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♠ 12時40分 馬南小学校旧校舎、食堂
「全員、注目してくれ」
嫌われ役のレヴェッカが、食堂で仲良く肩を並べるカップルや、生き残りの家族。疲れ切った馬南近辺の生存者たちの前に立つと、背筋がピンとなる低い声を上げた。
住人や、他県から仕事で来た人たちによってほとんどを構成した、『馬南の生き残り』たち。それらは配給されたジャガイモを頬張る手を止めて、コップに入れられた水を一口、飲み込んだ。
「待て。水を呑むんじゃない」
「は? 何言ってんだい、急に。暑すぎて頭がおかしくなったのかい?」
まだ春の陽気が消えうせないのか、と、皮肉めいた発言をレヴェッカにぶつける住人。冬を超えたばかりの彼らにとっては梅雨明けの今が嫌な季節だ。とは言え、まだ気が早い。この程度で暑すぎてへばっているくらいなら、レヴェッカに軍人の二文字は務まらないだろう。
「ここの水が、汚染されている可能性がある。私たちは今から、給水塔に向かい現場調査をする」
水が汚染されている、と聞いて、すでに口に取り入れてしまった人たちからざわめきの声が漏れだす。
木造の校舎、職員室から数歩歩いた場所に位置するここ、児童用食堂は、電気に頼らない構造になっており、広く上に抜けたガラス張りから溢れる日光は勇気を与えてくれる。だが、夜は暗い。レヴェッカは厨房のおばちゃんに、一杯の水を受け取って、それを太陽が昇る真上へと持ち上げた。どことなく……赤みがかっている。とは言え、本当に気にならない程度だが、水によって何度も命を奪われた瞬間を目にしたこの場にいる生存者は、「マジかよ……」落胆の声を上げた。
「給水塔って、米軍の方々が管理しているんじゃないのですか?」
レヴェッカから一番近い席に位置する、制服を着た少女――確か名前は、桑原寧音だったか――が、小さく手を上げて訊いた。それに便乗し、一番真後ろに座っていた、工事現場から作業着を間借りしたかのようなオヤジが、
「そうだそうだ! 何やってやがる! お前たちのせいだぞ!」
コップを片手にして、粘っこい唾を飛ばした。
「ちょっと飲んじまったじゃねえか! どうしてくれるんだよ、明日にでも死者になっちまったら……。うっ、なんだか気分が悪くなってきたぜ」
「御手洗さん、落ち着けって。すまねえな嬢ちゃん、続けてくれ」
なだめる、同年代の父親――彼には家族がいたから、これ以上怯えさせないように声を掛けたのだ。
「私は今から、給水塔に向かう。これは私たち米軍の責任だから、私一人で構わないが……物資の調達もついでに行おうと思う。何か、希望はあるか?」
再びざわつく食堂内。次から次へと欲しいモノを上げていくが、それらすべてがないモノねだりである。酒、すでに漁り尽くした。綺麗な飲料は、すべて校長が保管している。洋服店は火事によって、一つの店が灰となった。
「何もない。だから、今あるものを使いながら生きていくしかない」
レヴェッカは、腕を組んで目を瞑った。
「それに、もしあったとしても私一人ではどうにもならん。運ぶべき人材が必要なのだ」
「ホラ見ろ! 所詮はお前ひとりじゃどうにもなりゃしない」
野次を飛ばすが、手伝おうと言う人は一人として現れなかった。全員が全員、自分のことでいっぱいだったのだ。木を伐り、補強し、それを派遣された大工たちに手渡す。先のパンデミックではなく、震災によって失われた住宅を再建するためだ。少なくとも自分たちの働きは、自分たちのため。赤の他人である米軍のことなど、知ったこっちゃないのだ……。
「お前たち米軍は、世界がこんな風におかしくなっても基地内でぬくぬくと美味いもん食って、俺たちのことなんて軽視してたんだ……! それが今になって、平和条約だの、日本人の救済だの――」
作業着の男は、さらに声を張り上げ、興奮で立ち上がった。鋭く低い声の威圧は、その場にいた少年少女たちを怯えさせる。
「だったら、初日から――一年前から助けに来いよ……! 俺はおふくろも、娘も、カミさんも、全員ッ……! 全員ゾンビになっちまった。だから俺がトドメを刺したんだッ。うーうー声を上げながら死を待ち呆ける生きた屍を、この手で、絞殺し、突き落とし――そして、心臓を抉った」
だが、今は必要ない。なぜなら終わったからだ。世界中に(まだ一部では投下されていないが)撒かれた抗菌物質のおかげで、感染者として生きた屍と化したそれらは沈静し、外を出歩くことさえもできなくなった。そして、我々生存者に感染していた菌の99パーセントが死滅。つまり、死んだとしてもゾンビにはならない。
「寝ても覚めても、あの日のことが忘れられないんだぜ、俺は。みんなもそうだろう?」
会場は、静まり返る。ほんの数百人という小さなコミュニティは憔悴に溢れており、誰も肯定しないが否定もしなかった。ただ、早く終われ。誰かが言ったわけではないが、そんな声が聞こえる気がした。
「それは全員が同じことだ。私だってそうだ。死んでいった仲間がいる。だからこそ、今度は死なせやしない。その確認も兼ね、給水塔へ行く。だから頼む――」
レヴェッカが日本に来て初めて知った、『最高上位』の謝罪。綺麗にワックスを塗られた床の上にしゃがみ込み、頭を深々と下げた。
「私と一緒に、給水塔に来てほしい」
彼女の土下座も、懸命な意思も、通用しない。それは解りきっていたことだ。思った以上に生存者は憔悴し、返事もままならない。水だ。水さえあれば……。信用を取り戻すためにも、水が必要なのだ。
「僕が、行きます」
つい二分前ほどこの食堂に到着した、今年で二十になる青年。相馬克――その柔らかな声色からは、容易に優しさを想像できる。彼の印象はそれだけではない。いつも、三階の窓ガラスが割れた教室で居眠りをしている。本人曰く、「風が心地良いから」だと。
「本当か? 相馬クン」
「克……っ」
レヴェッカと、食事中のアンナが同時に言葉を重ねた。
ぴたりと芋を持つ手を止めた、作業着の男。
「おい! 勝手なことしてんじゃねーよガキが! お前は教師だろ! 子供たちに勉強を教える立場だろうが!」
「そ、そうですけど……。だったら、御手洗さんが行きますか?」
その提案には、強情なこの男も苦虫を噛み潰すかのような表情を浮かべ、
「じょ、じょ、冗談じゃねえやぃ! それに、校長には許可を取ったのか!」
「ええ。僕もレヴェッカさんと同じように申請したら、すでにレヴェッカさんが報告に来たって言ってました。なので、僕もレヴェッカさんのお手伝いをしようと」
「克、でもこの後、体育の授業が……」
アンナが不安そうに声を掛けて来た。『体育』は相馬の担当であり、昼休み後の定番の授業で合った。
相馬が片膝を折り、アンナの顔を見据える。最後の一日を生き延びたあの時とは打って変わって、彼女は美しい顔に戻っていた。
「大丈夫だ。もう敵はいない。アンナは子供たちに、しっかりと勉強を教えてやってほしい」
「でも、でも……」
アンナはテーブルの上にフォークを置くと、反対側の席に座った眼鏡の少女の顔を伺った。
「相馬先生なら大丈夫だと思います」
その隣に座っている少年、エルツは、
「だったら、ついでにマンガとか持ってきて欲しいね。ここに置かれてる本は、みんな読破しちまった」
生意気だが、確かにその目は相馬克を信頼している。彼がこのコミュニティで何をしたのか、それまでの終末での過ごし方は、レヴェッカにはまったく解らない。だが、今は猫の手も借りたいし、藁にも縋りたい。
「了解した、相馬クン、私と一緒に来てほしい」
「あと、もう一人。はるきゃん、って言えば解るかな……新島春尾。彼も一緒に同行させる」
アンナは「はるきゃんも行くの?」と声を上げた。
「いや、任意同行ではあるけどさ。たぶん、断らないよ」
これ、内緒な。相馬は片目をつむって、レヴェッカに耳打ちした。
「了解した。では、私と相馬クン、はるきゃん、そして世田谷の四人で向かう。私からは以上だ。皆、昼食を楽しんでくれ」