第二話 自堕落は幸福の一歩手前かもしれない
はたしてーー
はたして太鼓の達人を太鼓のバチではなく、ドラムスティックでプレイするというのは、その文化や伝統上ありなのだろうかと、妙義アリサはぼーっと考えていた。もはやそれは別のゲームでは?
気の強そうな眉にはっきりとした目鼻立ち。人目を引くのは透明感のある長くてまっすぐな金色ブロンドの髪の毛。
そこは空港の入国ロビーを出てすぐの、バスターミナルに付随している待合室を兼ねたゲームセンターだった。正確に言えば、ちょうど外界と内界を分ける二つの自動ドアに挟まれたデッドスペースに備え付けられたソファ。誰かが出入りするたびに、外の気だるい空気と中の爽やかなクーラーの風が入り混じったり、うるさいピコピコ音が騒いだり大人しくなったりする。ただ中々に規模が小さいので、利用している客のほとんどは貴重なお盆休みを家族サービスにおわれて疲れ切った父親と、そんなこと知る由もなくその腕を引っ張って嬌声をあげる子供たちばかりだった。
アリサは冷をとろうと、黒い炭酸飲料が入ったペットボトルを首筋にあてる。どうでもいいけど日本の夏の暑さにもビックリしたが、自動販売機が喋ったことのほうがもっとビックリした。つい敬語で返してしまった。
幼いころに暮らしていた日本のイメージとは精神的にも背の高さ的にも見えてくるものが違って、どうにもノスタルジックな感傷には浸れそうにない。
「アリサ姉ちゃんばっかり真彦兄ちゃんと話してずるい!」とすぐ横、赤毛の少女が待ちくたびれたようにアリサの肘を引っ張った。
年の頃は十二、三と言ったところか。右手にはセブンティーンアイスの自販機で買ったチョコミントのアイス棒。少女は口の周りを薄緑色に染めながら「ヒバチもおしゃべりするー!」と快活そうな声でそう宣言すると、その小さな体躯で頑張ってアリサの持つスマートフォンに手をかけようとした。
アリサもアリサで、手持無沙汰なのかペットボトルをプシュッと鳴らすと、一口あおって「遠くで宇佐神教官の声がしたけど‥‥‥」と返すばかりで相手にしない。ついでに左手にもっているスマートフォンをその赤毛の少女から守るように遠ざける。というか口元を近づけないで。
すると逆側から恐る恐る手が上がった。
そこには赤毛の少女とまったく瓜二つの顔立ち。
「あ、あの‥‥‥」
今度は柔らかい細々とした声。アリサの許可を取るようにウルっとした瞳を上目遣いで見つめている。目尻がおっとりと下がって小動物のようだ。
「どうしたの? ヒバリナちゃん」思わずキュンとしてしまいそうになるのを堪えて振り向いた。
「おそらくなのですが‥‥‥電話の向こうからヘリコプターの羽の音が」
「ヘリの音?」とアリサは首を傾げる。まったく気づかなかったけれど。
「プロペラ三枚の特徴的な羽音と二つの重なり合いからしてチヌークで間違いありません」
おそらくと言ったり間違いありませんと言ったり忙しい奴だった。
「えっと‥‥‥ヒバリナちゃんは聞こえてたの?」
アリサはまだ状況が読み込めずに問いかけると、目の前の少女は唇を線にしてコクリと頷く。
今度はまた反対側の少女に視線を戻す。
「ヒバチは何か聞こえてた?」
呼ばれたもう一人の少女は「ぜんぜーん」と首を横に振る。その都度揺れる頭の尻尾。ポニーというよりは仔犬みたいな短い尻尾だ。そして、ヒバリナ姉ちゃんすげーと目を輝かせると、アリサの太腿に仰向けで覆いかぶさって足をパタパタさせた。
褒められた本人ーーヒバリナは照れたように、えへへと柔和に微笑む。恐ろしいほどの地獄耳だった。
ヒバチとヒバリナーー姉妹二人とも、プールの塩素で茶色に脱色しちゃったでは言い訳ができないほど、もはや赤みがかった肩まで伸びた流麗な髪の毛。お揃いの夏らしい白いワンピースから延びるは、まだやけることを知らない透けるような白い肌。
ヒバチは白玉のポンポンのついたゴムで髪を左サイドにちょこんとまとめ、ヒバリナの方はというと逆サイドにこれまた白いレースのリボンが丁寧に結われている。性格が正反対のせいか、仕草や目つきの機微を注意深く見ればなんとなく区別はつくが、一般人からしたら髪型の違い以外で見分けを付けるのは困難だろう。
ヒバリナが肩から下げている星形のポシェットから取り出すのはポケットティッシュ。中身を数枚抜き取ると慣れた手つきでヒバチの口元をゴシゴシと拭った。ヒバチが「よくできました」と言ってニカっと破顔すると、ヒバリナは「どういたしまして」とニッコリ返すのだ。
一見和やかなやりとりなんだけどなぁ、とアリサは仲の良さそうな二人を見下ろす。
入国したばかりだからまだ銃器の類はないけれど、ヒバチの腰あたりに仕掛けてあるプラスチックナイフがアリサの太腿にのしかかるようにあたって地味に痛い。ヒバリナのポシェットをつなぐ紐についた金具はよく見るとカミソリだ。
これさえ無ければ--と何度思ったことか。
「チヌークってことは少佐の?」
「とは限りませんが」
真彦たちが先に現地入りしていることは聞いている。次の任務のためにすぐに追いつかなければいけないのだけど、果たしてこの子達を一緒に連れて行ってもいいものか。
「あなたたち、久しぶりに日本に戻ってきたんだから行きたいところとかないの?」
微量に残っている正義感がそんな質問をさせた。
「アリサ姉ちゃん、バカンスで来たんじゃないんだからさぁ。お仕事だよ、お仕事ぉ」
理解してないのではないかと勘ぐってしまうほど気楽な返事。
「今更ですよアリサさん」ヒバリナが微笑みながら続ける。「私たちの任務はアリサさんを守ることです。それ以外は私たちには関係のないことなのです。そこに真彦さんがいるならなおさらです」
その瞳の奥に潜む思惑は読み取れない。
「そう、あまり無理はしないでね」笑顔が少しぎこちなかったかもしれない。
「あんまり子供扱いしないでよ、アリサ姉ちゃん。ヒバチもヒバリナ姉ちゃんも、自分で選んでここにいるんだから」
「そうです。私たちがここに居られるのも、あのお方のおかげですから」
そう思えるだけで幸せな娘たちだ。
アリサは珍しくその艶めいたりんご髪を撫でた。子供特有の柔らかさに自然と指が通って、思わずくしゃっとしてしまう。それがくすぐったいのか、おかげでヒバチの表情が少しほころんだ。
視界の端に黒い車が止まった。
「さ、私たちもいかなくちゃ」
第二章 自堕落は幸福の一歩手前かもしれない
チヌークに揺られて一時間。
「夢子ちゃん、これはいったいどういうことか説明してください」
数枚の報告書を机にひるがえすと、天音御白は額に手を当てて深々と溜息をついた。聡明なプラチナブロンドの髪と分厚い銀縁メガネ。ダークブルーのスーツに赤色のリボンタイ。その細い体躯からして、一見すれば良家のお嬢様。それをくわえタバコ一本で一気に台無しにしていた。
そこはどこか事務所だった。表彰状とトロフィが豪奢に飾られた一室。そして向かい合わせの長ソファーにはそれぞれ真彦とあくびをかみ殺してる夢子。
天音の隣には軍服の背の高い男が一人。
「これ、鑑識に回してください。あと医療担当者にも口止めを」
彼女がその報告書を軍服の男に渡すと、ハッと慇懃な敬礼をしてせせこましく部屋を出ていった。三人のどんよりとした空気に耐えられなかったのだろう。
どこまでも靄がかかったようにタバコのにおいが蔓延ってる。パチンコ屋の方が活気がある分、幾分かましかもしれないーーけどやっぱりそんなこともなかった。あそこにいる老若男女の銀玉の行方に対する一喜一憂を見て、活気という言葉を見いだせるほどにはまだまだ人生を堪能しきってはいない。
「そうかっかしないでよ。三十路を過ぎて余裕がなくなってきてるんじゃない?」
「私はまだ二十九です! 夢子ちゃんもあと数年で同じ気持ちになるんだから‥‥‥そうじゃなくてっ」
机が少し歪んだのは気のせいだろうか。
「鑑識なんて必要ないでしょ。どうみても銃殺なんだから」
「必要はあります。誰がどの弾丸で亡くなられたのかを調べる必要があります」
やはりーーと真彦は夢子に視線を向ける。
「夢子ちゃん、あなたの個人名義で注文している狙撃銃があったはずですが、その弾丸と今回の被害者たちの弾丸が一致してしまうことはありませんよね?」
そういって天音が提示してくるのは一枚の写真。そこに写るのはなんだか見覚えのある建物と狙撃ポーズの夢子。
「最近の人工衛星のカメラ精度って凄いんです。数年後には個人情報なんて概念がなくなってしまうかもしれません」
「これだから技術の進歩というのはまったく煩しいね」
「死者五名、重軽傷者八名。見事な手際ですーー夢子ちゃんの撃った弾丸が前者からでてこなければの話ですが」
でてこないから安心して、と夢子はくすくす笑った。
「大したもんでしょう? あの少女も相当腕のたつ娘だったけど、でも少し無茶がすぎる」
「なにが大したものですか! あんな短い距離をあんな大口径で人を撃ったら普通死んじゃいますっ」
「うむ、やはりへカートは私には合わないな」
へカートⅡーー超長距離対物ライフル。そういえばお届け物と言って受け取っていたものが見当たらない。
「‥‥‥それ、どうしたの?」天音が恐る恐る聞いた。
「おいてきた」
「捨て犬感覚で置いてこないでくださいっ」
へカートなんてどんなルートで仕入れたのよ、と天音は目を見開いて夢子を睨みつける。程なくして大きく溜息を吐くと、備え付けの電話機を取った。
「天音です。現場屋上の銃器の回収もお願いします」ガチャリと怨念がましく音を立てて受話器が降ろされた。
灰皿の中身が舞う。
視線が舞う。
「真彦くん!」標的が変わった。「あなたも他人ごとじゃないのですから、何をよそ見しているのですか」
「なんで」
「夢子ちゃんの躾係はあなたでしょう」
「そんな本気かジョークか分からないような冗談を言われても」
「本気です。なんのために二人をバディーに組ませているんですか」
「いやいや、僕に何を求めてるの」
「真彦君にそれ以外で何を求めるんですか」
傷ついた。普通に。
ていうか夢子の怒るところじゃないか? これ。
一応というか、事の流れを説明したところで天音の表情はどんどん暗くなっていった。
「そもそもディスカードを発見した時点で報告してください」
「僕たちにそんな報告義務はないし、それにこっちは任務について何も聞かされずにこんな僻地に放り込まれてるんだが」
「ディスカードは保護対象です。そんなの任務項目になくても軍人ならあたりまえの知識です! しかもあの女の子だって言うじゃないですか」
言うじゃないですか、と言われても。
紫峰依綱。
それがあの少女の名前らしい。