長してくれました。有難いことです」
「はい」
忠利が視線を上げると、母の澄みきった瞳に捉えられた。その瞳は、生身の人とは思えぬほどの崇高な輝きを宿している。
母は、ガラシャというバテレンの名前を併せ持っていた。ラテン語で〈神の恵み〉という意味である。
忠利が幼き頃、バテレンの神へ祈りを捧げる母の姿を目にした記憶があった。
母から聞いた話では、幼い頃の忠利は、引き止めようとする乳母たちの手を振り払って母の隣に並ぶと、母が首から掛けているロザリオを欲しがったらしい。母が忠利の首へロザリオを掛けると、忠利は両手を合わせてバテレンの祝詞を唱える母の真似をしたそうだ。
モゴモゴと拙い口調で、懸命に母の言葉を真似ようとする幼い忠利に向かって、母は優しげな眼差しを注いでいた。まるで天女のような、その微笑みを忠利は鮮明に覚えていた。
「母上、私をお呼びになったのは?」
「明日、江戸へ出立する、あなたの顔が見たかったのです」
「そうでしたか……はあ……」
拍子抜けしたように、忠利が小さく溜め息を漏らした。その様子を見て、母は、フワリと包み込むような微笑を浮かべた。
「他愛もないことで、呼びつけて申し訳ないことです。母の最期のわがままと、許して下さいね」
最期の、という母の言葉が心に引っかかった。
「最期の……とは?」
母は、フフッと小さく含み笑いを漏らした。
「江戸へ行くということは、徳川家の人質になるということです。これからは、もはや気ままにどこかへ出向くこともできますまい」
「はぁ……」
「それに石田殿と徳川殿との確執も激しさを増しています。この世は何が起こるか分からないものですから……」
母は天を仰ぐように顔を上げると、遥か彼方を眺めるような遠い眼差しを浮かべた。
−−母上の父、明智光秀殿は織田信長公を弑して天下を取った。だが、ほどなくして太閤殿下に討ち滅ぼされた。母上を除いて、明智家の方々は悉く殲滅させられた。世の無常というものを、母上ほど知り尽くしている方はおられまい。母上がバテレンの教えに帰依されたのも、明智家の方々の菩提を弔うお気持ちもあったに違いない−−
母が首から掛けているロザリオの十字架の中心には桔梗の花が描かれていた。桔梗は明智家の紋章だった。
「かつて私は一度だけ教会を訪れたことがあります。その時、神父様から教えていただいた言葉を今でも覚えております」
遠くを見るような母の瞳は、凪いだ湖面のように澄み渡っていた。
「草は枯れ、花は散る。されど、主の御言葉は、とこしえなり」
母の声が忠利の胸の奥底に染み入ってきた。その言辞は聖書にあるペテロの手紙の一節であった。
目の前で端座している母に、忠利は、生身の人とは思えぬほどの神々(こうごう)しさを感じていた。
母が忠利の顔に視線を戻した。
「そういえば先日、加藤殿にお目にかかる機会がございました」
「加藤主計頭……清正殿ですか?」
「ええ、そうです」
唐突な話に、忠利は小首を傾げた。
「加藤殿は、我が殿とよく似ておられます」
「父上と加藤殿が?」
「真っ直ぐなご気性で、剛直さは比類がない。それでいて、深い知恵も持ち合わせている。お二人ともに」
「そうですか……」
しばらくの間、母の言葉を反芻するように、忠利は俯いたまま黙り込んでいた。
そんな忠利を、母は穏やかな瞳で、じっと見つめていた。
一陣の風に灯火の炎が吹き消されるように、頭の中に浮かんでいた母の姿が、フッと掻き消えた。忠利はゆっくりと瞼を開いた。
−−あれはまさしく……母上の最期の言葉……遺言であった……−−
忠利が慣れぬ江戸暮らしを始めてからほどなくして、家康公が会津の上杉征伐の旗を揚げた。
その機を狙って、大阪で石田三成が蜂起した。
石田の兵に屋敷を囲まれ、それでも人質になることを拒絶した母は、留守居を任されていた家老の小笠原秀清に命じ、長槍で自らの胸を突かせて自害した。そのうえ己の遺骸が残らぬよう、屋敷ごと炎で焼き尽くした。あまりにも壮絶な最期だった。
後々(のちのち)、父、忠興の命令によって母が死ぬことになったという風聞を家中で耳にすることもあったが、忠利は心の中で一蹴した。
−−あの母上が、たとえ父上からの命令であれ、納得できぬものに服するはずがない。ご自身で決意され、その信念に従ったまでのことだ−−
そう思わずにおれぬほど、母、玉子は、まるで聳え立つ霊峰の如き、気高い女性であった。母は、実父の明智光秀殿が天下の謀反人として秀吉公に討たれ、一族郎党がことごとく滅ぼされるという、常人では到底堪え難い悲しみを乗り越えてきたのだ。
−−母上は死に場所を求めておられる。そのように感じられることさえあったな−−
再び忠利は瞼を閉じると、在りし日の母の姿を思い浮かべた。
心の中に現れた母の姿は、開悟に達した観音菩薩の如く、眩いほどの後光を放っている。
−−花の如く散っていかれた母上の最期の言葉が、清正殿のことだった……私が、その治世の跡を継ぐことになることも見通しておられたのかもしれぬ−−
その瞬間、まるで稲妻に打たれたように、忠利はハッと眼を見開いた。
「治世の跡を継ぐ……」
心の中に浮かんだ言葉を、自らに言い聞かせるように呟いた。そして、板張りの天井を仰ぐように顔を上げると、
「母上……そういうことですね……」
と、虚空に向かって大きく頷いた。
翌日、忠利は日の出前に目を覚ました。
すぐさま家老たちを集めるように命を下すと、気忙しく身支度を始めた。肌に刺し込むような師走の朝の寒さも、もはや気にならなかった。
半刻も経たないうちに、忠利がいる商家の中庭に、主だった家老たちが集まってきた。しかし、皆一様に、突然の召集を訝りながら首をひねっていた。
「いったいなにごとだ?」
「それもこんな朝早くに……」
「初登城の準備に手一杯なのはご存知のはずだが?」
「今さら、あらためて申し伝えられることなど、ないはずよのう……」
家老たちは寒さに震えながら、口々に湧き上がる疑念をこぼしていた。
「殿が参られます!」
忠利の近習が声を張り上げた。
慌てて家老たちは地面に腰を下ろすと、両手を突きながら頭を下げた。
トントンと商家の縁側の板敷きを叩く、軽やかな足音が近づき、中庭の前で止まった。
「皆、朝早くから済まなかった。顔を上げてくれ」
「はっ!」
家老たちが一斉に頭を上げた。
「殿、いったい何事でございますか?」
筆頭家老として最前列の中央にいた松井興長が一同を代表して声を発した。
訝しげな表情を浮かべている家老たちに向かって、忠利が涼やかな笑顔を浮かべた。
「朝早くに皆を呼び出して済まん。本日の初登城は、清正公の位牌を先頭に掲げて行うことにしたのだ。そのことを告げたかった」
「なんと……」
家老たちは眉間に皺を寄せながら顔を見合わせた。
「朝一番に近習に命じて、加藤清正殿を祀る浄池廟へ向かわせた。まもなく戻ってくるはずだ」
即座に興長が、忠利へ向かって右の掌を高く掲げた。
「お待ちください、殿!前の国主の位牌を掲げて初登城を行うなど、正気の沙汰とは思えませぬ!」
松井興長は鋭い眼差しで忠利を見据えた。
忠利は穏やかな瞳で興長を見つめ返した。
「諫言、有り難く思うぞ、興長」
忠利の瞳に力が込められた。
「だがな、聞いてくれ。難地と世に名高い、この肥後を治めるには、ここまでの覚悟が必要なのだ」
忠利が家老たち全員の顔をゆっくりと見廻した。家老たちは一人残らず、息を凝らすようにして忠利を見つめていた。
「治世にわずかでも綻びがあれば、加藤家と同じく、この細川家も幕府に取り潰される。いや、むしろ外様大名を取り潰すための口実を幕府は探していると言っても良い」
忠利の言葉に、家老たちの表情が一変した。まさに戦場を前にした武者の顔つきであった。
「本日の初登城は、細川家にとって大戦なのだ。皆、頼む」
忠利が直立したまま、家老たちに向かって頭を下げた。
「殿!頭をお上げくだされ!」
「どうか、殿!」
「お止めくだされ、殿!」
家老たちが堪え切れずに張り上げる声が、商家の中庭に入り乱れた。
忠利が緩やかに顔を上げると、家老たちの瞳は滾るような熱を帯びていた。
「殿、すぐに支度にかかりまする」
松井興長が平伏すると、他の家老たちも一斉に頭を下げた。
「皆……よろしく頼む……」
感極まったように、忠利の声は震えていた。
家老たちが息を揃えて同時に立ち上がった。
松井興長が、「さあ、一同、遺漏なきように!」と、左右に居並ぶ家老たちに呼びかけた。
「おう!」
家老たちの野太い喚声が、商家の中庭に響き渡った。
太陽が西へ傾き始めた頃、細川家の大名行列が熊本城に向かって発した。その先頭に加藤清正公の位牌を掲げながら、ゆったりと歩みを進めていく。
その異様な光景を目にして、沿道で見守る人々は驚きの声を上げた。
「なっ……なんだ、あれは!」
「清正公の位牌では?」
「これはなんと!」
寄せては返す波涛のような、どよめきに包まれながら、忠利は行列中央の駕籠の中にいた。
駕籠の明かり取りの隙間から外の様子を窺うと、細川家の大名行列を、沿道の人々が熱のこもった眼差しで見つめていた。忠利は、そのことがなによりも嬉しかった。
一刻ほどで、行列は熊本城の城門の前に辿り着いた。
新しい国主を迎えるべく、既に城門は開け放たれていた。
「止まれい!」
城門の手前で、忠利は行列を停止させた。
駕籠を降りて行列の先頭に進むと、先頭の家人から清正公の位牌を受け取った。
何事かと訝る家人たちの視線もよそに、忠利は北西の方角に向けて位牌を高く掲げた。
その方角には清正公を祀る浄池廟があった。そして、位牌を捧げ持つようにしながら、北西の方角に向かって深く頭を垂れた。
その仕草を目にした人々が、「あっ」と一斉に声を上げた。
そのどよめきが治まるのを待つように、忠利はじっと頭を下げ続けた。ようやく辺りが静まり返ったところで、ゆっくりと頭を上げた。
そして次の瞬間、
「清正公!貴殿の城地をお預かり奉る!」
と、まるで咆哮するように大音声を張り上げた。
「おおーっ!」
「なんと!」
沿道の人々から、どっと歓声が湧き上がり、それはしばらく止むことがなかった。
波打つような歓声が響き渡るなかで、忠利は、先頭を進む家人に位牌を手渡すと、行列中央の駕籠に戻った。
「進めい!」
忠利の号令とともに、再び行列が動き始めた。そのまま城門を潜り、天守閣へ向かって行列は進んだ。
だがその時、忠利の心の内に一抹の不安が過ぎっていた。
それは、行列の中央に戻る際に、家人たちの苦虫を潰したような顔つきを目にしたからであった。
−−なにもそこまで謙る必要はなかろう−−
そんな不満を胸の内に抱く家人たちがいることに、忠利は気づいたのだった。それも古参の者ほど、そのような表情を浮かべていたことが殊更気にかかった。
彼らは、忠利の祖父、藤孝が当主の頃から細川家に仕えてくれている者たちだった。
肥後熊本の民の心を掴むことができても、その代わりに古参の家人たちの忠信を失うのでは元も子もない。
−−されど今は、やり遂げるしかないのだ−−
駕籠に揺られながら、忠利は唇を噛み締めた。
既に太陽は西の地平線へ近づき、穏やかな陽射しを肥後の大地へ降り注いでいた。
忠利は、行列を城内で解散させると、自身は天守閣の最上階まで登った。
天守閣の最上階では、城門前と同じように位牌を掲げながら、清正公を祀る浄池廟に向かって遥拝した。
−−やるからには徹底してやらねばならない−−
清正公の治世を受け継ぐという不退転の決意を、細川家の家人たちにも、肥後熊本の民にも示す。忠利の決然たる眼差しには些かの迷いの色も無かった。
初登城から数日後、城内の本丸御殿で執務をしていた忠利のもとに、筆頭家老の松井興長がやってきた。
「如何した、興長?」
目の前で平伏している興長に向かって声をかけると、興長がゆるゆると頭を上げた。
「殿、実は厄介な事が起こりました」
「厄介な事だと?」
思わず忠利は眉をひそめた。
「実は、荘林半十郎のことで……」
「あの半十郎か?」
忠利が苦々(にがにが)しい口調で問い返した。
「さようでございます、あやつのことでございます」
荘林半十郎とは、父、忠興の直参の家人である。この度の肥後入国の際、忠利に付き従ったが、その実は、忠興によって遣わされた、言わば忠利に対する目付役であった。その名を耳にして、忠利は顔を曇らせた。
「申せ」
「はい、半十郎が入国早々に鷹匠の頭に斬りつけ、その者が重傷を負ったとのことでございます」
「なんだと……詳しく申せ、興長」
「はい、仔細はこうでございます」
興長が事の成り行きを話し始めた。
肥後熊本の城下には鷹匠たちが暮らす鷹匠町という町筋があった。
父、忠興は鷹狩りを老いの道楽としており、半十郎は入国早々にその町筋へ立ち寄った。そして、半ば強引に鷹の飼育小屋に押し入って、加藤家伝来の鷹を寄越せと詰め寄った。
鷹匠の頭は拓殖九右衛門という者で、半十郎の申し出を峻拒した。それに激怒した半十郎が抜刀して斬りつけ、九右衛門は命に別状はないものの、重傷を負っているとのことであった。
「なんということを……痴れ者が!」
吐き捨てるように忠利が呟いた。
「半十郎の申し開きでは、清正公の位牌を掲げて登城したことが、細川家への侮りを招いた、とのことでございます」
「何を言う。そんな道理がまかり通るものか」
「しかし半十郎を罰すれば、大殿の逆鱗に触れるかもしれませぬ」
興長の言葉に、忠利は、グッと奥歯を噛み締めた。
父、忠興の気性は知悉している。父は、織田、豊臣、徳川と遷り変ってきた、激しく荒れ狂う波頭のような戦国の世を生き抜いてきたのだ。その苛烈さは修羅の如く、実の息子でさえ決して容赦はしない。
「ここで法を曲げる訳にはいかぬ。今、肥後熊本の民は、私の一挙手一投足に注視しているのだ」
忠利が断固たる調子で言い切った。
「しかし、それでも……」
「ここを過てば、後々(のちのち)きっと禍根を残す」
忠利が、興長の瞳を鋭く見据えた。
「はっ……」
観念したように、興長が忠利に向かって頭を下げた。それから再び顔を上げると、「では、半十郎は?」と問いかけた。
「減俸のうえ、蟄居謹慎を命ずる」
忠利の言葉に、思わず興長が息を呑んだ。
「ですが、そのような厳罰を下したことを知った大殿が何をなされるか……」
「それは覚悟のうえだ。構わぬ」
「ならば承知致しました」
興長が深々と頭を下げた。
「それから、鷹匠の頭の拓殖九右衛門とやらだが、傷の見舞いも兼ねて、直接、私が会いに行きたい」
顔を上げた興長が、「そこまで為されますか?」と、真意を推し量るように忠利の瞳を見据えた。
「細川家の治世においては、家人も民も法の下では変わりないことを示しておかねばならない」
忠利の瞳に強い決意が込められているのを感じて、興長は再び低頭した。
「では、そのように手配致します」
忠利が拓殖九右衛門の屋敷を訪れてから、数日後のことだった。
突然、父、忠興から書状が届いた。
忠興は肥後入国後も熊本城には、ほんのわずか立ち寄っただけで、ずっと八代城に留まっていた。八代城は熊本城から十里以上も南へ離れており、忠興が治める八代は、肥後熊本の中にある別の小国といった存在になっていた。
忠利は、城内の本丸御殿の書斎でその書状を受け取った。
書状の表には〈細川越中守忠利殿〉という宛名が記されていた。その文字は縦横に乱れ、怒りを叩きつけるように書き殴られていた。
それを目にした瞬間、忠利の胸の内に嫌な予感が走り、書状を開く指先が震えた。
父の書状は、初登城の際に隊列の先頭に清正公の位牌を掲げたことを、家名を辱しめるものとして、忠利を激しく糾弾していた。さらには、たわけ、痴れ者といった口汚い言葉で忠利を罵倒していた。
忠利は、ガックリと肩を落とした。
−−これは……いかん……−−
父、忠興の気性は、一旦、怒りに火がつけば容易に治まるものではないことを、忠利は骨身に染みるほど分かっていた。だからこそ、細川家の家督を継いだ後も、頻繁に父へ手紙を送って現状を知らせ、家の大事となる決断の際には必ず意向を伺ってきたのだ。
−−どうやら半十郎や、あやつに与する古参の者たちが父上に告げ口したようだ−−
過酷な処分を下した半十郎に恨まれるのは致し方ない。しかし、古参の家人たちの中には、これまでの忠利のやり方に不満を持つ者が少なくなかった。そのことが、なによりも忠利の心を打ち砕いた。
そのうえ齢七十を迎えた忠興は、いまや細川家にとって扱い難いものとなっていた。その周りに仕える近習たちも、いつ爆発するともしれない忠興の気性に常に怯えている、とも耳にしていた。
忠利は額に皺を寄せながら瞼を閉じた。
−−うーむ……如何したものか……−−
忠利が思案を巡らせていると、「殿、松井殿が火急の用とのことです!」と、息急き切った近習の声が障子戸越しに響いた。
「うむ、通せ」
すると興長が転げるようにして、忠利の書斎へ飛び込んできた。
「とっ……殿……大殿からこれが……」
忠興からの書状を握る興長の手が激しく震えていた。
「うむ、私にも届いた……」
忠利は眉を曇らせながら、興長に目をやった。興長の顔は蒼白だった。
興長宛の父の書状を受け取ると、忠利は、それに目を通した。
忠利に宛てられたものよりも、更に激しい言葉が書き連ねられていた。
筆頭家老として、なぜ忠利を止めなかったのか。
室町幕府の管領の流れを汲む細川家に泥を塗った罪は許し難い。
この忠興自らの手で打ち首にしてやるから、首を洗って待っておれ。
それらの文字は乱れに乱れていた。父の憤怒がそのまま墨汁に染み込んでいるようにも感じられた。
書状を読み終えた忠利は、思わず天を仰いだ。
−−これは容易ならざることとなった−−
瞼を閉じて眉根を寄せながら、「うーむ」と、苦しげに嘆息を漏らした。
荘林半十郎は、忠興の直参で最も信頼の厚かった者の一人だ。だからこそ目付役として忠利の傍らに差し向けられた。その半十郎に対して、忠利は減俸のうえ、蟄居謹慎という厳罰を下した。そのことで、父、忠興は、己自身が侮辱されたと思い込んでいるに違いなかった。
その意趣返しとして、忠利側近の興長の首をはねるというのは、忠興の気性からすれば、十分に有り得ることであった。
興長が、「殿……如何すれば……」と、忠利の横顔を見つめた。
忠利はおもむろに瞼を開くと、縋りつくような眼差しを浮かべている興長に向き直った。
「案ずるな。興長に罪は無い。此度のことは全て私の一存でなしたこと。私が父上と話しをつける」
「話しをつける?それは、どのように?」
忠利は、フッと小さく笑みを漏らした。
「父上は、あのご気性だ。言い訳など、決して聞く耳を持たれまい」
「では、いったい?……」
怪訝な表情で、興長が眉間に深い皺を寄せた。
「細川家の当主の座を降りるまでのことよ。それしかない」
その言葉に慌てた興長が、忠利へにじり寄った。
「お待ちください、殿!それだけはどうか……それだけは……」
興長が畳に額を擦り付けるように平伏した。その声は激しく震えていた。
「私の不徳の致すところだ。自らの罪を償うのであれば致し方ない」
興長が手を伸ばして、忠利の着物の裾を掴んだ。
「どうか、どうか、殿……なにとぞ……」
苦しげに呻くような興長の声は、最後には掠れて言葉にならなかった。
その姿に、思わず忠利は瞳を潤ませた。
「かたじけない、興長。分かった。早まることはすまい」
興長は忠利の着物の裾から手を離すと、畳の上で這いつくばるように深く頭を下げた。
「いずれ父上がここへ参られよう。それまで私は謹慎することとしよう。その間、この肥後の治世は任せたぞ、興長」
「ははっ」
興長が畳の上に額を擦りつけた。
その日を境にして、忠利は熊本城を後にした。
そして、城外の花畑屋敷に移ると、六畳一間の狭苦しい書斎に引き篭もった。ひたすら身を慎むように、人を遠ざけて、その書斎で寝起きを続けた。
そんな国主の動向は、すぐさま国中に広まった。それだけでなく、いつしか忠興の書状の内容まで知らぬ者はないほどになっていた。
挙句の果てには、忠利は下手をすれば切腹、良くても隠居を、忠興から迫られることになる、といった噂まで広がる始末だった。すると、そのような噂に腹を立て、誰が忠興に告げ口したのだと、咎人探しを始める者さえ現れた。
そのような家人たちの動向に、興長は、忠興の怒りを煽りかねないと危惧し、すぐに咎人捜しを止めさせたのだった。
しかし一方で、国入りの際の忠利の所業を責めるような風聞は、いつの間にか古参の家人たちの間から鳴りを潜めていた。
それほどに忠興の怒りの激しさは尋常ではなく、家人たちを震え上がらせていた。
そんな騒動に国中が揺れる間、書斎に篭もり続けた忠利は、自らの気を練るように終日端座していた。そして、書斎の中で一人、静かに瞑目しながら、これまでの父との縁を思い起こしていた。
父、忠興は細川家の二代目の当主であり、忠利はその三男であった。
後継ぎである世子となったのは、齢十五の時で、それは忠利にとって、まさに晴天の霹靂だった。
徳川家の人質として江戸に出された忠利は、徳川家康の嫡男、秀忠に仕えた。
同年の九月に勃発した天下分け目の関ヶ原の合戦に秀忠は間に合わず、合戦から五日後、近江の大津でようやく家康が率いる東軍に追いついた。
関ヶ原の合戦では、父、忠興は、黒田長政らとともに石田三成の本陣に攻め入った。石田家の重臣、島左近を相手にした凄まじい戦いぶりは家康から激賞されていた。
−−父上は……いったい、どのようなお気持ちで戦場に……−−
父は、合戦の前に母の自害の知らせを受け取っていた。
−−戦場での阿修羅の如き戦いぶりは、深い悲しみの裏返しではあるまいか−−
そんな思いが湧き立つのを止められないまま、忠利は父の陣屋に向かった。
瀬田川の川筋の庄屋の屋敷が、忠興の臨時の陣屋となっていた。瀬田川は大阪に入れば淀川と呼ばれる河である。
川縁を歩きながら、ふと水面に目をやると、瀬田川は琵琶湖から流れ込む水を満々(まんまん)と湛えていた。その穏やかな水面は秋空の陽射しを反射しながら、まるで光の粒をまぶしたように輝いていた。
臨時の陣屋に着いた忠利は、屋敷の奥座敷に通され、しばらくの間、そこで忠興を待ち続けた。
板敷きの床に腰を下ろして部屋を見回すと、戸棚には茶碗や小皿が無造作に積み重ねられていた。普段は庄屋の家族が起居する部屋なのであろう。まるで人目を避けるかのように、わざわざ奥座敷へ案内されたことに、忠利は違和感を覚えていた。
半刻ほど経った頃、ようやく忠興が姿を見せた。
反射的に忠利は板敷きに両手を突いて頭を下げた。
「此度の勝利、おめでとうございます」
「うむ……」
低く唸るような忠興の声には険があった。
「光千代……」
「はっ!」
弾かれたように、忠利が顔を上げた。
「玉子が死んだ……」
天下分け目の大戦で華々(はなばな)しい戦果を上げたことなど、まるでよそ事のように、忠興は沈痛な面持ちを浮かべていた。
「はい……大阪で石田治部少輔の兵に屋敷を囲まれ、ご自害なされたと……」
「うむ……」
忠興と忠利は向き合ったまま、しばらくの間、重苦しい沈黙に包まれていた。
「これをお主に……」
忠興が忠利に向かって手を伸ばした。掌の上には緋色の巾着袋が載っていた。それを、忠利は両手で捧げ持つように受け取った。
「玉子の形見じゃ。お前に渡してくれと、玉子に頼まれた」
「母上が……私に……」
動揺を隠せない忠利は、小刻みに震える指先で巾着の口を開けて中を覗いた。そこには、いつも母が身に着けていたロザリオが入っていた。
その時、忠興が、フーッと大きく息を吐いた。
「細川家の世子はお前とする」
「は?」
腑に落ちぬ様子で、忠利は小首を傾げた。
「世子じゃ!二度も言わせるな!」
「はっ」
父の怒声を浴びて、咄嗟に頭を下げたものの、忠利にはさっぱり合点がいかなかった。
忠興はクルリと背を向けると、そのまま奥座敷から立ち去った。
ドンドンと叩きつけるような父の足音が遠くなり、再び奥座敷は静寂に包まれた。
しばらくの間、忠利は身じろぎもせずに、緋色の巾着袋を握り締めていた。
−−世子?……私が後継ぎ?……兄上達はいったいどうなるのだ?−−
忠利には二人の兄がいた。
これまで後継ぎとされていた長男の忠隆、そして次男の興秋。二人とも、弟の忠利からすれば、父に似て勇猛果敢な武者ぶりの兄達だった。
−−いったい何を考えておられるのだ……父上は……−−
父、忠興は、細川家の当主として、明日さえ見通し難い戦国の世を必死に生き抜いている。その父は、息子の忠利にとって常に苛烈で恐ろしい存在だった。その心の内を推し量ることなど、わずか十五歳の忠利には到底できることではなかった。
忠利が徳川家の人質として再び江戸に戻った後、長男の忠隆が廃嫡された。
母が自害した時、忠隆の妻、千世は屋敷を抜け出して難を逃れた。そのことに激怒した父が、忠隆に千世との離縁を迫り、それを忠隆が拒絶したことが廃嫡の理由とされた。
そのことを耳にした忠利は、父は気が触れたのではないか、という思いに駆られた。
−−千世殿を逃したのは母上に違いない。それを分からぬ父上ではあるまいに……−−
それからほどなくして、江戸に次男の興秋が送られるという知らせが届いた。忠利の代わりとして興秋が徳川の人質となるということだった。
−−不条理だ……なぜ、かような事を……興秋兄には何の咎もないはず……−−
そのことを忠興からの書状で知らされた忠利は眉を曇らせた。
二人の兄に対する父の所業に、暗澹たる思いが、ふつふつと湧いてくるのを禁じ得なかった。
忠利の懸念は的中した。
江戸へ向かう道中で興秋は行方を眩まし、そのまま細川家を出奔してしまった。
書斎に端座したまま、忠利は、ゆっくりと瞼を開けた。
−−あの父上のことだ……此度のことで、何をなされるか−−
実の息子の忠利にとってさえ、忠興の所業には予測し難いものがあった。
初登城の際に清正公の位牌を掲げたこと、更には半十郎へ厳罰を下したことに対して、忠興は怒り心頭に達している。
既に齢七十を迎え、老人特有の頑迷さに、持ち前の気性の激しさが輪をかけて、今の忠興は何を言い出すか分からなかった。強引に忠利へ隠居を迫り、忠利の嫡男、光尚に家督を譲らせるぐらいは躊躇しないだろう。
事の次第によっては、忠利に切腹を命じることさえ有り得えるように思えた。
−−どのような命が父から下されようとも、従容としてそれを受けるしかない……私の指図に従ってくれた興長をはじめ、家老たちに累を及ぼすわけにはいかないのだ−−
忠利の胸の内には、いつしかそのような覚悟が定まっていた。
睦月の半ばを過ぎて、遂に忠興が熊本城下へ入った。
その行列の先頭には、細川家の家紋である九曜の紋を染めた旗印を掲げていた。
沿道の人々は、国主さえ謹慎させる忠興に恐れおののいて、粛として声を漏らす者もなかった。
忠興は、あえて登城はせずに城下の家老の屋敷に客人として留まり続けた。
その不気味な沈黙に怖気立ちながら、忠興の動向を国中が固唾を呑んで見守っていた。
そのまま三日が過ぎ、四日目の正午を過ぎたところで、忠興のもとから忠利に向けて使者が発せられた。
「父上はなんと?」
使者の役目を負った忠興の近習に、忠利が障子戸越しに問いかけた。
書斎の障子戸を挟んで、忠興の近習が板張りに膝を突きながら頭を垂れた。
「はっ。一刻の後、大殿が花畑屋敷に参られる、とのことにございます」
「そうか、承知した」
すぐに忠利は身支度を始め、胸元に家紋を染め抜いた平服に袖を通した。
−−父上は、九曜の紋の旗印を掲げながら、城下へ参られたか−−
細川家の家紋である九曜は、織田信長公から賜ったものだと、事ある毎に父、忠興から聞かされていた。
−−父上は、細川家の存続に心血を注いでこられた。その誇りに、実の息子から泥を塗られたことが堪えられぬのであろうな−−
ふと胸元の九曜の紋に目を落とした。その紋様は、中央に大きな円、それを囲むように八つの小さな円が描かれている。それぞれの円が天空に輝く星々(ほしぼし)を象徴していた。
−−信長公か……本能寺の変は、私が生まれる四年前だ……明智光秀殿の娘であった母を、父は幽閉したのだったな−−
父、忠興は、光秀が秀吉に討たれ、天下が定まった後も、母を離縁することは決してしなかった。
だからこそ、忠利はこの世に生を受けたのだった。
−−父上は、母上をよほど愛しんでおられたのだろう−−
身支度を整えた忠利は、およそ一月ぶりに書斎を出ると、父との対面を前にして、重い足取りで縁側の板敷きを進んだ。縁側の中ほどで立ち止まると、屋敷に併設されている広大な庭に目をやった。
花畑屋敷は、清正公が城外に作事した豪壮な御殿である。
熊本城の内堀となっている坪井川の南岸にあり、広大な庭園には種々の花木や草花が植えられている。そのため、いつの頃からか、花畑屋敷と呼ばれるようになっていた。
年初めの寒の厳しい季節で、目に映る草木も皆、凍えているように思えた。それでも来るべき春に備えて、寒風に耐えている草木たちの健気な姿に凛とした気高さを感じた。
フーッと吐き出した息が瞬く間に白く変わった。肌に刺し込むような寒さも、覚悟が定まった今は、むしろ心地良いほどだった。
忠利は、花畑屋敷の大広間に向かって強く足を踏み出した。
大広間の畳敷きの中央で、忠利は、ただ一人、ぽつねんと端座していた。瞼を閉じて瞑目しながら、父、忠興の到着を待ち続けた。
大広間は物音一つせず、引き絞った弓のように張り詰めた静寂に満ちていた。
すると不意を討つように、突然、忠興が上座に現れた。
忠利は、己の心の揺れを抑えるようにグッと奥歯を噛み締めながら、忠興に向かって平伏した。
「顔を上げよ、忠利!」
間髪を入れず、忠興が咆えるように命じた。
「はっ」
緩やかに頭を上げると、忠興の横には近習が控えており、その手には太刀を捧げ持っていた。事の次第によっては、容赦なく切り捨てるという忠興の意思を示していた。
「早う入れ!」
忠興が声を荒げると、左右の障子戸が一斉に開き、家老たちが大広間に入ってきた。
上座に忠興、広間の中央に忠利、忠利の左右に居並ぶように家老たちが腰を下ろした。
家老たちの顔は血の気を失って蒼白になっていた。
−−父上はいったい如何なる所存で、このような……−−
思いも寄らぬことに忠利の心中は波濤のように激しく揺れていた。
「驚いたか、忠利。家老たちはこの場の証人じゃ。もはや嘘、偽りは通らぬぞ」
忠興が毒を含んだような薄笑いを浮かべた。
「私は、偽りなど申しませぬ!」
思わず語気を強めながら、忠利は上目遣いで忠興を見据えた。
その瞬間、忠興の顔が鬼のような形相に変わった。目尻を吊り上げながら、唇をわなわなと震わせている。
「よっ……よくぞ申した。では聞くが、お前の初登城、あれは何事じゃ。当主のお前が細川家を愚弄してなんとする!」
血走った眼で、忠興が雷鳴のような怒声を発した。
左右に居並ぶ家老たちが、思わず畳に両手を突いて平伏した。肩を震わせている者までいた。
忠利は、口の中に溜まった唾を、ゴクリと喉を鳴らしながら飲み込んだ。
目の前に座している父の表情は、まるで気が触れた狂人のようにしか見えなかった。その瞳はどろりと濁り、生命の光がまるで感じられない。
−−父上は……ここまで老いたのか……−−
忠利は愕然としていた。
しかし、細川家の当主であり、肥後熊本の国主である己が、ここでたじろぐ訳にはいかなかった。
忠利は畳の上に両手の掌を当てると、勢いよく頭を下げた。
「どうか、お聞きください、父上」
「なんじゃ!言うてみい!」
忠興の声は狂乱したように上擦っていた。
「なにとぞ、なにとぞ、お気を沈めてくださりませ、父上」
「早う言え!忠利!」
「では、申し上げます!」
忠利は低頭したまま、忠興に向かって必死に食い下がるように言い立てた。
「初登城の前日の夜、私は思案に暮れておりました」
「うむ」
忠興が微かに頷いた。
「それまでに目にした沿道の民の面持ちは一様に暗く沈んでおりました」
忠興は黙り込んだまま、血走った瞳で忠利を見据えていた。
「細川家の今後の治世に不安が過ぎっていたところ、ふと母上のことが心に蘇ったのです」
忠利が口にした〈母上〉という言葉に、忠興が大きく瞳を見開いた。
「私が最期に母上と対面した折、母上はこのように申されたのです」
左右に居並んでいた家老たちが、忠利のほうに目をやった。
「父上と清正殿は、よく似ておられると」
忠興の頬がピクリと引きつった。
「二人ともに、真っ直ぐなご気性で、剛直さは比類ない。それでありながら、深い知恵も持ち合わせている」
忠利の言葉に驚いたように、家老たちが互いに目配せを交わしていた。
「そのように母上は仰っておられたのです。母上は、私が清正殿の治世の跡を継ぐことになるのを見通しておられたのです」
忠興が唇を噛み締めた。その頬が激しく痙攣している。
「だからこそ、私は母上の言葉に従って、清正殿の治世の跡を継ぐために、位牌を掲げて登城したのでございます」
そこまで言い切ってしまうと、忠利は額が畳に触れるほどに深く頭を垂れた。
しばらくの間、大広間には、フーッ、フーッという、忠興の激しい息遣いだけが響いていた。
「忠利……」
「はっ」
「忠利よ……」
「はっ……」
忠利は身を固くしながら、額を畳に擦りつけていた。
段上がりの上座に腰を下ろしていた忠興が立ち上がった。
「よくも、そんな虚言を!玉子の名を出せば、儂が許すとでも思うたか!」
忠興は、忠利に向かって人差し指を伸ばしていた。その指先が、ユラユラと不安定に揺れている。
「まことでございます。断じて虚言などではございませぬ!」
忠利が平伏したまま、咆えるように抗弁した。
「もう許せん……よりにも寄って、玉子の名を騙るなど、勘弁ならん……」
忠興がよろめきながら、横に控える近習へ近寄った。
「太刀を渡せい!」
忠興は、太刀の鞘を鷲掴みにすると、上座から足を踏み出した。定まらない足取りのまま、太刀の柄を右手で握ると、左手で鞘を払って畳の上に放り投げた。
その瞬間、弾かれたように、左右に居並んでいた家老たちが一斉に立ち上がった。
「大殿、なりませぬ!」
「お止めください、大殿!」
「どうか、どうか!」
「殿お一人の咎ではございません!」
広間の中央で平伏している忠利を庇うように、忠興の前に家老たちが立ち塞がった。その列の中央に筆頭家老の松井興長がいた。
「うぬらは!揃いも揃って!」
右手で太刀の柄を握り締めながら、忠興が声を震わせていた。
「殿をお切りになるのなら、まず私どもをお切りください。一人残らず、存分になされませ」
決然と眉を上げながら、松井興長が言い放った。
興長の言葉に、平伏したまま身を固くしている忠利の瞳が潤んだ。
−−皆……済まない……−−
しばらくの間、忠興と家老たちは無言のまま睨み合っていた。
忠興は、額に幾筋もの血管を浮き上がらせながら、目の前の家老達に向かって、錐を揉み込むような鋭い視線を向けていた。
すると突然、忠興がクルリと背を向けた。
「おい、太刀を片付けよ!」
苦々(にがにが)しげに忠興が近習に命じた。
矢のような素早さで、近習は忠興から太刀を受け取ると、鞘に収めて、そのまま広間から逃げるように退散した。
忠興は上座に戻ると、ドンと音を立てながら腰を下ろした。
その様子を見てとると、家老たちも左右に散って座り直した。
その間も、広間の中央で忠利は這いつくばるように平伏していた。
「ふん!」
忠興が、不快そうに鼻を鳴らした。
そして、目の前で畳に張り付くように頭を下げている忠利を、トロリとした瞳で見据えた。
「人払いを……」
忠興の低い呟きに、家老たちが顔を見合わせた。
「聞こえんのか!人払いじゃ!さっさと立ち去れ!」
「しかし……」
松井興長が頭を下げたまま、上目遣いで忠興の顔に目をやった。
「案ずるな、興長。もはや太刀もない。此度のことは、これで終わりじゃ。この後は単なる親子の閑談にすぎん」
「はて、そう言われましても……」
忠興の瞳の奥を窺うように、興長が首を傾げた。
「疑い深い筆頭家老じゃのう。国入りのことは不問とする。これで良いであろう。お前たち、家老全員が証人じゃ」
「はっ!」
一斉に家老たちが低頭した。
「久しぶりに玉子の名を聞いたのだ。これから先は息子と二人にしてくれい。頼む」
忠興が柔らかな笑みを浮かべた。
その微笑に得心したように、家老たちは広間から出ていった。
しばらくの間、忠興は遠ざかっていく家老達の足音に耳を澄ませていた。
そして、その足音が完全に消えたところで、フーッと大きく息を吐いた。
「忠利……儂を見ろ」
不意に投げかけられた声に、忠利は恐るおそる顔を上げた。
そこには忠利をじっと見つめている忠興の顔があった。その瞳は、雲一つない秋空のように澄み渡っていた。先ほどまでの、狂人のごとく悩乱していた表情とは一変している。
「清正殿の位牌を掲げて城入りするとは、思いも寄らなんだ……見事じゃ……」
「えっ!」
全く予想もしなかった言葉に、忠利は反り返るように上体を起こした。
「これで肥後熊本の治世は、まず揺らぐまい。だがのう、鮮やか過ぎる手際は、かえって危ういこともあるのじゃ……」
忠利は息を凝らすようにして、忠興の瞳を見つめていた。
「古参の家人たちのなかには面白くないと思う者が現れる。なぜ我らが清正に頭を下げなければならぬのか、とな」
「はっ」
「現に儂のところに、そのように話しが伝わった。これは一大事と思うたよ」
「はい……」
「此度のことは許してくれ、忠利。だがな、こうまでせねば、細川家はいずれ割れることになった。古参と地侍がぶつかりおうてな」
「父上はそこまで見通して……」
「老人の知恵というものよ。あの頼りない家老たちの心も、やっとこれで一つに定まった。今後は命がけでお前を盛り立ててくれることだろう」
「父上……」
「儂は、お前の目の上の瘤でなければならない。家人はもちろん、肥後の民の鬱屈や不満の掃き溜めとしてな」
「……」
「これからもよろしく頼むぞ、国主殿。目の上の瘤は邪魔ではあろうがな」
忠利は思わず瞳を潤ませた。
「どのような治世にも、悪しきことは付き物なのじゃ。その悪しきことの捌け口がどこかに要る。それが儂の役目じゃよ」
忠利は額を畳に擦りつけるように頭を垂れた。
「かたじけのうございます……父上……」
忠興が、フッと小さく笑みを漏らした。
「礼を言うなら、玉子に申せ」
忠利は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、訝しげに眉根を寄せながら、
「母上に?……」
と、小さな声で呟いた。
「最期の別れ際に玉子は儂に言った……細川家の主人となるべき者にバテレンの洗礼を授けた、とな。そして、形見を渡すようにと、儂に託したのじゃ」
その言葉に、忠利は全身の血が逆流するような感覚を覚えた。
「その主人のために、悪しきものは全て儂が引き受けよ。そう言い残したのだ、玉子は」
忠利の唇が小刻みに震えていた。
「玉子は、儂には過ぎたる妻であった……玉子の言葉は、儂にとって天の導きそのものだった……」
忠興は、遥か彼方を見やるような遠い眼差しを浮かべた。
「ちりぬべき……とき知りてこそ……世の中の……花も花なれ……人も人なれ……」
まるで囁くように忠興が口ずさんだのは、母、玉子の辞世の句だった。
母はまさしく、この世に生きる人の運命というものを見通していたに違いない。
驚きのあまり言葉もなく、忠利は瞳を滲ませながら肩を震わせていた。
−−母上は……そのようなことを……父上に言い残して……−−
思わず忠利は畳の上に突っ伏した。
次から次へと溢れ出る涙が畳を濡らした。
花の如く散っていった母が遺してくれたもの。それは形見のロザリオと、とこしえの慈愛であった。
いつしか忠利は、「うっ、うっ」と、激しい嗚咽を漏らしていた。
そんな忠利の姿を、忠興は穏やかな瞳でじっと見つめていた。
忠興と別れて大広間を辞すると、忠利は縁側の板敷きで足を止めた。
既に夕方となり、太陽は地平線に懸かっていた。広大な庭園が夕日に照らされて赤く染まっていた。
ふと顔を上げると、夕焼けに赤く染まった空に満月が浮かんでいた。
最期に母と対面した夕暮れにも、空に満月が輝いていたことを思い出した。
忠利は、胸元から緋色の巾着袋を取り出すと、それを両手で包むようにしながら、月に向かって合掌した。その巾着袋の中には、母の形見のロザリオが納められている。
「母上……」
忠利は喘ぐように呟きながら、月に向かって頭を垂れた。
一番星の瞬きを消し去るほどに、煌々(こうこう)と輝いている満月は、忠利を優しく包み込むように柔らかな光明を放ち続けていた。
これより後、忠利は肥後熊本の国主を九年務め、五十六歳で没した。
そして、肥後熊本における細川家の治世は明治維新を迎えるまで続いた。