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♠ 12時59分 獣道
ぐらぐらと道の安定しない、いわゆる獣道という奴を突き進むバン。馬南の給水塔は山の奥にあり、ここを抜けないとたどり着くことができないのだ。
「地球が誕生したのって、いつだと思う?」
退屈に痺れを切らしたのは、僕の隣に座る運転手、世田谷である。
「二億年前とか、ビッグ・バンとか、そんな感じの回答で満足します?」
僕はダンディな声の世田谷に負けず劣らずの低い声でそう応えると、人気声優をも彷彿とさせるイケメンボイスで、「いや、十秒前に世界は始まったのさ」そんな哲学的なことをおっしゃった。
僕は、何言ってんのこいつ? と素直な感想は胸中に取り留めておいて、
「十秒前ですか?」
と尋ねた。
「ああ。これはオレが学生の頃に好きだった、哲学の先生が言ってたんだがな。オレたちの世界は十秒前に始まって、今まで体験して来たことってのは、神様が人間に与えた記憶の一部に過ぎないっていう仮説さ」
「ああ……でも、過去には戻れないですし、『今』残ってるのは記憶だけですもんね。もしその仮説が正しければ、なんで神様は十秒前に世界を作ったんですか?」
「それは、今体験しているコトさえもが、誰かの記憶の一部に過ぎないってことを言いたいからじゃないか?」
「何言ってんだこいつ」
「おい! まあ、聞けって。よく言うだろ、『我思う、ゆえに我あり』って」
それは確か、『自分は今、誰かの夢の中にいる存在なのかもしれない』しかし『そう思える自分がいるからこそ、紛いもない自分なのだ』という、哲学者ルネ・デカルトの言葉だ。
「これは誰かの記憶――そうして生きていくことが、今の世界に必要なのさ」
僕は怪訝な目を終始世田谷に向けることとなったが、共感することもあった。誰かの記憶の内であれば――自分がこんな悪夢を見ていても、所詮は誰かの記憶の内の一つだ。裏を返せば、僕はここに思いたくなく、ゆえに僕無しと宣言したいくらいの気持ちだ。つい最近になってからだいぶ楽な生活ができているとは言え――終末前のような、貧乏ながらも幸せだった日々には戻れないのだから。
「世田谷の言いたいコトはつまり、私たちが死んだとしても、死んだ人間は誰かの心で生きていくとか、そういうニュアンスだろ?」
口を開いたのは、静聴していたレヴェッカだった。
「そう。そういうことよ! な、レヴェッカ」
だが、それ以降は喋ることは無く、冷めきった空気のまま……給水塔目前で、ガコンと音を立ててバンは急停止する。どうやら、大きな岩に躓いて、旋回するのも困難らしい。
「……歩くぞ」
世田谷はハンドルを離して、「お手上げ」のポーズを取った。
♠ 13時33分 馬南小学校、二年一組
本来ならば四時限目の授業はアンナではなく、相馬が担当する保健体育の時間だった。
この時間帯は、サボりがちな信也さえもしっかりと出席してしまうほど楽しい授業らしい――と言うのも、なかなか空き時間のない体育館で球技や体操のできる唯一の時間なのだ。それ以外は、作業に疲れた大人たちの休憩場所となっている。昼休み後は全員が外に出て、再び作業に取り掛かるのだ。
「着替え終わったー?」
純白の下着姿のアンナがそう訊くと、教室内で体操着をまとった二人の少女は短く頷いた。男子諸君は下の階で着替えている。
「じゃあ、体育館に移動しましょうか。って、ひとみちゃん、運動するのにぬいぐるみ、持って行かないよ?」
この一年間による影響でやや精神面が病弱な傾向にある少女、江藤ひとみ。彼女は熊のぬいぐるみを抱きしめたまま、
「ううー」
威嚇するように、喉を鳴らした。アンナは笑みを浮かべ、ひとみの目前で腰を下ろす。目線を下げて、「ひとみちゃん……」まだ年も幼い少女の名をつぶやくと、
「あ、先生! 大丈夫です、いつも江藤さんは、このまま授業を受けてましたから……っ」
激しく胸を上下に揺らしながら、寧音はひとみの前に立った。まるで、洋服の着替え方も解らない少女を庇護するように……アンナにぺこぺこと頭を下げる。
「そ、そうなの!? ごめんなさい、ひとみちゃん。わたし、この授業初めてだから……」
「いえ。大丈夫です。それより先生も早く着替えてください」
寧音はひとみの頭を撫でた後、手を握って教室から出て行った。ぽつんと一人遺されたアンナは深い深いため息を吐いて、「難しい……」つぶやき、椅子の背もたれに賭けられた紺色のブルマに手を掛けた。
「座学担当のわたしからしたら、本当に克ってすごいと思う……」
体育館にはすでにエルツの姿があり、彼はバレーのボールをバスケットのボール代わりに、ネットに入れたり、ドリブルしたりと遊んでいた。男性の体操着は上下ジャージで、近隣の中学校から拝借したものだ。
「おそーい。ってか、今日は眞鍋先生が体育の担任なの?」
寧音とひとみは一歩、体育館の中に足を踏み入れる。
「うん、そうみたい……」
「レヴェッカおねえ……」エルツが何かをレヴェッカと言う名に付け加えようとしたが、取り繕うように瞬きして、「レヴェッカさんと一緒に、給水塔に向かったから?」
「あれ? エルツくんもあの場にいたよね? そう、相馬先生は今……」
言おうとして、寧音は唇をぎゅっと噛んだ。体育の授業が嫌なんじゃなくて、相馬克のことがとにかく心配だったのだ。
寧音の元からするりとひとみは離れると、すぐに大きな体育館の端っこで小さく丸まりながら、熊のぬいぐるみと戯れている……。これも寧音から言わせてみれば、「いつものこと」だ。
「ところで、信也くんはどこにいるの?」
寧音は広々とした体育館を見渡したが、いつも授業を楽しみにしている信也の姿はない。ステージの真横はボールなどが保管された体育倉庫になっているが、そこを覗いても、あのやさぐれた少年の姿はなかった。
「あいつ、三時間目に抜け出してから全然見かけないんだ。ついに、身体を動かすのも面倒になっちまったか」
「それはないでしょ~。あの人、いっつも体育の授業だけは楽しみにしてたし。昼寝、昼休み、体育が俺の三大原則だなんて、そんなこと言ってたもの」
「原則の意味さえも解っていなさそうな口ぶりだが、確かに体育は信也の人生と言っても過言ではない。暇さえあれば、他の家族の子供たちと外で鬼ごっこしたり、キャッチボールをするような男だからな」
遅れて、アンナが到着する。体育の授業が開始されると同時に、広い館内の扉には一人の男が立っていた……剥げた頭が印象的な、いわゆる『校長先生』である。彼はでっぷりとした体形を維持したまま、ステージの上に移動。ひな壇の上に座り込んで、じぃっとアンナたちの姿を見詰めていた。
「ああ、いつも体育の時間になると来るんだよ、狭川校長。授業をしっかりやってるかの『監視』だそうだ」
ステージの上に座り込む気味の悪い笑みを浮かべた校長と、アンナは目が合った。
「ま、相馬先生が言うには、桑原の発育のいい胸が揺れるのを見学しに来たって話だがな」
「ちょ、ちょっとエルツくん! それってどういうこと!?」
寧音が顔を真っ赤にしながらエルツに指さすと、それに応えるように、人目を惹く巨乳がたゆゆんと揺れたる「それだよ、それ」肩まで掛かる茶色の長髪を払い、エルツは涼し気な表情を見せた。