鵜飼くんのうっかりグルメ 第1食:美味しい紅茶を飲んでみたい
1
そういえば、と、どうでもいいことに気づいてしまった。
俺は本当に美味しい紅茶って、今まで飲んだことがあっただろうか。
普段は自販機でもコンビニでもコーヒーを飲む。ブラックでもカフェオレでも何でもいい。要はコーヒーの風味そのものが好きなのだ。
もちろん紅茶は何度か飲んだことがある。でもあの枯れ葉食ってるような味にどうしても馴染めなくて、世の中ににたくさん販売されている紅茶系の飲料は避けて生きてきた。
でもふと思ったのだ。これってすごくもったいないことをしてるんじゃないか。
子供の頃飲んだ粗悪品だけで口に合わないと決めつけてしまい、世界中で親しまれているおいしい飲み物の本気を知らずに二十六年間生きてきたんじゃないかって。
隣のデスクを見ると、一年後輩の女子社員、浅井陽菜がちょうど『午後の紅茶』の小さいペットボトルを置いていた。
「浅井さん」
「はい?」
俺はペットボトルを指さして聞いた。
「紅茶って、うまい?」
浅井さんは社内でもベスト3に入る整った小顔を傾け、ペットボトルを見た。
「うまいも何も、好みはそれぞれだと思いますけど」
「うん、それはそうなんだけどね」
「鵜飼さんは、コーヒーばっかり飲んでるじゃないですか」
「コーヒー好きだから」
「じゃ、それでいいんじゃないですか」
「それもそうなんだけどさ。何ていうか……俺の知らないどこかに、コーヒー好きの価値観をひっくり返すほどのすごくうまい紅茶があって、それを俺だけが知らないんじゃないかと、ふと思ったりしたんだよ」
「仕事中にそんなこと考えてたんですか?」
浅井さんは可愛いけど性格はキツい。愛想もない。すでにこちらに顔すら向けていない。
「……ごめん、邪魔した」
帰ってから、ネットで調べてみるか。通販で取り寄せる手もあるし。
2
今日は定時で帰れそうだ。運がいい。
帰ってさっそく紅茶のリサーチするか。ついでにオシャレなカップも買ったりして。
「鵜飼さん」
席を立ちかけた時、浅井さんが俺を呼び止めた。
「ん?」
残業手伝ってくれとか言わないでくれよ、面倒くさい。
「さっきの話ですけど」
「え……何。何か話したっけ?」
浅井さんは少しだけ眉間にシワを寄せて、スマホの画面を俺に見せた。
俺でも知ってる有名百貨店のツイッターだ。
「ちょうどここで期間限定のヘンリーズショップがやってるんです」
「ハイロウズ?」
「ヘンリーズです!イギリスの有名な百貨店ですよ。知らないんですか?」
「知らんよ。イギリス行ったことないし」
一つため息をついて、浅井さんは言った。
「ヘンリーズっていうのは百貨店なんですけど、創業者が紅茶好きだったので、それ自体がブランドになるほどのおいしい紅茶を揃えている店なんです」
「へー」
知らなかった。変わった創業者だ。
「それで、ここは昔からヘンリーズと提携してて、店内で輸入した服を売ったり紅茶が飲める喫茶店を開いてたりしたんですけど」
「おお、じゃその百貨店に店があるの?」
浅井さんは首を振った。
「数年前に撤退してしまって、お店も閉店しました」
「なんだよ、それ」
閉店したお店の話を呼び止めてまでする女。意味わからん。
ん?いや待て。
「でも今、期間限定って」
「そうなんです」
浅井さんの声に力が入る。
「その紅茶を飲める喫茶店が、期間限定で今やってるんですよ」
「おお、マジか!」
通販で買おうと思えば買える。しかし一つ問題がある。
俺はうまい紅茶の淹れ方を知らない。せっかく高価で良質の茶葉を買っても、素人が見様見真似でヘタクソな淹れ方したら台無しになるんじゃないかと心配していたところだ。
しかしプロの人なら(コーヒーでいうバリスタみたいな人を紅茶では何ていうのか知らないが)、茶葉の持つポテンシャルを思う存分引き出してくれることだろう。
「ありがとう。早速行ってくるよ」
「……」
「何?」
浅井さんが何か言いたげに俺を見つめる。
「……別に何でもありません。楽しんできてください」
さっきまでのハイテンションはどこかへ消えてしまい、浅井さんはいつもの顔に戻ってしまった。
「そのつもりだが。じゃ、お疲れさま」
紅茶好きだから、今から行ける俺がうらやましかったのだろう。
3
期間限定の店は百貨店の10F、イベントコーナーに設営されていた。思ったより人が多い。紅茶だけではなくロゴ入りの様々なグッズが売っていて、レジにも行列ができている。
ティーサロンの客は平日の夕方だから少ないかと思っていたけど、甘かった。めちゃくちゃ長くはないけど、ここも行列だ。30分くらい並んでダメだったら出直そう。期間はまだ一週間ある。
その間にヘンリーズについてスマホで調べてみると、創業者はなかなかすごい人だったことがわかった。
小さな服屋から初めて雑貨に手を広げ、万博に合わせて店を出して繁盛させたり、作家や俳優などの著名人を顧客にして宣伝したり、かなりのやり手だ。
途中火事にあったりしてそれなりに苦労もしたようだけど、さまざまなアイディアで乗り切っている。伝記があったらさぞ面白かろう。
ちなみに世界で初めて百貨店内にエスカレーター(の原型)を設置したのもこの人らしい。
そして今いるこの百貨店がヘンリーズと提携していたのも、そもそも創業者がヘンリーズをお手本にして百貨店を作ったからという縁だ。
しかし撤退したということは、百貨店という業態が時代に合わなくなって採算が取れなくなってきたわけであり、それは日本だけではなく世界共通の現象なのだな、と思う。確かに自分も服を買うためにわざわざ百貨店までは来ない。ショッピングモールのテナントで十分だ。
子供のいる家庭も、駅まで子供を連れてくるより郊外のモールにワンボックスで出かけた方が楽だろう。独身だからただの推測だが。
「お次の方、おひとりさまですか?」
「え?あ、はい。一人です」
いつのまにか列が進んでいたようで、背の高い、30代後半といった感じのウェイターが声をかけてきた。イケメンというほどではないが品のいい人だ。
通された席に座ってまわりを見渡す。
それほど広くもないスペースに十席ほどあり、若い女、カップル、女同士、おばさん同士。男一人は俺しかいない。
薄いグリーンのテーブルクロスの上には紙ナプキン入れ以外何も乗っていない。さっぱりして好感が持てる。さすがに100円入れて星占いするマシンがあるはずもないか。
周りの客はみな思い思いにおしゃべりを楽しんでいる。そもそも本場イギリスのティータイムって、ちっちゃいビスケットでもつまみながら紅茶を飲んでおしゃべりするものなのだから、これが本来の楽しみ方なのかもしれない。
じゃあ話し相手もおらず、男一人で紅茶だけ飲みに来るヤツなんてよっぽど変人なのだろうか。
今のところは「あらあら一人で、ウフフ」みたいな話し声も視線も感じない。大丈夫だと信じよう。
「いらっしゃいませ。メニューでございます」
さっき案内してくれたウェイターがうやうやしく水とメニューを渡してくれた。所作の一つ一つも優雅で絵になる。
こういう細部も店の価値になるんだ、きっと。
さて、とメニューに目を落とす。
実はあらかじめ、あったら頼みたいというメニューは決めていた。
アップルティーである。
大した理由じゃない。一度ファミレスのドリンクバーで気まぐれに紅茶を淹れてみた時に、選んだのがアップルテイーだったのだ。
その時はたいしてうまいものじゃないと思ったけど、ここで飲んでみればきちんと本場の良質なものと比較できる。
本場の紅茶を味わうだけなら、看板商品である"オリジナルブレンドNo14"でもいいんだけど。一番安いし。
でもフレーバーがついてれば、やっぱり紅茶は口に合わないなーと思っても、香りの勢いで飲み残しせず店を出られる……という後ろ向きの理由もあるのだ。
そのフレーバーのついていないノーマルな紅茶が780円。絶妙な価格。普段の食生活では考えられないが、わざわざ店まで来たら払える金額。
そして目当てのアップルフレーバーティーは950円。フレーバー、結構高いな。他にはローズフレーバー、オレンジ、フレッシュフルーツ、ロイヤルミルクティーからマテ茶ブレンドまである。
結構幅広くアレンジが効くもんだ。値段は微妙に上下してるけど、根拠はわからない。アイスティーは100円高いけど、氷の分か、冷やす手間賃か。
さらにケーキやスコーンをつけると最低でも1400円から。ちなみにスコーンと聞いて「何でこんないい店にコンビニで買えるスナック菓子があるのか」と思ったのは内緒だ。アレね、ビスケットのぶ厚いヤツね。食べたことないけど、きっと固いよアレ。
とりあえず財布と相談して、ケーキや湖池屋じゃない方のスコーンは見送り。アップルフレーバーティー単品に決めた。
「あ、すいま……ゲフゲフッ……」
タイミングを逃して咳払いでごまかしていると、ウェイターが気をきかせて早歩きで来てくれた。やはりこの人は仕事ができる。
「ご注文よろしいですか?」
「あ、はい。えー、アップルティ、アップルフレーバーティーを一つ」
「アップルティーですね。かしこまりました」
わざわざ正式名称に言い直して、しかもそれがムダだったようだ。俺の人生はいつもこうなんだ。
4
「お待たせいたしました。アップルティーでございます」
10分ほど待って、ウェイターがアップルティーを持ってきた。
「……はい」
空のカップと、銀のポットを手にして。
なぜこんな面倒なことをするのか。させるのか。カップにアップルティーをついで、そのまま持ってきてくれればいいじゃないか。何なんだよ、一体。
あれか、高いレストランのカレーはルーだけ魔法のランプみたいな容器に別で持ってくるあのノリか?ああいうの苦手なんだよ、俺。
何で客なのに労働しなきゃいけないんだって、理不尽な気持ちになるんだ。
手際よくテーブル上にカップとポットを置いていく様子を固まった顔で見ていると、ウェイターが「おつぎしましょうか?」と声をかけてきた。
「はい、お願いします」
良かった。カップへのつぎ方で味が変わるわけもないだろうけど、極力自分の手数は減らしたい。面倒くさいし、せっかくめったに来ない店に来たのだから、プロにやってもらいたい。
カップにアップルティーがつがれて、ポットがテーブル上に戻る。
……ん?
ポットに紅茶が余っている。俺は一人分を頼んだはずだ。なのにポットにはもう一人分くらい入っている。どういうことだ。
まさか「一人分つぎ終わったら、他のテーブルに回してください」などというわけでもなかろう。そんな高級店聞いたことない。お好み焼き屋でマヨネーズ回すんじゃないんだから。
するとウェイターはまたしても俺の心を読んだように、
「こちら一人前二杯分になっております」
と言った。
「あ、そうなんですか。どうりで多いと」
ウェイターは俺をバカにする顔をするでもなく、ただ穏やかに微笑み、
「ごゆっくりお楽しみください」
とだけ言って去っていった。
やだかっこいい。
5
待望の本場の紅茶だ。水を一口飲んで口内をリセットする。別に何も食べてないけど、気分の問題だ。
まずは砂糖も何も入れずに一口。
「……おお」
思わず感嘆がもれる。
確かに紅茶の味だ。でも今まで飲んだどの紅茶よりも、スッキリとしていやなにおいがしない。あの枯れ葉くさいにおいが無い。
これが本物の紅茶か。でもアップルティーを頼んだはずなのに、あんまりリンゴの香りがしない。ちゃんと入ってるのかな。
もう一口飲んでみる。口の中でじっくりと味わう。よくよく味わうと、かすかにリンゴの香りがただよってくる気もする。
つまりアレだ。俺みたいな素人は高級な店のフレーバーティーイコール香りが強いはず、なんて思っていたが、本場はもっと繊細なんだ。
わかりやすいフレーバーは大衆向け。これが本物なのだ。
やっぱり本場はちがうな。
あっというまに一杯飲んでしまった。うまい。欲を言えばもっとはっきりとしたリンゴの香りを楽しみたかったけど、これが本場なのだから仕方がない。
もう一杯をつごうとポットに手をかけると、
「お客様」
とウェイターが声をかけてきた。ポットに手をかけたまま固まる。
何だ、俺が何をした。礼儀作法が何か間違っていたのか?ポットの持ち方がおかしかったとか?本場イギリスはそこまで細かいのか?
「は、はい」
ウェイターはなぜか俺のテーブルの前にしゃがみこみ、声をひそめて言った。
「申し訳ありません。さきほどお出ししたお茶なんですが」
「はい」
「アップルティーをご注文いただいたのですが、間違えてマテ茶ブレンドを出してしまいまして」
「……え、マ、マテ茶?」
「はい。改めてアップルティーをお持ちしますので、しばらくお待ち下さい。こちらのお茶はそのまま召し上がっていただいて結構ですので」
「はあ、わかりました」
ウェイターがさっそうと帰っていく。
俺は残りをカップにつぎ、改めて香りをかいだ。
マテ茶ブレンド。どうりで後味スッキリだと思った。リンゴの香りも一切しないし。
するわけないな。だってリンゴ入ってないんだもん。
しばらくして、ウェイターがすまなそうな顔で再びカップとポットを持ってきた。
すでにリンゴのいい香りがただよってくる。間違いなくアップルティーだ。
「大変申し訳ありませんでした。こちらがアップルティーでございます」
「ああ、いえ、はい」
考えようによっては一品の料金で二品飲めたのだから、得したとも言える。マテ茶ブレンドもスッキリしてうまかったし。
今度は一杯目から自分でついで、香りを確認しながら一口飲んでみた。
「……うまっ」
こんなにリンゴの香りが濃いアップルティーがこの世にあったのか。干したリンゴ片を茶葉と一緒に淹れたのだろうか。ただの香りづけではない。
リンゴそのものの香りだ。ファミレスのドリンクバーで飲んだアップルティーとは全然ちがう。あれはリンゴっぽい香料を振りかけただけだ。
これが本物のアップルティーなのだ。
紅茶四杯でお腹がガボガボになりながら、俺は思った。
やっぱり本場はちがうな。
6
翌朝、出社した俺は、先に席についていた浅井さんに小さな紙袋を渡した。
「おはよう。これ、お土産」
「おはようございます。何ですか、お土産って」
言いながら、浅井さんは紙袋を開けた。顔がパッと明るくなる。
「ヘンリーズじゃないですか。本当に行ってきたんですね」
「うん、うまかったよ。情報教えてくれたお礼」
「これ定番のNo14ですけど、鵜飼さんは何飲んできたんですか?」
「マテ……」
「マテ?」
「いや、アップルティーを飲んできた」
「そうなんですか。コーヒー派の価値観変わりました?」
「うん、うまかったよ。紅茶へのイメージが変わった」
「よかったじゃないですか。これお昼にいただきますね。ありがとうございました」
「うん……ふわぁ」
思わずあくびをかみ殺すと、浅井さんが俺の顔をじっと見た。
「鵜飼さん、目の下クマできてますよ」
「ん?ああ。ちょっとね、寝不足で」
夕方に紅茶四杯飲んだ結果、カフェインの摂取量が尋常ではない量になっていたようで。
昨晩の睡眠時間は二時間だ。
「大丈夫ですか?午前中会議ですけど」
「げ、そうだった」
俺はカバンをデスクに置くと、社内の自販機に走った。
やっぱ眠気覚ましはコーヒーだよな。
おわり
ほぼ実話です